【第二巻】第一章 北街道の十日(二)
旅程十日の要約は簡単だ。歩いた。以上である。
と書いて済ませると婆さんのパンと十日分の宿代に悪いので、もう少し詳しくやる。ただし全部はやらない。旅の記録というものは、書き手が思うほど読み手の役に立たない。役に立つ部分だけ、道端の花くらいの分量で摘んでいく。
初日の晩、トレモロの町に泊まった。
三年ぶりだった。町の入口に、聞いていたとおり大きな風車が建っていて、羽根が四枚、夕日を順番に千切っては投げていた。風車を巨人と見誤って槍を向けた騎士の物語があるが、あの騎士も、こんなふうに夕日を千切る羽根を見たのだろう。見誤る側の気持ちが少し分かる大きさで、それは回っていた。ジェスターは風車を見上げて感動し、俺は風車の下の掲示板を見て感心した。武闘祭の告知が貼ってある。王都から徒歩九日の町まで、あの祭りの紙は届くらしい。
「ヨウタ、宿の前に市が出てるぞ。串焼きだ。特別条項第五条を発動する」
「発動が早い。初日だぞ」
「条文に日付の制限はない」
「立法の不備だな」
「不備じゃない。俺が徹夜で考えた自由だ」
読み替え規定といい発動権といい、あいつの法運用は年々冴えていく。俺たちは串焼きを二本買い、一本ずつ持って、夕暮れの市を歩いた。風車の羽根の影が、市の石畳をゆっくり撫でては戻っていた。
トレモロは、俺が十五の年に武術大会に出た町である。
結果だけ言うと、優勝はしていない。二回戦で相手の剣が折れ、的当ての的が消滅し、翌日には俺は「魔剣持ち」になっていた。翌々日には「悪魔憑き」に昇格した。噂というのは出世が早い。
念のため補足すると、折れたのは俺の剣ではない。相手の剣が、俺の木剣に当たって折れた。的は、当てたら消えた。物理の帳簿がどう繰り越されてそうなるのか、審判にも本人にも説明がつかなかった。そして人間は、説明のつかない現象に、説明のつく名前をつけたがる。魔剣、悪魔、その手の名前の在庫は、どこの町にも豊富にある。俺が力を数えなくなったのは、あの週からだ。
で、三年ぶりのトレモロである。
串焼き屋の親父が、釣り銭を渡しながら俺の顔をじっと見た。来た、と思った。身構える俺の前で、親父は膝を打った。
「思い出した。あんた、あれだろ。三年前の大会の――」
「人違いです」
「――片付けの兄ちゃんだ! 閉会のあと、会場の櫓を一晩で畳んでった」
「…………そうです」
「いい仕事だったなあ。組合の連中が今でも言うよ。あの畳み方は教本に載せるべきだって」
噂というのは出世が早く、そして俺の場合、出世する方向が毎回おかしい。魔剣の噂は三年で風化し、片付けの手際だけが石碑になっていた。隣でジェスターが真顔で頷いている。
「分かるぞ、親父さん。あいつの片付けは芸術だ」
「だろう。……ときに兄さんたちは王都かい」
「武闘祭だ!」
ジェスターが串を掲げて宣言し、市の何人かが振り返って、冷やかし半分の拍手をくれた。俺は釣り銭を数え直すふりをして、その輪の半歩外にいた。定位置である。
その晩、宿の窓から風車が見えた。
羽根はもう止まっていた。
婆ちゃんと来た市は、たしかこのあたりだった気がする。
銅貨を数えて、小麦を一袋、諦めた帰り道だった。
覚えているのは、それくらいだ。
それくらいで、いいのだと思う。
翌朝から、北街道に入った。
街道の旅というのは、歩く時間より段取りの時間で出来ている。宿場の相部屋における寝床の割り当ては、小国同士の国境画定に似ている。実効支配が九割、条約が一割、残りは枕の投げ合いで決まる。二日目の宿で俺は窓際の一角を実効支配し、条約文書として荷物を置いた。国際法の基本である。
三日目の宿では、大鍋を囲む九人の間で芋の分配問題が勃発した。成り行きで俺が議長席に座らされた。
「議長、芋が七つに人が九人だ」
「まず芋を数え直せ。半分に割れているそれは、一なのか二なのか」
「二だ!」
「異議あり。体積で数えるべきだ」
「では議長裁定を出す。割れた芋は二と数え、割った者が小さいほうを取る」
「……揉めなくなった」
「揉めないための裁定だ」
国境画定というものは、こうして食卓の高さで日々結ばれている。歴史の教科書に載らないだけで、条文の精神は同じだ。切りたい者に切らせ、選ぶ権利を相手に渡す。四日目の朝には、隊商の護衛たちが俺を「奉行」と呼ぶようになっていた。呼称の出世も、相変わらず方向がおかしい。
五日目の晩は、隊商と焚き火を囲んだ。
話題は当然のように武闘祭だった。
「今年は近衛の団長が出るらしいぞ」
「聞いた聞いた。無敗なんだろう」
「十年無敗だ」
「二十年と聞いたが」
「俺は『生まれてこの方、膝をついたことがない』と聞いた」
「立ったまま生まれたのか」
「そうなるな」
ならない。ならないが、焚き火の会議は満場一致でその男を人間の枠から外し、次の議題に移った。
「賞金は金貨百枚だそうだ」
「二百と聞いた」
「優勝したら王様と晩飯を食えるらしい」
「王様は要らんから金貨がいい」
「贅沢を言うな。両方もらえ」
「もらえるのか」
「知らん」
知らないのに議決だけは通っていく。俺は芋の皮を剥きながら拝聴していた。噂の乗り合い馬車は、乗る客が増えるほど速くなる。降りる頃には、誰も最初の行き先を覚えていない。
隣のジェスターだけが、真剣な顔で火を見ていた。
「二十年無敗か。すごいな」
「今の流れで信じる情報量じゃないぞ」
「数字はどうでもいい。……そんなに長く、誰にも負けてないってことだろう。その人は、試合が終わったあと、誰と稽古の話をするんだろうな」
焚き火が爆ぜた。
護衛たちは次の噂に移っていて、あいつの独り言は誰も拾わなかった。俺は芋の皮を剥き終えて、そうだな、とだけ返した。あいつはたまに、こういう矢を素で放つ。狙って放てないところが、あいつの厄介なところである。
七日目、街道は谷を抜けて、王都の平野に入った。
道の混み方が変わった。南から歩いてきた俺たちの列に、東西の脇道から人が合流してくる。行商、楽士、曲芸の一座、腕自慢らしい大剣の男、その大剣を歩きながら値踏みする商人。川は海に近づくほど水が増える。同じ理屈で、王都に近づく道は人が増える。水と違うのは、人は全員しゃべるという点である。
八日目、駅逓の宿で手紙を受け取った。ミエルさんからだった。
いわく、王都本部への出張が決まりました。監査業務です。私のほうが先に着きます。いわく、台帳は既に送りました。いわく、追伸、名称未定の件ですが、王都の様式には空欄という欄がありません。ご覚悟ください。
「ミエルさんも王都か! 心強いな」
「監査だぞ。俺たちの帳簿を見に来るんだ」
「見られて困るものがあるのか」
「ないことを証明する作業が――」
面倒だ、と言いかけて、俺は口を閉じた。特別条項第四条により、いまの単語は「考え中」に読み替えられる。つまり俺は今、証明作業について前向きに検討していることになった。法治とは不便なものである。
「それにしても監査か。ミエルさんは、なんで王都の本部じゃなくてモトリーにいるんだろうな」
「聞いたことないのか」
「聞いたことはある。教えてもらえたことがない」
「……台帳の外の話は、あの人は書かない主義なんだろう」
帳簿の余白より綺麗に閉じた余白を、俺は他に知らない。
九日目の晩、王都まで残り一日の宿場に泊まった。
残り一日の宿場は、もう半分王都だった。宿帳の職業欄に「見物」と書く客が半分を超え、酒場の会話は対戦予想で埋まり、廊下では誰かが木剣の素振りをして主人に叱られていた。素振りを叱る声まで祭りの音に聞こえるのだから、祭りというのは大したものである。
その宿の主人は話し好きの男で、夕食の匙を配りながら、俺たちが武闘祭見物だと知ると声を弾ませた。
「祭りの年はいいですよ。人が通る、銭が落ちる、そして仮面が売れる」
「仮面?」
ジェスターが聞き返した。主人は、なぜか少しだけ声を落とした。
「ええ。祭りの月だけ、王都では仮面がよく売れるんです。うちの土産棚にも置いてます。ほら」
振り返った棚に、木彫りの面がいくつか並んでいた。狐、山羊、笑った月。どれも安物の土産物で、どれも別に、怪しくはない。
「見物客の洒落ですか」
「さあ。……買っていく人はね、みんな洒落だと言うんですよ」
主人は匙を配り終えて、厨房に引っ込んだ。
「買ってみるか、ヨウタ。狐なんてどうだ」
「土産は帰りに買うものだ」
「行きに買うと?」
「荷物になる」
「なら帰りだな。覚えておこう」
あいつは素直に頷いて、芋の煮付けに戻った。
狐と、山羊と、笑った月が、棚からこちらを見ていた。
洒落だと言うんですよ、と主人は言った。言い方が引っかかった。洒落だと「言う」のと、洒落で「ある」のとの間には、帳簿にすると一行ぶんの空白がある。その一行に何が書いてあるのかを、俺はまだ知らない。
明日、王都に着く。




