第二章 天災的旧友(一)
種月十二日の朝、モトリーの街は妙に落ち着きがなかった。
パン屋の列が普段の倍に伸び、床屋が開店前から繁盛し、広場に面した窓という窓が拭き上げられている。田舎の街に「王都から誰かが来る」という報せが一枚落ちると、だいたいこういうことになる。誰も命令していないのに街全体が身支度を始めるのだから、噂というのは条例より仕事が早い。
俺はといえば、朝から屋根瓦の差し替えを二軒ぶん済ませ、漆喰まみれの前掛けにバケツと梯子という完全装備で、広場を迂回しようとしていた。していた、というのは、できなかったからである。人だかりが広場から通りまで溢れ、迂回路そのものを飲み込んでいた。
人垣の最前列では、見覚えのある金髪が腕を組んで仁王立ちしていた。
「歓迎に来たのか、ドヤール」
「宣戦布告だ」
「花くらい持ってこい」
「ゆうべ考えたんだがな、王都の奴に俺様の名を売る絶好の機会だろうが」
「二つ名はどれで売るんだ」
「『紅蓮のドヤール』……いや待て、初対面の印象なら『泣く子も黙る何か』の方が」
「未完成のまま売るな」
「ライバルの到着を見届けるのは強者の礼儀ってもんだぜ。む、来たぞ」
街道の向こうから、乗合馬車が土埃を立てて近づいてきた。
広場に入ったところで、歓声に驚いた馬が前脚を跳ね上げた。御者は手綱にしがみつき、人垣の前列は悲鳴を上げて後ずさる。俺がバケツを置くより早く――馬車の扉が開いて、誰かが飛び降りた。
旅装の長身が馬の首元へ滑り込み、手綱を取り、耳元で二言三言。それだけで馬は、何事もなかったように鼻を鳴らして落ち着いた。人垣が拍手の形に沸く。
陽の色をした金髪に、よく晴れた日の空の色の目。背は俺より頭半分高い。旅塵で汚れた白い外套の下に、使い込まれた剣帯。歩兵ばかりの盤面に、いきなり女王の駒が置かれたような光景だった。場違いなほど、絵になる。田舎の広場が一瞬で舞台に見え、背景係だったはずの俺たちにまで、照明の余りが届いている。
「王都の騎士様だってよ」
「聖騎士らしいぞ」
「王子様って聞いたけど」
噂は今日も、走りながら太っていた。一昨日の俺の観察が、早くも実地で裏づけられている。当人はといえば、御者に深々と頭を下げ、馬の鼻面をひと撫でしてから、人垣に向き直って一礼した。
「王都からまいりました、新任の冒険者です。若輩ですが、この街のために働かせてください」
肩書きのインフレが一往復して、広場の空気がやわらかくなる。たいした挨拶だ。長さは三行、内容は名刺、それでいて誰も置き去りにしない。ああいうのは学校で習ってできるものではない。
と、他人事の顔で観察していた俺の腹の底で、何かが遅れて音を立てた。
陽色の金髪。空色の目。……待て。
俺はその配色を知っている。十年前から知っている。
男が顔を上げ、人垣をゆっくり見渡した。その視線が、漆喰まみれの俺のところで、止まった。
「…………ヨウタ?」
広場中の首が、一斉にこちらを向いた。
「ヨウタだ! ヨウタだよな!? サイキ家のヨウタ!」
人垣が海のように割れた。割れた道を、王都から来た新任様が全速力で駆けてくる。俺は逃げ場を探した。梯子とバケツを持った人間に、逃げ場などなかった。
「よ、」
「よう、じゃないだろ! 十年だぞ、十年!」
肩を掴まれた。両方である。空色の目が、俺の顔を上から下まで三往復した。
「生きてたか! よかった……! 背が伸びたな! 顔つきも変わった! でも分かった、一目で分かったぞ!」
「お前は変わらないな、ジェスター」
「俺は変わったぞ! 背も伸びたし、剣も強くなった!」
「そうじゃなくて――いや、いい。元気そうで何よりだ」
「お前もな! いや待て、細くないか? 飯は食えてるのか? 宿はあるのか? 布団は?」
「食えてる。ある。ある」
「そうか、よかった!」
安否確認の弾幕である。十年ぶんの心配を三秒で撃ち尽くす気らしい。
「その白いのはなんだ? 怪我か!?」
「漆喰だ。屋根を直してた」
「そうか、屋根を! 偉いな、屋根は大事だ! 雨が降るからな!」
「雨は降るな」
会話の高度が一往復ごとに下がっていくが、あいつの目は終始真剣である。真剣に、屋根と雨の話をしている。この真剣さに、十年前の俺は何度助けられたか分からない。
「ところでその梯子、重いだろう。貸せ、俺が持つ」
「いい。仕事道具だ」
「そうか。じゃあバケツを」
「バケツもいい」
「遠慮するな」
「してない」
こういう男である。十年経っても、こういう男なのである。
ジェスター・クラウン。フェルマータ村の幼馴染。十年前、八つの俺を置いて王都へ行った男が、笑うと目尻が下がる癖もそのままに、目の前に立っていた。
広場のざわめきが、疑問符の形に変わっていくのが分かる。新任様の知り合い? 誰だあれ。雑用屋だろ、F級の。名前なんてあったのか。あったのだ。悪かったな。
十年ぶりの再会というものについて、俺は道中で何度か想像したことがある。夕暮れの街道で、あるいは静かな酒場で、互いの十年を確かめ合う――そういう絵だった。漆喰と、バケツと、街中の視線の真ん中という配役は、どの想像にもなかった。人生の演出家は、たぶん俺に恨みがある。
「すまない、つい大声が……ええと、皆さん、彼は俺の」
ジェスターが人垣に向き直り、俺の肩を抱いたまま宣言した。
「命の恩人の、幼馴染です!」
やめろ。
ざわめきが三割増しになった。
「おい、命の恩人だってよ」
「あの雑用屋が? 何かの間違いだろ」
「あれだ、井戸に落ちたのを引き上げたとかそういうやつだ」
「ああ、そういう」
「そういうことにしとこう」
勝手に審議され、勝手に結審した。ありがたいような、釈然としないような判決である。控訴はしない。
そのとき、人垣の前の方で、幼い泣き声が上がった。押し合いに巻き込まれた女の子が、手にしていた飴を落として泥まみれにしたらしい。母親があやしても、火のついた泣き声は止まらない。
ジェスターは俺の肩を離すと、女の子の前に膝をついた。
「大変だ。飴が土の国に帰ってしまったな」
言いながら、懐から銅貨を一枚取り出す。長い指の上で、銅貨がくるりと躍った。右手から左手へ、転がして、消えて――女の子の耳の後ろから、出てきた。
「あれ? こんなところに宿を取っていた」
女の子が、泣きやんで噴き出した。銅貨はもう一回転して、小さな手のひらに収まった。飴の弁償にしては多すぎるが、あの男はそういう勘定をしない。
ああ、それだ。
十年経っても、そのくせは変わらないのか。
誰かが泣いていると、あいつの手は考えるより先に銅貨を探す。タネも仕掛けも、俺は世界で一番よく知っている。なにせ、あのトリックの最初の観客は俺だった。
ジェスターが立ち上がると、腰の後ろで、ちりん、と小さな音がした。
剣とは反対の腰に、古びた短剣が一振り。柄頭に小さな鈴のついた、装飾ばかりで実用に向かない代物だ。あれも覚えている。あいつの家に代々伝わるとかいう、あの短剣も、十年前のままだった。
「サイキ様の交友関係は台帳の想定外でした」
いつの間にか隣に来ていたミエルさんが、書類の束を抱えて言った。
「先ほどの『命の恩人』というのは、事実として記載してよろしいですか」
「誇張だ」
「では保留にしておきます。訂正の必要が生じなければ、そのときにまた伺います」
保留、というところに彼女の性格が出ている。
「クラウン様。着任のお手続きが残っています。歓迎会の出欠も」
「あ、はい! すぐ済ませます! ――ヨウタ、夕方、時間をくれ。積もる話が馬車二十台ぶんある」
「多いな」
「足りないくらいだ!」
書類の束に連行されながら、ジェスターは二度も三度も振り返った。人騒がせな着任が終わり、広場の人だかりが崩れ始める。
ちなみにドヤールは、拳を握りしめたまま突っ立っていた。
「宣戦布告はどうした」
「延期だ」
「早いな」
「あれで、いい奴そうじゃねえか。いい奴に宣戦布告する奴があるかよ」
強者の礼儀とやらは、今日も基準が緩い。
俺は梯子を担ぎ直した。担ぎ直したところで、戻ってきた足音に呼び止められた。
「ヨウタ」
さっきまでとは違う声だった。
振り向くと、ジェスターは笑っていなかった。広場の喧噪は何も変わっていないのに、そこだけ音が引いたような顔で、まっすぐ俺を見ていた。
「お前に、言わなきゃいけないことがある」




