第十二章 英雄譚の裏書き(二)
祝宴の夜の鈴鳴り亭は、壁が膚らんで見えた。
店に入り切らない客が広場まで溢れ、樽が転がされ、篩火が焚かれ、婆さんの丸パンが山と積まれた。長卓の中央にジェスター、その左右にドヤール一行、ゴルドーの組、隠居たち、バルサ親方――中央に主賓、左右に十二人。どこかの神殿の壁画で見た構図だが、あちらの晩餐と違って、うちの十二人は全員が同時に勝手に喋る。
「そして白光は、鈴を抜いたァ!」
広場では講談の初演が佳境だった。新演目『夜想曲を止めろ』、全段入り。鐘つき組の段で鐘楼の連中が立ち上がり、鈴直しの段でゴルドーの組が吼え、名も無き荷物持ちの段で、なぜか俺の背中がばんばん叩かれた。名も無きはずなのだが、叩く側は全員、誰のことか知っている顔だった。この街の「名も無き」は、あまり匿名の役に立たない。
卓では、それぞれの戦後が肴になっていた。
「で、ガスさんは結局、白光の剣を何度盗み見たんすか」
「研究だ」
「素直じゃないっすねえ」
ゴルドーの組は、警備の給金で全員が新しい靴を買ったという。
「頭、俺、靴って買うと嬉しいんですね」
「泣くな。頑むから靴で泣くな」
矢の若いのは、火事場で助けた猫の飼い主の娘から礼の菓子を受け取ったとかで、隠居たちに冷やかされて茹っていた。戦の後の宴というものは、こういう小さい戦果の報告会である。報告のどれにも、死者の名がない。それがこの宴の、一番の御馳走だった。
壁際には、非番のミエルさんがいた。杯の代わりに湯呑みを持って、騒ぎを眺めている。中身は、聞かないでおいた。
「台帳はお休みか」
「休みです。ですので、今夜の見聞は全部忘れます」
「便利な頭だな」
「ええ。いい宴です。忘れるのが惜しいくらい」
惜しい、まで言うのだから、今夜は相当の上機嫌である。
広場から、講談の締めの口上が届いた。
「――かくしてモトリーの夜想曲は止まった! 止めたのは一振りの剣にあらず、一つの鐘、三十の鈴、百のバケツ、そして名も無き手の全部である! 皆々様、ご唱和を――モトリーに!」
「「「モトリーに!」」」
樽が鳴り、篩火が爆ぜた。講談師ドヤール・マウンティ、生涯の名口上と、後々まで語られる夜である。
なお唱和の声には、講談に出てくる当人たち全員の声が混ざっていた。自分の出る講談に唱和する街である。行儀は知らないが、景気は最高だった。景気で言えば、支部開設以来の当たり月の、締めの夜である。
主賓はといえば、一杯目の麦酒の半分で、すでに茹で上がっていた。
「ヨウタあ、この煮込み、うまいなあ」
「知ってる。二年前から知ってる」
「二年前から!? 俺はひと月半前からしか知らないぞ! 二年ぶん損した!」
「損の勘定がおかしい」
宴の半ば、乾杯の音頭を求められたあいつは、樽の上に立って、盛大に照れた。
「その、あの……俺は、この街に来て、まだひと月半です。ひと月半で、こんなに――ええと」
言葉に詰まって、赤い顔で、最後は一言だけ叫んだ。
「この街が、大好きです!」
名演説ではなかった。なかったが、広場の歓声は、この夜一番だった。隣で聞いていた俺は、拍手の代わりに、豆を一粒、あいつの皿に足しておいた。
赤い顔の英雄は、豆を一粒ずつ大事に食っていた。A級審査に呼ばれる男の宴の姿ではない。ないが、この姿のまま王都へ行くのだから、王都の連中の帳簿は今から狂う予定である。
夜が更けて、客が広場の講談に流れ、店の中が少し空いた頃。
「そういや白光の旦那、二つ名は板についたかね」
「まだ慣れません。本名の方が好きです」
「本名ねえ。ジェスター――道化たあ、英雄には妙な名だ」
隠居の何気ない一言を、カウンターの主人が拾った。小噺の構えである。
「ときに白光の旦那。あんたの名前の由来、考えたことはあるかい」
「ジェスター、ですか? 村の婆様がつけたと聞いてます。道化みたいに皆を笑わせる子になれ、って」
「いい婆様だ。……だがね、その『ジェスター』って言葉、もう一段古い意味があるのさ」
マロットの鈴が、ちり、と鳴った。小噺の開演の音である。
「道化を『ジェスター』と呼ぶのは、道化が『ジェスト』を語る者だったからさね。ジェストってのは、古い言葉で――武勲。偼業。つまり、英雄の物語のことだ」
卓の空気が、少し変わった。
「大昔、宮廷で英雄譚を語り聞かせるのが、道化の元々の仕事だった。武勲詩を語る者、ジェスター。それが年月で笑いの係に転じて、今の道化になった。……だからね、旦那」
バラッドは、杯を掲げた。
「あんたの名前は、もともと『英雄譚』って意味なのさ。婆様は、いい名前をつけなすった」
ジェスターは、しばらく黙っていた。
黙って、自分の手のひらを見て、それから、くしゃりと笑った。
「英雄譚……そうか。俺は、名前に追いつけたのかな」
「追いついたかどうかは、あたしゃ知らないがね」
バラッドは、俺の方をちらりと見た。
「英雄譚ってのは、一人じゃ書けないもんさ。語る者と、語られる者と――載らない者とでね」
載らない者、のところで、俺は麦酒を少し深く飲んだ。飲むしか、やることがなかった。
三十年前に黙った道化は、今夜、言うべきことを全部、小噺の包み紙で言い切っていた。あれが本職の仕事である。俺の三年など、まだ前座もいいところだった。
「ところで旦那、家名の方は? クラウン、ってのは」
「それが、よく分からないんです。村には母方の姓しか伝わってなくて。クラウンは、物心つく前に亡くなった父の姓だと」
「…………」
バラッドの、杯を磨く手が。
一瞬、止まった。
一瞬である。次の瞬間には手は動いていて、声もいつも通りだった。いつも通りに戻る速さが、三十年の宮廷勤めの速さだった。
「――クラウン、ね。北の言葉じゃ、王冠の家って意味になる。豪気な家名じゃないか」
「王冠! はは、うちは王冠どころか、鍋も一つしかなかったですよ」
「そうかい。……その短剣は、父方の?」
「はい。形見だそうです」
「……大事にしな」
二度目の「大事にしな」だった。一度目より、半音低かった。
俺は、聞かなかったふりの練度を、この夜も更新した。更新しながら、頭の抽斗に書き込んだ。バラッドは、クラウンの名に、心当たりがある。三十年、北の宮廷にいた男が、である。
抽斗の、夢と鈴と同じ段が、また少し重くなった。
重くなった抽斗は、今夜は開けない。宴の夜に開けていい抽斗と、いけない抽斗がある。いけない方の抽斗ほど中身が大きいと相場は決まっているが――大きい中身は、旅の先で開くものだ。王都は、北にある。
――さて、ここで最後に、あの黒い手帳の締めの頁を引用しておく。
俺がこれを読むのは、まだ先の話だ。だが、この夜のどこか遠くで書かれていたはずの頁である。
――最終報告。試作体および本体ノクトゥルヌ、損耗。原因、対象の戦力、および都市の防衛設計。
――対象(クラウン卿)の力は、本物と観測される。ただし覚醒は未完。器は、まだ満ちていない。
――周辺人物の記録。受付係、精緻な記録者。酒場の主人、所作に宮廷の礼の痕跡あり、要調査。従者、名称未確認。特記事項なし。
――勧告。第三段階の実施は時期尚早。器の成熟を待ち、観測を継続すべきである。
――観測は、継続する。
継続する、の四文字の下に、几帳面な字で、小さな追記があった。
――私見。当地の防衛は、設計が良すぎる。設計者の欄が、空白のままである。
空白。
あの男は最後に、俺の形をした空白を、一つだけ書き残していた。名前のない欄として。
埋まらない空欄を守るのは台帳係の仕事だと、誰かが言っていた。あの学士の帳面の空欄を守るのは、たぶん、これからの俺の仕事である。仕事の量は増えるばかりだ。増えるばかりだが、雇い主のいない仕事の帳簿は、今夜も黒字である。
名称未確認。特記事項なし。
ひと月足らず、あの几帳面な字と殴り合って、勝ち取った六文字である。俺の名は、今回も、どこにも載らなかった。
載らなかったことを、この夜の俺はまだ知らない。知らないまま、篩火の向こうの馬鹿騒ぎの中で、二年ぶん損したと騒ぐ男の隣で、笑っていた。




