【第二巻】第三章 手の出せない土俵(一)
麦月八日、大闘技場が下見のために開放された。
出場者は本戦の舞台を、従者は控えの動線を、それぞれ確かめておけという趣旨である。実に親切な制度だ。俺にとっては、絶望を前倒しで配達してくれる制度でもあった。
中に入って、まず声が出そうになった。
石の環の内側は、外から見るより一回り大きい。すり鉢状の観客席が空まで積み上がり、底に楕円の舞台が白く乾いている。音が、変だった。舞台の中央で係員が手を叩くと、その音が観客席の最上段まで、ほとんど痩せずに届くのが分かる。後で知ったが、これは設計だという。石の段の角度が音を運ぶ。二百年前の建築家は、剣戟の音を六万人に配達するために、この鉢の傾きを決めたらしい。
六万人に音を配る器。それが、あいつの審査会場である。
「ヨウタ、走っていいか」
「駄目だ」
「少しだけ」
「駄目だ。下見だぞ」
入場して三歩で駆け出しかけた男を、俺は襟で回収した。八つの頃から変わらない反射である。広い場所を見ると走る。犬と同じ理屈で、犬より背が高い。
「すごいな、ヨウタ。ここの真ん中に立つのか」
「立つのはお前だ。俺は客席だ」
「客席のどのあたりだ」
「西の中段。日が背になって、舞台が見やすい」
「もう決めてあるのか」
「席取りは従者の本分だ」
「さすがだ。……なあ、声はあそこまで届くのか」
あいつが指したのは、最上段の、旗がまばらに立つ帯だった。安い席だ。遠くて、風が強くて、それでも祭りの日には真っ先に埋まるという。
「届くらしい。この鉢は、そういう風に切ってある」
「そうか。届くのか」
あいつは、それだけ確かめて頷いた。誰に届けたい声があるのかは聞かなかった。聞かなくても、たぶん「全員」である。あいつの声は昔から、配達先を選ばない。
本分はもう一つあるのだが、そちらは口にしなかった。西の中段は舞台が見やすく、そして、観客席の全体と、関係者口と、貴賓席が同時に視界に入る唯一の帯である。見やすい席とは、見張りやすい席のことだ。
だが、本日の主たる収穫は、席ではなかった。
舞台の四隅に、それはあった。
背の高い青銅の柱。先端に、拳大の水晶が嵌まっている。係員が誇らしげに説明して回っていた。いわく、「公正の目」。いわく、五年前から導入された監視の魔導具で、舞台の上のあらゆる術式の発動を感知し、種別と出所を記録する。外からの干渉――観客席からの投擲、術、合図――も同様に感知する。祭りの公正は、この四本が保証する。いわく、導入以来、不正の検挙は三十七件。誤検知は、ゼロ。
俺は柱の一本に歩み寄り、他の見物人に混ざって見上げた。
水晶の中で、青い光がゆっくり回っている。回る速さが、近くを通る人間の歩調に合わせて微妙に変わる。感知の網は舞台の上だけではなく、この建物全体に薄く張られているらしい。目の粗い網だが、粗いなりに、全部を見ている網だ。百の目を持つ番人の話がある。あの番人は眠る時も、半分の目は開けていたという。この四本は、そもそも眠らない。番人より、たちが悪い。
なるほど。
俺は網の目を確かめるのをやめ、見物人の顔に戻った。
誤解のないように言っておくと、俺は不正をしに来たわけではない。ただ、俺の本業は「起こるはずのない番狂わせを、誰にも見えない場所で起こす」ことである。落石は自然に落ち、賊は勝手に仲間割れし、魔物は都合よく道に迷う。三年かけて磨いた技術の目録は、要するに全部、裏方の仕事だ。
そして裏方の仕事は、舞台袖があって初めて成立する。
この闘技場に、舞台袖はなかった。
あるのは六万の目と、四本の「公正の目」と、白く乾いた楕円だけである。ここでは落石は落ちず、賊は割れず、魔物は迷わない。起こることの全部が、起こったとおりに見られ、記録され、講評される。
「――というわけで、本日の見所は動線の確認です! 選手入場口はあちら、東西に控えの間、医務所は北。従者の皆さんは荷運びの順路を覚えてくださいね」
案内係の声が、鉢の底からよく通った。手を挙げて聞いてみる。
「観客席は自由席ですか」
「桟敷以外は早い者勝ちです」
「開門は」
「開幕日は夜明けと同時。いい席が要るなら、その前から並ぶことですね」
「並びます」
「毎年そういう顔の従者さんが、夜明け前の列の先頭にいますよ」
「差し入れの持ち込みは」
「膝掛けと湯冷ましまで。それ以上は商売敵になりますので」
同業者の顔というものがあるらしい。光栄なような、複雑なような評価である。
従者たちの動きが変わった。ここからは俺の同業者の時間である。実況しよう。各陣営の従者、荷運びの順路を確認と見せかけて、実際に確認しているのは翌日以降の席と物資の経路。おっと、東の三人組、医務所の位置を三度も確かめている。主人の戦い方に自信がないと見た。西の老従者は動かない。動かずに全体を見ている。あれは強い。実況に解説、観客はゼロ。俺の脳内は、いつでも祭りの前日である。
順路を覚えながら、頭の中で別の帳簿を開いていた。
開いて、すぐ閉じた。
書くことがなかったのである。俺の帳簿は「どこで」「何を」「どう見せずに」の三列でできている。この建物は三列目を消しに来ていた。「見せずに」が存在しない設計。二百年前の建築家と五年前の魔導具師が、時代を超えて手を組み、俺の商売を丁寧に廃業へ追い込んでいる。
「ヨウタ、どうした。難しい顔をして」
「音の設計に感心してた」
「そうか! 俺は今、猛烈に感動してる」
あいつは舞台の中央に立って、空を見上げていた。
「真ん中に立つと、どんな気分だ」
「試されてる気分だ。……いや、違うな。見てもらえる気分だ」
あいつは一度目を閉じて、開けた。
「ここは、隠し事のできない場所だ」
どきりとした。
「音は全部届く。目は全部注がれる。……いいところだな。ここで勝てば、誰の目にも本当だ。書類なんかより、ずっと正直だ」
隠し事のできない場所を、いいところ、と言い切る男。俺の隣にはそういう男が立っていて、俺はそういう男の隠し事を一人で抱えて、この隠し事のできない場所に来ている。この構図に名前をつけるなら「詰み」が近い。近いが、採用はしない。詰みは、投了する者の語彙である。
下見の帰り、俺たちは装備の点検に回った。
武闘祭の規定で、本戦の得物は「刃引きまたは術による安全化」が義務である。ジェスターの長剣は騎士学校仕込みの手入れが行き届いていたが、刃引きの加工は王都の鍛冶に頼む必要があった。紹介された鍛冶屋は闘技場の裏手に軒を連ねていて、どの店先にも「祭り価格」の札が出ていた。祭りというのは、どこの世界でも物価の別名である。
三軒目の親父が、ジェスターの剣を一目見て眉を上げた。
「いい刃だ。誰の手入れだい」
「俺だ。師匠に習ったとおりにやってる」
「毎日か」
「毎日だ。研ぎは十日に一度、油は使った日の夜に」
「聞いてないことまで答える奴だな」
「剣の話は、つい嬉しくてな」
「……近頃の若いのは、勝つ工夫ばかり買いに来る。手入れは金で買うもんだと思ってやがる。あんた、逆だね。気に入った」
親父は祭り価格の札を裏返し、普段の値で請けてくれた。刃引きは明日の夕方に仕上がるという。手入れを褒められたあいつは、店を出てからしばらく無言で、口の端だけがずっと緩んでいた。強いと言われるより、丁寧と言われる方が効く男である。
その鍛冶屋通りの角で、俺は妙なものを見た。
全身甲冑の男が、鍋を買っていた。
兜から脛当てまで完全武装で、籠手の指先で銅貨を数え、店の親父に「祭りの間は自炊に限る」と語り、背中の大袋に鍋を差している。周囲の誰も驚いていないので、常連らしい。装備と用件の縁が一枚も繋がっていない光景というのは、見ていて妙に癖になる。
すれ違いざま、兜の奥から声がした。
「従者どの。いい主人を持ったな」
「……分かるんですか」
「腰の刃の吊り方で分かる。手入れのいい剣は、いい音で歩く。――ではな」
甲冑は鍋を鳴らして去った。剣は歩く音で分かるらしい。俺の包丁は何と歩いているのだろう。
「ああ、『鍋屋の騎士』だな」
ジェスターが当然のように言った。今のやり取りを見ていたらしい。
「知ってるのか」
「さっき鍛冶屋で聞いた。毎年武闘祭に出て、毎年一回戦で負けて、毎年鍋だけ買って帰る人だそうだ。甲冑を脱いだ顔は誰も知らないらしい」
「……それはつまり、素顔を隠して出場してるのと同じじゃないか」
「そうなるな。でも仮面じゃなくて兜だから、無名戦じゃなくて本戦なんだと」
仮面は駄目で兜はいい。制度というのは、どこかに必ず、こういう可笑しな縫い目がある。俺は鍋屋の騎士の後ろ姿を見送りながら、縫い目、という言葉を頭の隅に留めた。
宿への帰り道、夕日が大闘技場の環を裏から染めていた。
「あの水晶、綺麗だったな」
「検挙された三十七人は、そう思ってないだろうよ」
「三十七人も悪いことをする方が悪い」
「お前は分かりやすくていいな」
「褒めてるのか」
「褒めてる」
正論である。正論なのだが、俺の胸の内側のどこかが、三十七人の名簿の隣に、まだ書かれていない三十八行目を見ている。見てしまってから、俺はその頁を閉じた。
どんな網にも、縫い目はある。
公正の目の網に、それがないと考えるのは、たぶん、二百年前の建築家に対しても五年前の魔導具師に対しても、少し礼儀を欠いた想定である。




