第十二章 英雄譚の裏書き(三)
宴を抜け出したのは、日付が変わる頃だった。
言い出したのは、あいつの方である。酔いを覚ましたい、と赤い顔で言うので、二人で篩火の輪を離れて、いつもの城壁へ上がった。
抜け出す時、何人かに見つかった。見つかったが、誰も引き留めなかった。婆さんは籠から丸パンを二つ持たせ、バラッドは目顔で頷き、ミエルさんは非番の顔のまま、小さく会釈をした。ドヤールだけが「逃げるな主賓!」と吼えかけて、リリに襟首を掴まれていた。
送り出され方というものにも、上手下手がある。この街のは、大陸一上手い。送り出しの上手い街は、帰る場所としても、大陸一である。
三度目の、同じ場所である。
最初の夜、あいつは怖いと言った。
二度目の夜、俺は隣がいいと言った。
三度目の今夜は、どちらも、何も言わずに始まった。
同じ場所というものは、来るたびに別の場所になる。石も胸壁も月も同じなのに、隣に積んだ月日の高さだけが、毎回違う。三度目の城壁は、三度のうちで一番静かで、一番うるさかった。胸の内側の、話である。眼下の広場では宴の火がまだ揺れていて、笑い声が、遠い波の音のように届いてくる。
ひと月半前、俺はこの街で、夜明け前にしか本当の仕事をしない男だった。名前は「その他」で、席は壁際で、勘定はいつも俺持ちだった。
ひと月半後の今夜、俺の名前はまだ載っていない。載っていないのに、宴の輪の中に席があって、パンを持たされて、講談に出て、これから預け賃を渡される。
変わったのは、俺の隠し事の量ではない。隠し事の、置き場所だった。
昔は、胸の奥の一番深い抽斗に、鍵をかけて置いていた。
今は、同じ抽斗に、鍵をかけずに置いている。
開ける日が、いつか来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでも、抽斗ごと持って、歩いていける。それだけの違いで、夜の重さは、こんなにも違う。
「なあ、ヨウタ」
先に口を開くのは、いつもあいつだ。
「見せたいものがある」
「なんだ」
「新作だ」
あいつは懐から、銅貨を一枚取り出した。
コイントリック。
泣いている子供のための、あの手品である。十年前の最初の観客は俺で、タネも仕掛けも、俺は世界で一番よく知っている。知っているはずだった。
「十年、あれから新作を作らなかったのか、と言われたら癉だからな」
「客の注文が、古かったんでな」
「はは。違うぞ。泣いてる客が、いなかったからだ」
いい理由だった。新作の開発が止まっていた十年は、誰も泣かせなかった十年である。手品師の実績としては、世界一の部類だと思う。
「最初の観客に、最初に見せるのが筋だと思ってな」
銅貨が、長い指の上で躍った。
右手から左手へ。転がって、立って、倒れて、消える。
ここまでは、知っている。この後、俺の耳の後ろから出てくるのが、旧作である。
あいつの手が、俺の耳の後ろではなく、宙を、ゆっくりと払った。
開かれた手のひらの上に。
銅貨が――二枚、載っていた。
「……増えたぞ」
「増えるんだ、新作は」
一枚が二枚になる手品。タネは、今度こそ本当に分からなかった。分からないまま、分かることが一つだけあった。あの新作は、俺のために作られた。
十年前、泣いていた俺のために旧作が作られ、十年後、泣かない俺のために新作が作られた。観客一人の劇場は、今日も営業中である。閉館の予定は、ない。
あいつは得意げに、二枚のうちの一枚を、俺の手に押しつけた。
「一枚はお前の分だ。持ってろ」
「手品の種を客に配る奴があるか」
「種じゃない。預け賃だ」
預け賃。この街の連中は、揃いも揃って、同じ通貨を使う。
「王都までの道中、俺はたぶん、緊張する。審査だの、都だの、慣れない場所は苦手なんだ。だから――緊張したら、それを見る。お前が持ってると思えば、腹の底が静かになる」
「……俺が落としたらどうする」
「お前は落とさない。俺の荷物を、一度も落としたことがないだろ」
断言だった。断言の根拠がひと月半ぶんの実績なのだから、反論のしようがない。
俺は銅貨を、懐に入れた。愚者の札の、隣である。旅人と犬の絵の隣に、銅貨が一枚。俺の懐の博物館は、いつの間にか、物騒な押収品より、こういう品の方が多くなっていた。
それで、と俺は話を実務に振った。
「出発は明後日でいいのか」
「ああ。朝一の街道を行こう。道中の宿は」
「トレモロまでは知った道だ。その先は、バルサ親方に聞いてある」
「鍋は」
「俺の管轄だ」
「よし。完璧だ」
「留守の間の夜回りは、ゴルドーの組が引き受けてくれた。陛下の捜索網も、婆さん経由で子供たちに外注済みだ」
「手回しがいいな!」
「雑用だからな」
「その台詞、王都でも聞けるんだな」
「管轄が変わるだけだ」
「あとは……そうだ。鈴鳴り亭に、旅の間の文を頑んである。何かあれば、飛脚より早い噂で届くそうだ」
「地獄耳の配達網か。頑もしいな」
「配達料はチップ制らしい。酒で」
「あの店らしい!」
完璧、と言ってから、あいつは少し黙った。
黙って、広場の火を見下ろして、それから、ぽつりと言った。
「なあ、ヨウタ。俺はいつか、俺の英雄譚に、お前の名前を載せたい」
来た。
直球は、いつも前触れなく来る。
「載らなくていい」
「なんでだ。お前は今回、誰より働いた。鈴も、避難路も、書庫の仮説も」
「載らない名前で、隣にいるのが、俺の流儀なんだ」
流儀、と言い切れるまでに、三年かかった。三年前は、ただの隠れ蟑だった。隠れ蟑が流儀に変わった日付を、俺は知っている。あの絵の犬を、いい顔だと言われた夜だ。
あいつは、しばらく俺の顔を見ていた。
月明かりの下で、空色の目が、何かを測るように細くなって――やがて、諦めたように笑った。
「……分からん。俺には、やっぱり分からん。分からんが、お前がそう言うなら、覚えとく」
「ああ」
「ただし」
あいつは、自分の胸を、拳で一度叩いた。
「俺は覚えてるからな。全部だ。誰が隣にいたか。誰が鍋を炊いたか。誰が、俺の英雄譚の、最初の頁からいたか。……ここには全部、載ってる。世界のどの台帳より、正確にだ」
夜風が、城壁の上を渡っていった。
世界のどの台帳より正確な帳簿が、世界で一番読めない場所にある。読めない場所にあるからこそ、俺は安心して、載らない名前でいられるのだろう。ミエルさんの閉じた綴りと、あの学士の空白と、あいつの胸の頁。俺の三年は、三冊に分けて、保管されている。
返事は、しなかった。
できなかった、が正しい。喉の奥で何かが詰まって、詰まった何かの名前を、俺は考えないことにした。考えれば、目の在庫に響く。
代わりに、俺は懐の銅貨に、指先で触れた。
載らない名前の預け先が、世界に一つだけあった。
それで、十分すぎた。
懐の中で、銅貨と、愚者の札が、軽く触れ合った。
旅人と、犬と、預け賃。
一枚の絵と一枚の銅貨で、俺の三年は、だいたい説明がつく。説明のつかない分は――これからの旅で、増える予定である。
「さ、戻ろうぜ。宴の締めに、婆さんのパンが出るらしい」
「勝利記念のか」
「普段のと何が違うんだ?」
「気持ちだそうだ」
「なるほど、気持ちか! 大事だな!」
あいつは笑って、階段を降りていく。俺は、少しだけ残った。
東の空の端が、ほんのわずか、白み始めている。
そろそろ、俺の早起きの時間だ。宴の後片づけ、鍰直しの鈴の受け取り、旅支度、それから、出発前の最後の間引き。やることは山ほどある。山ほどあるのが、ありがたかった。
明後日の朝、俺たちは北へ発つ。
王都には、教団がいて、観測者がいて、あいつの家名の謎が眠っている。ついでに言えば、俺の名前の由来を知る者も、どこかにいるのかもしれない。
いてもいい。
誰が何を知っていても、俺のやることは変わらない。早起きと、夜更かしと、隣を歩くこと。それだけである。
辺境都市モトリーの平和は、俺の早起きで出来ている。
そして――あいつの英雄譚は、俺の夜更かしで出来ている。
どちらの帳簿も、当分、黒字の予定である。




