【第二巻】第一章 北街道の十日(一)
夜明け前の街道は、静かであるべきだった。
少なくとも俺の計画書にはそう書いてあった。人目につかない時刻に、人目につかない規模で、目立たない男が一人と、どうやっても目立つ男が一人、こっそり北門を抜ける。所要は四半刻、必要な挨拶はゼロ。そういう、ささやかで美しい工程だったはずである。
「総員、整列!」
号令がかかった。
北門の前に、人垣ができていた。元夜盗改め自警団「夜霧の帯」が十二名、頭目のゴルドーを先頭に直立している。パン屋のマルグリット婆さんが焼きたてを詰めた籠を抱えて一名。ギルド受付のミエルさんが制服のまま一名。子供が七名、犬が三匹、猫が一匹。なお猫だけは整列に参加せず、門の屋根から全体を睥睨していた。陛下である。役職ではなく態度がそう呼ばせる灰色の雄猫で、この街で唯一、俺に敬意を払わない生き物だ。
「見送りは断ったはずだぞ」
「断られたのは聞いた。従うとは言ってない」
ゴルドーが胸を張る。元夜盗の言い分としては筋が通りすぎていて、突っ込む箇所を三秒探して、諦めた。
花月二十五日、出発の朝である。
ゴルドーは咳払いをひとつして、留守番の計画を諳んじ始めた。夜回りは二交代、東の森の見回りは三日おき、酒場の喧嘩の仲裁は初動十数える以内。俺が三年かけて育てた巡回の段取りを、元夜盗の一団が引き継ぐわけで、人材の再配置としては理想的な帰結と言うほかないのだが、理想的すぎて俺の留守が三年続いても誰も困らない気がしてきた。
「安心して行ってこい」
「安心しすぎて帰る理由を見失いそうだ」
「パンで思い出せ」
横から婆さんが言った。話が早い。
子供たちの代表が一歩進み出て、陛下の捜索は自分たちが引き継ぐ、と宣誓した。頼もしい限りだが、当の陛下は捜索されることを何より嫌う猫である。つまりあれは捜索業務の継承ではなく、追いかけっこの利権の相続だ。相続の祝いとして、俺は飴を七つ配った。
「ヨウタ! 見ろ、こんなに来てくれた!」
ジェスターが白い外套を翻して駆けてくる。陽色の金髪が薄闇でも光って見えるのは、日の出が早いのではなく、たぶん本人の性格のせいだ。腰では鈴がふたつ鳴っている。ひとつは鈴の短剣、もうひとつは鈴鳴り亭の主人から預かった古い手鐘。あいつの装備は、音で数えられる。
「見送りは最小限にしよう、と言ったのはどこの誰だったかな」
「言った。言ったが、婆さんのパンを断る条文は規約にない」
規約、というのは俺たちのパーティの決まりごとである。契約書の体裁を借りた口約束の束で、第一条から先日ようやく第六条まで増えた。中でも第二条は改正されたばかりだ。いわく——危険は二人で分ける。無茶をしない。異変は、隠さず言う。
改正に至る経緯を語ると俺の朝食の時間が消滅するので、パンひとつ分に圧縮する。色々あった。以上だ。細部については、俺とあいつと、あとこの街の半分くらいが覚えていれば足りる。
その婆さんのパンが、籠ごと俺の荷物に押し込まれた。
「王都のパンは値段が三倍で気持ちが半分だよ。持っておいき」
「気持ちの計量はどうやるんだ」
「食べれば分かる」
「ちなみに婆さんのパンは何倍なんだ」
「量ったことないね。量るもんじゃないから」
反論の余地のない計量法である。
ミエルさんが進み出て、書類の束を差し出した。罫線みたいにまっすぐな目は、朝でもまっすぐだった。
「移動届の写しです。王都本部の受理印は到着後に。……それからサイキ様」
「なんでしょう」
「台帳的には、お二人はいまだに『名称未定』です。王都で必ず聞かれます」
「保留のままでは」
「保留期間三か月は、当支部の最長記録です。更新の際は王都の様式で叱られてください」
誇るべきか謝るべきか分からない記録を、俺たちは持っている。
「そこでだ、ヨウタ」
ジェスターが懐から紙を出した。嫌な予感がした。この予感が外れた例を、あいにく俺は思い出せない。
「旅の間の特別条項を作ってきた。読み上げるぞ。旅程特別条項、第一条。歩く速さは、遅いほうに合わせる」
「妥当だ」
「第二条。飯は温かいうちに食う。議論は飯の後とする」
「異議なし」
「第三条。ヨウタが『考えとく』と言った場合、回答の期限は三日とする」
「……但し書きを要求する。天候不良の場合は順延」
「認めよう。第四条。ヨウタが『面倒だ』と言った場合、これを『考え中』と読み替える」
条文の精度が上がっている。誰だ、あいつに立法を教えたのは。俺は抗議のため挙手し、挙手したまま言うことを失い、静かに下ろした。読み替え規定に異議を唱えると、読み替えの正しさを証明することになる。よくできた条文である。
「第五条。買い食いは一日二回までとする。ただし、うち一回はヨウタの分も買う」
「その条文は、お前に何の利益がある」
「並んで食う分だ」
利益の定義から議論し直す必要があるが、議論は飯の後と特別条項の第二条で決まったばかりである。俺は条文の網の中で静かに敗訴した。悪法もまた法である、と言って毒の杯を飲み干した賢者の話がある。俺の場合、飲まされるのは毒ではなく串焼きだ。賢者より、扱いがだいぶ軽い。
「異議は」
「棄却される見込みが高いので、取り下げる」
「採択!」
人垣から拍手が起きた。何の議会だ、これは。
バラッドは、列のいちばん端にいた。鈴鳴り亭の主人は見送りの朝でも普段どおりで、酒場のカウンターごしと同じ距離感のまま、俺に一通の手紙を差し出した。
「餞別だ」
宛名がない。裏を返すと、封蝋に小さな鈴の意匠が押してあった。
「読むのはいつでもいい――と言いたいところだがな。開封には指定がある」
「聞こう」
「着いた日でも、勝った日でも、負けた日でもない。どっちだか分からなくなった日だ」
「……当日にならないと分からない指定だな」
「そういう日は、当日になれば分かる」
バラッドは、それ以上説明しなかった。説明しない男の説明を待っても仕方がないので、手紙は荷物のいちばん底、愚者の札の隣にしまった。借り物の札と、宛名のない手紙。俺の荷物の底は、だんだん質屋の抽斗に似てきた。
「知ってるか。旅立ちに鈴を鳴らすのは、大昔は魔除けじゃなかったそうだ」
バラッドが顎で門を指す。
「出席簿だよ。音がした数だけ、生きて門を出たってことを、残った側が数えた」
「今は」
「今はただの騒音だ。……ほら、行け。数えててやる」
ジェスターが手鐘を高く掲げて、一度だけ振った。澄んだ音が、夜明けの門に響く。子供たちが真似して手を振り、犬が吠え、陛下が屋根の上であくびをした。あの猫の出席簿には、たぶん俺たちの欄がない。
門を抜けた。
街道は北へまっすぐ延びて、その先は薄い朝靄に溶けている。王都コロナールまで、歩いておよそ十日。あいつがA級昇格の審査とやらを受けるための、長い出張である。
街道の朝は、匂いから始まる。露に濡れた土と、遠くの畑の煙と、荷物の中の焼きたてのパン。旅と遠足の区別は目的地の深刻さでつけるものだと長年思ってきたが、隣を歩く男の足取りを見る限り、この区別が今回の旅程で機能する見込みは薄い。深刻さを俺が全部預かって、あいつが遠足を担当する。役割分担としては、いつもどおりである。
「ヨウタ、王都の飯は何がうまいと思う」
「知らん。着いた奴に聞け」
「着いたら、俺たちが『着いた奴』だな」
「なら十日後の俺たちに聞こう」
「よし、楽しみがひとつ増えた!」
増えたのは楽しみではなく宿題の気がするが、訂正するほどのことでもない。
俺の職能を正確に申告するなら、「雑用」だ。F級冒険者、十七歳、得意分野は害獣の間引きと宴会の後片づけと行方不明の猫の捜索。そして雑用という言葉の解像度にかけては、この街の誰にも負けない自信がある。雑用とは、名前のつかない仕事の総称だ。名前がつかないから記録に残らず、記録に残らないから、誰がやったのかも残らない。俺はその「残らなさ」を三年かけて磨いてきた。今朝も日付が変わる前に、森の間引きを済ませてある。所要は半刻。成果は数えていない。数えると、誰かが驚くからである。
「王都か! 楽しみだな、ヨウタ!」
「ああ」
「何が出ると思う」
「刺客と、書類と、人混みだ」
「よし、全部俺に任せろ!」
任せろと言われた三つのうち、あいつに任せて成立するのは、たぶん人混みだけである。残りのふたつは俺の夜業だ。B級冒険者ジェスター・クラウン、十八歳、剣の腕は本物で、善意は計測不能。あいつの英雄譚を裏から膳立てするのが、履歴書に書けない俺の本業である。
振り返ると、モトリーの城壁はもう小さかった。鈴の音が、まだかすかに聞こえる気がした。気のせいだとしても、そういう気のせいは荷物にならない。持っていくことにする。
なお、この時点での俺はまだ知らない。
王都に着いた俺が最初に失うものが、荷物でも銅貨でもなく――名前だということを。




