第二章 天災的旧友(三)
その夜、城壁際の長屋に帰った俺は、寝台に転がる代わりに、卓に紙を一枚広げた。
家賃は月に銀貨一枚。寝台と卓と竈で部屋の九割が埋まる住まいだが、雨漏りは俺が直したので一滴も漏らない。技能の私的流用である。誰にも請求していないのは、いつも通りだ。
物事を決めかねたときは帳簿をつけろ、というのが婆ちゃんの遺した数少ない実用的な教えである。左に支出、右に収入。感情を数字に直せば、答えは勝手に立ち上がってくるのだそうだ。
題目。ジェスター・クラウンのパーティに加入すべきか。
まず支出の部。
一つ、早朝業務の自由が制約される。相棒というものは、こちらの夜明け前の外出をいずれ不審に思う。一つ、露見の危険が跳ね上がる。至近距離で毎日観察されて、三年保った猫かぶりが何年保つか。一つ、演技の工数。手加減には集中力が要る。F級の芝居を、これからは戦場でやることになる。一つ、心臓に悪い。あの善意の直射は、浴び続けると寿命に障る気がする。一つ、朝の経営に共同経営者が増える。共同経営者というものは経営方針を訊いてくる。なんで夜明け前に森にいるんだ、と。想定問答を三通り作ってみたが、健全な散歩で押し通すには、これからの散歩はいささか血腥すぎる。
書き出してみると、我ながら立派な赤字である。
次に、収入の部。
一つ、あいつが飯を残さず食う顔が見られる。
一つ、十年ぶんの話の続きができる。
一つ、あの村の話をできる相手が、この街に一人増える。
一つ、コイントリックのタネの検分ができる。十年もあれば、新作の一つも増えているかもしれない。
……待て。
どれも数字にならない。帳簿というものは両側が金額で埋まって初めて帳簿なのであって、片側に「顔」だの「話の続き」だのが並んだ紙は、ただの手紙である。経理として失格だった。婆ちゃん、あんたの孫は、帳簿を手紙にしてしまう男に育った。
結論、加入。
思えば、婆ちゃんの教えは最初からそういう仕組みだったのだろう。数字に直せない項目が片側に並んだ時点で、答えは出ている。数字で決められることなど、人生にはそれほど多くないのだ。
なお、収支表の欄外に、一行だけ書き足しておいたことがある。隣にいる方が、守りやすい。これは収入でも支出でもなく、たぶん俺の職業病である。
紙は竈で燃やした。証拠隠滅も、裏方の基本だ。
翌朝のギルドで、手続きは滥りなく進んだ。滞りは、なかったのだが。
「パーティ名の欄が未記入です」
窓口のミエルさんが、書式を指先で叩いた。
「決めてなかったな。ジェスター、何かあるか」
「『不撜不屈』はどうだ」
「却下だ」
「『暁の誓い』」
「朝が早そうな名前はやめろ。実際早いんだ」
「じゃあ『鉄壁の誓い』」
「守る気が滂み出てる」
「滂むだろ、そりゃ」
「滂ませてどうする」
「じゃあ『ヨウタとジェスター』」
「順番はともかく、そのままか」
背後の待合から、聞き覚えのある声が割り込んだ。
「『ドヤール隊その二』を名乗る権利なら、恵んでやってもいいぜ」
「いらない」
「即答かよ」
ドヤールは傷ついた顔で掲示板の方へ去っていった。その一はどこにあるのだろう。
悩んでいると、ミエルさんが事務的に言った。
「未記入の場合、台帳的には『ジェスター・クラウン隊(その他一名)』と登録されます」
「その他の枠は俺か」
「先例に従いました」
先例とは、二年間『その他』で生きてきた俺自身のことである。行政の一貫性に文句はつけられない。結局、名前は保留のまま受理された。保留の多い受付である。保留の在庫がどう管理されているのか、いつか台帳の裏側を見せてもらいたいものだ。
「それと、これなんだが」
ジェスターが懐から、折り畳んだ紙を取り出した。開くと、几帳面な字がびっしり並んでいる。表題に曰く、『パーティ規約』。
「ゆうべ書いた。目を通してくれ」
第一条、報酬はすべて等分とする。
第二条、危険な役目はジェスターが引き受けるものとする。
第三条、ヨウタは無理をしないものとする。但し書き、無理であるか否かの判定はジェスターが行う。
「第三条の但し書きはなんだ」
「お前は自己申告が信用できないからな。熱があっても平気だと言う」
「七つの時の話を判例にするな」
「判例は古いほど重いんだぞ」
「どこの法学だ」
言いながら、俺は第二条と第三条を眺めた。契約書の体裁を借りた、一方的な保護条約である。国と国なら戦争になっている。
「修正動議を出す。第二条、危険な役目は『相談の上』分担する」
「却下だ」
「議長が偏ってる」
「議長も書記も俺だからな」
「独裁じゃないか」
「独裁でも、第一条は守る」
「……第五条はないのか」
「ある。第五条、緊急時は互いの判断を尊重する」
「まともだな」
「第六条、装備の点検は出発の前夜に互いに行う」
「まともだ」
「第七条、誕生日は祝う」
「条文に入れることか、それは」
「入れておけば忘れないだろ」
「規約の私物化だ」
私物化された規約は、しかしおそらく、世界のどの条約より誠実に履行される。起草者の顔を見れば分かることである。
等分、のところだけは一歩も引かない顔だった。保護条約のくせに、対等の条文だけが真っ先に来ている。この規約の起草者は、たぶん自分の矛盾に気づいていない。気づいていないところまで含めて、あいつの書いた規約だった。
「第四条を追加しろ。夕飯は、なるべく一緒に食う」
俺が言うと、ジェスターは目を見開いて、それから羽根ペンを走らせた。
「可決だ」
「早いな議会」
「いい条文は審議が要らない」
ミエルさんが証人欄に判を押して、規約は成立した。
「なお、こちらはギルドの正式書式ではありませんが、覚書として綴じておきます」
「保管するのか」
「紛争時の証拠になりますので」
「紛争するのか、俺たちは」
「第七条あたりが争点になるかと」
誕生日を祝う祝わないで法廷に立つ日が来たら、その時は弁護士を雇おうと思う。ともあれギルドの台帳に、パーティ名未定の二人組が一つ増えた。
手続きの間、待合の方から、ひそひそ声が聞こえていた。主席様がなんだって荷物持ちなんかと。物好きだねえ。声というものは、聞かせたくない相手にほど届く設計になっている。
ジェスターは顔を上げ、待合に向かって、演説でもするような真面目さで言った。
「昔の騎士には、従士がついたんだ」
ひそひそ声が、面食らって止まった。
「武具を運び、馬を世話して、戦場では騎士の背中を預かる。従士の働きが悪ければ騎士は死ぬ。だから騎士学校では最初にこう習う。従士なくして騎士なし。――荷物持ちってのはな、騎士の伝統じゃ誉れある職なんだぞ」
言い切って、あいつは満足そうに頷いた。待合は静まり、誰かが気まずそうに咳をした。
なお、演説の間じゅう、あいつは例の規約を胸の前に掲げたままだった。法典を捧げ持つ聖人像の構図である。ありがたさと恥ずかしさというものは、たまに見分けがつかない。
やめてくれ、という感想と、ありがとうよ、という感想が、胸の中で場所を取り合った。俺の職業に誇りを持っているのは、この街であいつ一人である。当の俺より先に、である。
「ちなみにだ、ヨウタ。従士は数年務めれば、騎士に叙される道もあるんだぞ」
「俺は結構だ」
「今はな。その気になったら言え。推薦状なら何枚でも書く」
「十七枚とか書くなよ」
「善処する」
善処しない顔だった。
「お待たせしました」
ミエルさんが、一枚の紙を差し出した。
「初回のご依頼、こちらが受注票になります」
――カルタ大森林西部、ゴブリン巣穴の掃討。推奨等級、C。
「巣の規模は?」
ジェスターが訊くと、ミエルさんは帳簿をめくった。
「斥候の報告で二十前後。ただし三日前の数字です」
「三日あれば増えるな」
「増えます。ですので推奨C級です」
それから彼女は、俺を見た。正確には、俺の反応を見た。
「サイキ様、何か」
「いや。頑張るなあ、ゴブリン」
「……そうですね」
彼女の視線が、受注票と俺の顔の間を一度だけ往復した。台帳係の目盛りが、また一つ動いた気がする。
初手から歯応えのある難度だった。新人の顔見せにゴブリン退治とは、依頼の斡旋にも様式美というものがあるらしい。
受注票を眺めるジェスターの横顔は、出陣の騎士のそれである。十年待った初陣がゴブリンの巣穴だと知っても、あの横顔は一寸も値切らないのだろう。
その隣で俺は、夜明け前の森の段取りを、もう頭の中で組み始めていた。




