第二章 天災的旧友(二)
夕方の鈴鳴り亭は、まだ客もまばらだった。
窓際の卓に、俺とジェスターは向かい合って座っている。卓の上には煮込みが二皿。運んできたバラッドは「ごゆっくり」と言ったきり、カウンターの奥で杯を磨いている。磨きながら、耳だけこちらに貸しているのが分かる。この店の主人は、噂話の仕入れに関しては市場のどの卸より早い。
夕陽が窓から長く差し込んで、卓の木目を蜂蜜色に染めている。十年ぶりの再会の舞台としては、上等の部類だろう。少なくとも漆喰とバケツの広場よりはましだ。演出家も、昼の件を多少は反省したらしい。
「まずは村の話を聞け。長老の孫娘が嫁いだ。相手は粉屋の次男だ」
「あの泣き虫の?」
「もう泣き虫じゃないぞ。三人の母だ」
「時の流れが仕事をしてるな」
「それからな、例の裏山の栗の木が、去年の嵐で倒れた」
「……あの木が」
「ああ。村中で栗を拾って、三日栗づくしだったらしい」
「弔いなのか宴なのか、どっちなんだ」
「両方だろうな。あの村だし」
「あの村だしな」
それから、と続いた。
「トレモロの町に、大きな風車が建った。……それと、婆様の墓に参ってきた。綺麗だったぞ。村の連中が、代わる代わる世話してるんだ」
「……そうか」
「そうだ」
短い返事の応酬にだけ、二年ぶんの中身が詰まっていた。
弔いなのか宴なのか分からない栗の一件といい、あの村らしい顛末である。フェルマータ村。俺が二年前に出た故郷は、話に聞く限り、俺がいた頃のままの速度で回っているらしかった。
「そっちはどうだったんだ、王都の十年は」
「広かった。あと、飯が薄味だった」
「十年をその二行で済ませるのか」
「大事なのはそれくらいだ。ああ、あと剣の稽古は楽しかったな。強くなるほど、お前を守れる気がした」
稽古の楽しさの基準に他人が組み込まれている男である。ちなみに主席卒の件は、本人の口からは一度も出なかった。噂で膨らんでいく肩書きを、訂正して回る様子もない。興味がないのだ。自分の値札というものに、根本的に。
煮込みが半分になった頃、俺は本題に触れた。
「で、なんで冒険者なんだ。主席卒なら騎士団だろう。花形の」
「断った」
「断った?」
「騎士団は配属先を選べない。辺境希望なんて通らないからな」
「なんで辺境なんだ」
「お前がいるからだ」
即答だった。あまりに真っ直ぐ来たので、俺は匙を持ったまま三秒ほど停止した。
「手紙が、途中から届かなくなった」
ジェスターは皿に目を落として言った。
「婆様が亡くなったところまでは、村の便りで知った。その後のお前がどこで何をしてるのか、知ってる者は誰もいない。俺は王都で、それを二年間考えてた。考えても分からないから、探すことにした。卒業の日に辺境行きを願い出て、モトリーの名簿にサイキの姓を見つけたときは、執務室で声が出た」
「……それで、辺境くじ引きを」
「くじじゃない。願書だ。十七枚書いた」
十七枚。書類仕事における十七枚というのは、熱意と呼ぶには多く、乱心と呼ぶには理路整然としている、扱いに困る枚数である。受理した役人の顔が見たい。いや、見なくても分かる。たぶん今の俺と同じ顔だ。遍歴の騎士というものは、物語の中では竜を倒して姫を救うと相場が決まっている。現実の遍歴の果てに待っていたのが漆喰まみれの幼馴染というのは、詩人が絶対に採用しない類の実話だ。
「なあ、ヨウタ。覚えてるか。お前が七つの年の、あの熱の夜」
声が、一段静かになった。
「俺は隣で、何もできずにいた。医者は首を振るし、大人は俺を部屋から出すし、俺にできたのは祈ることだけだった。あんなに悔しかったことは、後にも先にもない」
「……古い話だ」
「俺には昨日の話だ」
ジェスターは顔を上げた。空色の目は、冗談の欠片も含んでいなかった。
「あの夜から決めてたんだ。今度何かあったら、祈る側じゃなくて、守る側に立つって。そのために十年、剣を振ってきた。だからな、ヨウタ」
嫌な予感がした。この予感が外れた例を、あいにく俺は一つも思い出せない。
「今度こそ、俺に守らせてくれ」
来た。
真正面から、直球で、変化球の存在しない世界から来た。
言っておくが、俺は今、たぶんこの大陸で一番守られなくていい人間である。今朝も夜明け前に狼の群れを間引いてきた。三年前には的を台座ごと消した。守る守られるの図式で言えば、俺の位置は盤の外だ。
盤の外の駒に向かって、あいつは今、騎士の誓いを立てている。誓いを受ける側の資格審査というものを、世界のどこかの役所でやっていてくれないだろうか。書類不備で差し戻してほしい。俺ごと。
言うなら今だった。
頭の中で、文面を三案作った。第一案、率直型。「実は俺は強い」。簡潔だが、証拠の提示に困る。第二案、実演型。店の裏で岩でも砕いて見せる。器物損壊である。第三案、段階開示型。「実はちょっとだけ腕に覚えがあって」から始めて、三年ほどかけて真実まで登る。三年。あいつはその間ずっと俺を守る気でいる。
検討の結果、第一案を採用した。会議時間、二秒。
「ジェスター。その、なんだ。言いにくいんだが、実は俺は――」
「おおっと熱いよ、どきな!」
湯気を上げた鍋が、卓の真ん中に降ってきた。バラッドである。
「追加の煮込み、店の奢りさね。感動的な話にゃ栄養がいるんでね」
「聞いてたのか」
「地獄耳は商売道具さね」
商売道具の割に、勘定に反映されたことはない。反映されたら通う店を考える。
鍋が去った。話の腰は、鍋と一緒に厨房へ運ばれていった。俺の告白、通算一回目、失敗。敗因、煮込み。
「で、なんの話だったか」
「いや、だから、俺は実は」
「分かってる」
ジェスターは深く頷いた。
「分かってない」
「お前は昔から強がりだった。熱が出てても『平気だ』って言う子供だった。無理しなくていい。腕っぷしのことなんて気にするな。守るのは俺の役目だ」
「話が三歩先に進んでる」
「三歩先で待ってるからな!」
いい笑顔だった。俺の告白、通算二回目、失敗。敗因、善意。
撃墜記録は今後も伸びていく予感がした。狙撃手ですらない。あいつは善意の対空砲を、無自覚に、全方位へ撃っている。妨害工作というものは本来、悪意の管轄のはずなのだ。善意でやられると、防御の教本が一頁も役に立たない。
本日の敗因一覧。煮込み、および善意。戦況報告としては間が抜けているが、現場は至って真剣である。
――言えなかった理由を、正直に言えば、鍋と善意だけではない。
十年。あいつは十年、あの夜の続きを生きてきた。願書を十七枚書いて、花形を蹴って、こんな辺境まで来た。その十年の上に「実は俺、最強なんだ」と置いたら、どうなる。あいつが積んできたものを、俺の一言が上から均すことになる。
それが、怖かった。
うまく言えないが、たぶんそういうことだった。力を隠す三つ目の理由に、このとき初めて、輪郭のようなものが生まれかけていた。
「それでだ、ヨウタ。折り入って頼みがある」
ジェスターは居住まいを正した。嫌な予感の二射目である。
「俺と組んでほしい。パーティを」
「俺はF級だぞ。足手まといだ」
「足手まといなんて思ったことは一度もない」
「今日会ったばかりの戦力評価だろ、それは」
「十年ぶんの人物評価だ」
「評価の項目がおかしい」
「報酬の話もある。俺の取り分は荷物持ちの相場で二割だ」
「等分だ」
「話が飛んだな。二割だと言ってる」
「等分だ。ここは譲らないぞ」
「なんでそこだけ強情なんだ」
「対等じゃないと、パーティじゃないからな」
対等。
その言葉が、妙なところに刺さった。刺さった理由を考える前に、あいつは畳みかけてきた。
「それにな、お前はこの街を知ってる。道も、人も、森のことも。俺は昨日来たばかりだ。お前が要る」
理屈まで用意してきている。騎士学校は弁論も主席だったのだろうか。
「荷物持ちくらいしかできないぞ、俺は」
「それでいい」
ジェスターは、なぜか少し笑った。
「荷物持ちにはな、ヨウタ。荷物持ちにしか、できないことがあるんだ」
その言葉に他意はない。あるはずがない。あいつの辞書に他意という項目はないのだ。編纂者に確かめたわけではないが、載せ忘れたのではなく、最初から原稿になかった類の欠落だと思う。
ないのだが――結果から言えば、この台詞ほど正しい予言を、俺は他に知らない。




