第十一章 夜想曲を止めろ(三)
最初の一射は、前触れなく来た。
折り畳まれた巨体の正面が、一瞬窪み、次の刹那、空気の塊が音もなく走った。
無音の衝撃波。
軌道上の地面が帯状に抉られ、音の壁の一角――鈴の台座三基が、まとめて砕け散った。破片の飛ぶ音すら、遅れて聞こえた。撃たれた場所の音が、後から追いつく。そういう、道理の壊れた一撃だった。
壁に、穴が開いた。
穴から静寂が漏れ出し、円がじわりと膚らむ。
壁の外で、ゴルドーの部下たちが動くのが見えた。予備の鈴を担いで、穴へ走る。走りながら、誰も悲鳴を上げない。祭りの撤去で鍛えた連中は、崩れた持ち場の直し方を体で知っている。穴は、三十を数える間に塞がれた。塞がれたが、次を撃たれれば、また開く。根本を断つしか、ない。断ちに行ける人間は、円の中に、二人しかいなかった。
そして奴の正面が、ゆっくりと、次の的へ旋回した。
鐘楼である。
街で一番大きい音源。奴にとっての、最大の敵。あそこには鐘つきの人間がいる。
まずい。
俺の足に力が入った、その時。
視界の端で、拳が一度、上がった。
ジェスターの合図。注意、ではない。あいつは拳を上げたまま、俺を見て、それから自分の腰の短剣を指した。
唇が、動く。
き、こ、え、る、ようにする。
何をする気か、悟った。悟って、俺は自分の計算を始めた。衝撃波の発射の律動。鐘の拍子とのずれ。あいつの踏み込みの速さ。肩の残り八割。全部並べて、出た答えは――五分。
五分の賭けに、あいつは行く気だ。
五分。
ひと月前の俺なら、迷わなかった。賭け率が五分の卓に、あいつを座らせはしなかった。裏から札を差し替えて、九割の卓に作り替えてから、座らせた。
だが、今は知っている。
差し替えた札で勝った五分は、あいつの中で、一生五分のままだ。あいつが今夜欲しいのは、勝ちじゃない。自分の手で引いた札で、崖っぷちを渡り切ることだ。
それに――五分というのは、俺の計算である。あいつの計算では、違う数字が出ているのかもしれない。あの半歩を、あの拍子を、俺はまだ、全部は知らない。
止めるか。代わるか。今なら、まだ。
俺は、拳を握って。
握ったまま、開いた。
動かない。
それが、返事だった。あいつはひとつ頷いて、前へ出た。
奴の正面が窪む。第二射の予備動作。撃つ瞬間、奴は聞けない。閉じた耳は、引き金と引き換えに、世界を手放す。
その一拍を、あいつは待っていた。
鐘の拍子、三つ目の頭。
第二射が走る。軌道は鐘楼――ではない。読み違えたふりの半歩で、あいつは自分の体を軌道の際に置いていた。的を自分に引き受けたのだ。衝撃波があいつの外套の端を裂き、掠め、抜けていく。
俺の足は、半歩だけ出て、止まった。
軌道は見えていた。掠める。掠めるだけだ。あいつの半歩が、そう計算していた。俺の計算と、同じ答えを。
信じて、動かない。
動かないことが、今日の俺の、全力だった。
三年間、俺は動くことで守ってきた。動いた回数なら、誰にも負けない。動かずに守る方が、動くより何倍も難しいと、今日初めて知った。握った拳の中に、汗が溢まっていた。動いた夜には出なかった類の、汗だった。溢まった汗の量だけ、俺は今日、あいつを信じたのだと思うことにする。
衝撃波は城壁の胸壁を削り、鐘楼の脇を抜けた。鐘が、大きく揺れる。二十年物のロープなら、あそこで切れていた。昨夜の新品は、軋んで、耐えた。鐘は落ちずに、揺れの勢いのまま――ひときわ大きく、鳴った。
好機は、その音の中にあった。
あいつは駆けた。抉れた地面の帯を、読み切った起伏を、最後の二十歩。
奴の耳が開くより早く、懐へ。
そして、抜いた。
剣ではない。
鈴の短剣だった。
振り抜いた柄頭で、澄んだ音が、生まれた。
ちりん。
静寂の円の中で、その一粒だけが、死ななかった。
澄みすぎた音は、置き去りにならない。届けたい場所まで、歩いていく。あの書庫の夕方に聞いたのと同じ音が、音の死んだ世界を、まっすぐに歩いた。閉じた七つ目の耳の花の、その中心まで。
なぜあの鈴だけが静寂を歩けるのか、理屈は今も知らない。家に代々伝わる、装飾ばかりの短剣。物心つく前からあいつの腰にあった、澄みすぎた音。
知らない理屈のまま、音は届いた。
届けたい場所へ、届けたい音が届く。世界には、たまに、そういう仕事をする道具がある。持ち主に、よく似た道具が。
奴が、聞いた。
聞いてしまった。
閉じ切っていた花が、反射で開く。開いた瞬間、折り畳まれていた甲殻が、全身で「聞く形」に緩んだ。
攻めていた側が、丸裸で聞き入る側に回る。
主導権が、音もなく裏返った。
その無防備の一拍に。
ジェスター・クラウンの、渾身の一閃が入った。
峰ではない。刃だった。開いた花の中心、器物の芯へ、まっすぐに。
一撃に、迷いの影がなかった。生き物には峰を、器物には刃を。あいつの剣の礼儀は、最後の一振りまで折り目正しかった。
手応えは、俺のところまで見えた。
巨体が、痙摮した。痙摮して、折り畳まれた形のまま、静かに崩れ始めた。甲殻が端から黒い砂になり、砂が風に散り、静寂の円が、内側から溶けていく。
音が、世界に戻ってきた。
鐘の音。鈴の音。風。誰かの叫び。全部いっぺんに戻ってきて、世界は一瞬、耳鳴りのようにうるさく、それから、正しくなった。
練兵場の真ん中に、あいつが立っていた。
右手に剣、左手に鈴の短剣。肩で息をして、外套は裂けて、それでも、立っていた。
最後の砂が散ったとき、城壁の上から、歓声が爆発した。
「白光ォォォ!」
ドヤールの声が一番大きかった。鐘楼の窓からゴルドーの部下が身を乗り出し、ガスが弓を突き上げ、リリが眠そうな目のまま両手を挙げていた。
あいつは、それに応えなかった。
応える前に、こちらを向いた。
まっすぐ歩いてきて、俺の前で止まって、笑った。煏と土と汗の顔で、目尻の下がる、あの笑い方で。
「――勝ったぞ、ヨウタ」
「ああ」
「勝った! 二人でだ!」
二人で、と、あいつは言った。
俺は今日、剣を振っていない。振らず、動かず、鈴を直し、荷物を担いだだけである。だがあいつの帳簿では、それは「二人で」に数えられるらしい。
その帳簿の付け方を、俺はもう、訂正しない。
「ああ。……二人でだ」
言い切る前に、あいつは俺の肩を掴んだ。あの再会の日と同じ、両方である。
「鈴の音、聞こえたか! 円の中で鳴ったんだ! お前の言う通りだった、この短剣、澄みすぎてる!」
「俺は、澄みすぎてるとしか言ってないぞ」
「充分だ! それで賭けに踏み切れた!」
賭けの根拠の一枚が俺の一言だったと知らされて、背中に遅れて汗が出た。五分の卓の札に、俺は知らないうちに、一枚混ざっていたらしい。
「それと鐘だ! ロープがよく保った! 二十年物だって管理人が言ってたのに!」
「……手入れが良かったんだろ」
「そうだな! 管理人に礼を言おう!」
管理人は今ごろ、身に覚えのない称賛の予感に首をかしげている頃である。
歓声が練兵場に流れ込んでくる。人の波が、あいつを担ぎ上げようと押し寄せてくる。
担がれかけたあいつは、じたばたと暴れて降り、代わりに鐘楼の方角と、鈴の外周と、城壁の弓手たちへ、順に深く頭を下げた。
「皆のおかげです! 音の壁が、街を守った!」
歓声が、二回り大きくなった。手柄を配って回る英雄というものを、この街は今日、初めて見たのかもしれない。配られた手柄は、配った者の株になる。ならなくても、あいつは配るのだろうが。
その喧噪の中で、俺だけが、気づいていた。
北の丘の、霧の名残の向こう。
書き損じの跡のような気配が、ひとつ。
静かに、身じろぎをして――帳面を、閉じる。
閉じて、一度だけこちらに向き直り、それから、音もなく薄れて消えた。
観測は、完了したらしい。
完了した観測の結論を、俺は知っている気がした。器の力は、本物と観測される。嘘の伝説は、今日の本物の勝利で、裏書きを手に入れた。裏書きの筆跡だけが、俺の知る、あの几帳面な字である。
何を書いたのかは、後日、読むことになる。読む日が来たら、紙背まで読んでやる。




