【第二巻】第一章 北街道の十日(三)
王都には、名前が多すぎる。
麦月四日の昼、南大門の行列に並びながら、俺が最初に抱いた感想がそれである。門の上に掲げられた紋章に名前があり、紋章の中の獅子と輪にそれぞれ名前があり、門そのものには「凱旋門」という立派な呼び名までついている。くぐる前の広場と、くぐった後の大路も別々の名を持ち、壁の石にすら寄進した家の名前が彫ってあった。モトリーでは「門」と「広場」と「道」で済んでいた三つの事物が、ここでは名札を五枚も六枚も下げている。
名前の多い街は、名前のない者に厳しい。
この法則を、俺は門の検問で身をもって学ぶことになった。
「次。……B級、ジェスター・クラウン殿。武闘祭の出場登録は明後日からです。ようこそ王都へ」
「世話になる!」
係の男は、ジェスターの登録証を両手で返した。扱いが丁寧である。B級というのは、王都でも通用する立派な名前らしい。
「次。……ええと」
俺の番になった。係は俺の登録証を眺め、裏を返し、また表を眺めた。
「F級。職能欄……『雑用』。所属パーティ……『名称未定』。同行区分……」
「連れです」
「『連れ』という区分はありません」
ないのか。
「区分は次のいずれかです。出場者、従者、興行関係者、商人、巡礼、その他」
「では、その他で」
「『その他』は事由の記載が必要です」
「事由。……連れです」
「ですから『連れ』という区分は」
「記載するのは事由であって区分ではないのでは」
「事由欄に書けるのは、認可された事由だけです」
「認可された事由の一覧は」
「区分の一覧と同じです」
円環である。この国の書式は、どこかで蛇が自分の尻尾を噛んでいる。
行列の後ろから、荷車の軋む音と舌打ちが聞こえ始めた。ジェスターが横から身を乗り出す。
「係の人、こいつは俺の恩人で、親友で、パーティの頭脳で、荷物の管理者で、それから」
「区分は一つです」
「一つに絞れる男じゃないんだ」
誇らしげに言うことではない。係は書類と俺を三往復ほど見比べ、やがて役人の顔で結論を出した。
「――『従者』としておきます。出場者一名につき従者一名まで、滞在許可が下ります。これが従者札。滞在中は携行してください」
こうして俺は、王都における公式の名前を手に入れた。従者。木の札に焼き印で、そう書いてある。名前というより区分である。だが列は流れ、門はくぐれた。名前の多い街で、名前の代わりに区分をもらう。妥当な両替だと思うことにした。
大路に出て、俺は職業柄、街の仕分けを始めた。
人混みは三種に分かれる。目的地へ急ぐ者、目的地を探す者、目的地を持たない者。祭りの前の王都では二番目が最多で、道を訊く声が交差点ごとに飛び交っていた。建物は四種に分かれる。住むための建物、売るための建物、祈るための建物、そして見せるための建物。王都で初めて見た四番目の割合の高さが、この街の性格をよく説明していた。壁という壁に彫刻があり、彫刻のひとつひとつに、たぶん名前がある。
音も仕分けた。売り声、車輪、蹄、鐘、槌。モトリーの街の音が五種で数え終わるのに対し、王都は十を超えたところで数え方を変える必要が出た。種類ではなく層で数える。地面の音、人の背丈の音、屋根より上の音。三層がそれぞれ勝手に鳴っていて、混ざった総体に「賑わい」という名前がつく。名前をつけると、うるささが景色に変わるのだから、名前というのは大した発明である。
「ヨウタ、さっきから何を数えてるんだ」
「街の棚卸しだ」
「相変わらず仕事が早いな!」
褒められた。仕分けと棚卸しは俺の趣味と実益を兼ねた持病であって、褒められる筋の営みではないのだが、あいつの辞書では大抵の行為が称賛の対象になる。便利な辞書だ。改訂の予定はないらしい。
「ヨウタ、あれを見ろ!」
ジェスターが指した先に、それはあった。
大闘技場。
街の中央、屋根のない巨大な石の環。遠目には王冠を伏せて置いたようにも見える。武闘祭の会場であり、あいつのA級審査の会場であり、つまり今回の出張の目的地である。環の外周に旗が立ち並び、風を受けて一斉に鳴っていた。
「でかいな」
「でかい! あそこで戦えるのか!」
あいつの声が半オクターブ高い。八つの子供の声だ。俺は旗の数を数えかけて、六十で諦めた。数えて意味のある数と、数えても意味のない数がある。あの旗は後者で、たぶん「多い」が正解の数え方である。
「なあヨウタ、あの真ん中で戦うんだな、俺は」
「そうなるな」
「観客は何人入るんだろう」
「石の環の大きさから概算して……やめておこう。聞かないほうが眠れるぞ」
「大丈夫だ。人が多いほど、よく眠れる性分でな」
「どういう性分だ」
「見てくれる人の数だけ、頑張り甲斐があるってことだ」
あいつは環を見上げたまま、まぶしそうに目を細めた。見られることを燃料にできる人間と、見られないことを技術にした人間が、同じ門をくぐって同じ祭りに来ている。世の中の采配は、たまに冗談がうまい。
宿は、ミエルさんが文で指定してくれた「三日月の櫂」に取った。
看板には、三日月を櫂で漕ぐ猫の絵が描いてある。宿帳を差し出しながら、俺は長年の疑問処理の手順に従い、疑問を発生源で処理することにした。
「港のない街で、なぜ櫂なんです」
「先代が川船の船頭でね。陸に上がるとき、商売道具を看板に上げたんですよ」
「未練ですか」
「先代に言わせりゃ『退路』だそうで。水はどこにでも流れてる、漕げばどこへでも行ける――ってのが口癖でした」
「今は」
「川は埋め立てられました。祭りの桟敷が建ってます」
退路の上に見物席が建つ。王都というのは、そういう街らしい。
部屋は三階の角部屋、窓から大路が見下ろせて、寝台が二つ、机が一つ。机があるのがいい。帳簿仕事は机の質で決まる。
「ミエルさんの見立てだな。窓から通りが見える」
「眺めがいいからか」
「出入りが数えられるからだ」
荷を解いた。婆さんのパンの残りと、預け賃の銅貨と、愚者の札と、宛名のない手紙。手紙は机の抽斗ではなく、荷袋の底に戻した。開封の日は、まだ来ていない。来ないで済むなら、それがいちばんいい。
夕方、大路を歩いた。
武闘祭の六日前の王都は、祭りの支度と商売の支度が半分ずつだった。桟敷席の札を売る声、対戦表の予想紙を刷る音、酒場の店先に貼り出された出場者の名前、名前、名前。ジェスターは貼り紙の前で足を止めた。
「見ろ、『黒鉄のグオルグ』だ。強そうだな」
「名前で戦うのか」
「名前も戦いのうちだ、とドヤールが言っていた」
「あいつの理論を輸入するな」
「『沈黙のヴェルデ』。これも強そうだ」
「沈黙が強いなら、うちの故郷の墓地は最強だ」
「『疾風のカザン』」
「読み上げるだけの遊びか、それは」
遊びらしい。あいつが読み上げると、どの名前も少しだけ強そうに聞こえるから不思議である。名前から強さが分かるなら誰も苦労しないのだが、名前に強さを吹き込む声というものは、たしかに存在する。
と、貼り紙の端で、俺の目が止まった。
出場者の一覧の下、囲みの中に、一行だけ毛色の違う告知があった。
――無名戦、例年どおり執り行う。仔細は口頭にて。
名前だらけの貼り紙の中で、その囲みだけが名前を持っていなかった。無名戦。文字どおりに読めば、名の無い戦い。仔細は口頭にて、という書き方も引っかかる。書けないのか、書かないのか。
「ジェスター、これは」
「ん? ああ、聞いたことがある。仮面をつけて出る枠だそうだ。昔からあるらしい」
「仮面」
狐と、山羊と、笑った月が、棚から俺を見ていた昨夜の宿を思い出した。
「詳しくは知らん。出る奴の名前を、誰も知らないんだと」
名前の多すぎる街に、名前のない戦いがひとつ。
帳簿の癖で、俺はその不釣り合いを頭の隅に記帳した。貸方に何が入るのかは、まだ知らない。
宿への帰り道、大路の角で、鈴の音を聞いた。
振り向くと、まだら服の小柄な人影が、夕暮れの人混みを縫って遠ざかっていくところだった。三叉の帽子の先で、鈴が三つ、歩調に合わせて鳴っている。道化だ。王都には大道芸人も多いから、それ自体は珍しくもない。
ただ、すれ違いざまに、その道化がこちらを見た気がした。
気のせいかもしれない。人混みの中の視線ほど、当てにならない帳簿はない。
でも、あの鈴は――俺たちを数えた気がした。




