【第二巻】第二章 審査という名の見世物(二)
麦月六日、大闘技場の登録棟は、朝から人で煮えていた。
明日が締め切りとあって、列は建物の外まで伸びている。腕自慢、腕自慢の連れ、腕自慢を値踏みする賭け屋、それを全部書き留める書記。祭りというのは、始まる前がいちばん祭りである。
列の脇には、商魂が屋台を連ねていた。旗を縫う職人、紋章を描く絵師、二つ名を売る講釈師。とりわけ紋章描きの屋台は繁盛していて、駆け出しらしい若い剣士が、生まれて初めての紋章を注文しては、獅子だの鷲だの竜だのを描かせている。観察するに、注文の九割が猛獣だった。強そうな絵を掲げたい気持ちは分かる。分かるが、獅子の旗が三十本並んだ桟敷を想像すると、猛獣もそこまで数が揃えば家畜である。
「ヨウタ、騎士学校の頃を思い出すな。この登録棟の前は、よく走らされた」
「中に入ったことは」
「ない。生徒は柵の外から見るだけだ。いつか自分の名前で入るんだと、皆で言い合った」
ジェスターは十年前、八つの俺を村に置いて、王都の騎士学校に入った男である。つまりこの街は、あいつにとって二度目の街だ。柵の外から見た建物に、今日は表口から入る。あいつの十年は、そういう十年だった。付き添いの俺は勝手口の気分だが、勝手口には勝手口の眺めがある。
俺たちは列に半刻並び、ようやく登録卓に辿り着いた。卓の向こうにいたのは、羊皮紙色の肌をした老係員だった。歳は係の中で頭ひとつ抜けて上に見えるが、書類を捌く手つきは若手の倍速い。
「出場登録。B級、ジェスター・クラウン」
「はい。では、こちらの誓約書に目を通してお名前を」
差し出された誓約書は、条文が二十一条あった。ジェスターの目が輝いた。嫌な輝きである。あいつは条文を読むのが好きだ。作るのはもっと好きだ。
「第七条。出場者は、審判の裁定に対し異議を申し立てる場合、所定の様式によるものとする。……様式があるのか。いい条文だ」
「第十二条もいいぞ。観客への礼節。投げ込まれた花は拾う、投げ込まれた野次は拾わない」
「拾わない、を条文にするのがいいな。ヨウタ、うちの規約にも輸入しよう」
「野次を投げ込む奴がうちにいるのか」
「陛下がたまに鳴く」
「あれは野次じゃなくて勅令だ」
後ろの列から咳払いが飛んできたので、法学談義は閉廷した。ジェスターが署名し、老係員が砂で乾かし、次の書式が出てくる。
「続いて、紋章のご記入を」
「紋章」
「出場者は旗と桟敷の札に紋章を掲げます。家紋、隊章、ご自身の印、いずれでも。お持ちでない方は、この場でお作りいただいても構いません」
ジェスターは、めずらしく数拍黙った。
紋章というのは、王都では名刺であるらしい。壁に彫り、旗に縫い、指輪に刻む。読める者が読めば、家の格も、家同士の縁も、断絶した年までも読めるという。名前の多すぎるこの街で、紋章は名前をさらに圧縮した符号である。持っている者には便利な符号だが、持たない者には、持たないことがそのまま読まれてしまう符号でもある。
「……家の紋章は、知らないんだ。物心つく前に村に来たから、聞く相手がいなかった」
「では、お作りに」
「いや――ひとつ、心当たりがある」
あいつは腰から鈴の短剣を抜いて、柄を返した。柄頭の金具に、古い意匠が刻まれている。俺も何度か見たことはあった。鈴を三つ、輪のかたちに並べた紋様。あいつの生家から唯一持ち出された短剣の、唯一の飾りである。
「これを写してもらえるか。家の物は、これしか知らない」
「拝見」
老係員は短剣を受け取り、眼鏡を上げ、柄頭に顔を寄せた。
そして、固まった。
書類を捌いて六十年、という速度の手が、完全に止まっていた。長い、と俺が感じるくらいの間、老人は鈴の輪の紋様だけを見ていた。それから、何事もなかったかのように模写を始めた。手つきは元の倍速に戻っていたが、俺は見てしまった。模写を終えた老人が、写しをもう一枚――登録用とは別に、小さく取ったのを。
「けっこうなお品で。……どちらの伝来か、伺っても」
「分からないんだ。婆様がくれた。村の婆様だ」
「さようで」
それきり老人は何も言わず、書式は次に進んだ。俺は帳面を出さずに、記憶の帳簿へ書き込んだ。借方、鈴の輪の紋様。貸方、老係員の六十年の手が止まった数拍。この取引の意味は、まだ分からない。分からない取引ほど、後で高くつく。
「最後に、所属パーティ名を」
来た。
「個人戦ですよね。パーティ名が要るんですか」
「桟敷の札と、講評録に載ります。空欄ですと『無所属』と印字されますが――」
老係員は、ジェスターの書類を一瞥した。
「――ギルドの移動届に『名称未定』とありますな。王都の様式では、未定は無所属と別扱いです。未定のままですと、講評録に『名称未定(三年目)』と載ります」
「三年目まで書くんですか」
「王都の書式は、経過年数に厳しいので」
名称未定(三年目)。戦績より先に、うちの優柔不断が公文書に載る。隣でジェスターが腕を組んだ。組んでしまった。
「ヨウタ、決めよう。今この場で」
「嫌な予感しかしないが、聞こう」
「『暁の双剣』」
「却下。剣は一本しかない」
「俺の剣とお前の……ほら、包丁」
「包丁を戦力に数えるな」
「では『白光と影』」
「俺が影か」
「嫌か」
「事実だから困る」
「なら『白光と会計』」
「俺は帳簿か」
「頼りにしてるという意味だ」
「気持ちだけ受領する。次」
列の後ろから、待ちくたびれた野次馬どもが参戦してきた。武闘祭の列というのは、暇と腕力の在庫だけは豊富である。曰く「鈴鳴り組でいいだろ、腰の鈴で」。曰く「辺境の双璧」。曰く「クラウン一座」。曰く「名無しのままで通せ、そのほうが凄みが出る」。最後の案には一理あったが、一理あると認めた瞬間に三年目の実績が凄みに化けるのも癪である。案が出るたびジェスターが真剣に検討し、検討のたびに列の進みが止まるので、会議は膨らみ、裁判長の心証は悪化の一途を辿った。最終的に老係員が裁定を下した。
「お時間ですので、本日のところは『名称未定』で受理します。……ご安心を。未定のまま強くなった組は、過去にいくらもあります。名前は、あとから追いつくものです」
「いい言葉だ! ヨウタ、聞いたか」
「聞いた。追いつかれる前に逃げ切りたい」
登録は済んだ。旗の意匠は鈴の輪。桟敷の札はB級ジェスター・クラウン、名称未定。従者一名。以上が、武闘祭に対する俺たちの公式の姿である。
棟を出ると、ジェスターは旗職人の屋台に寄って、鈴の輪の旗を一枚注文した。仕上がりは開幕前日だという。職人は写しを受け取って、ほう、と眉を上げた。
「珍しい意匠だ。猛獣じゃないのは今日これで二枚目だよ」
「一枚目は」
「言えないね。職人には守秘義務がある」
旗職人にまで守秘義務のある街である。ちなみに手間賃は獅子より安かった。描く線が少ないからだそうだ。紋章の世界では、強そうな絵ほど高くつき、静かな絵ほど安く済む。人間の世界と逆で、少し安心する。
帰り際、俺は忘れ物を装って、一人で登録卓に戻った。老係員は、ちょうど例の小さな写しを、抽斗の奥にしまうところだった。
「忘れ物です。付き添いの札」
「これはご丁寧に」
「――さっきの紋章、何かご存じなんですか」
正面から聞いた。搦め手を考える時間が惜しかったし、老人相手の搦め手は大抵、正面より失礼になる。老係員は眼鏡越しに俺を見て、少し笑った。
「六十年書類を見ておりますとな、書式より先に、手が覚えるものがあるのです」
「はぐらかされてます?」
「ええ、上手にね」
老人は写しの抽斗を静かに閉め、それから、独り言のような声で言った。
「……昔はこの欄の隣に、もうひとつ欄がありました。名を書けない者のための欄です。今は、なくなりましたがね」
「名を、書けない者」
「ええ。書かない、ではなく、書けない。――世の中には、そういう名前もあるのですよ」
老人は次の客を手招きし、俺は列の外に押し出された。
外に出ると、ジェスターが旗職人の屋台の前で待っていた。夕方の光の中で、あいつは注文票を大事そうに畳んでいる。生まれて初めて注文した、家の印の旗である。柄頭の小さな紋様が、開幕の日には風に乗って翻る。
名を書けない者のための欄。なくなった欄。抽斗の奥の写し。そして、六十年の手を数拍止めた鈴の輪。
記憶の帳簿の「?」の頁が、今日だけで三行増えた。




