第十一章 夜想曲を止めろ(二)
ノクトゥルヌ、と誰かが呼んだ。夜想曲。名づけたのは、たぶんあの学士の同類だろう。趣味の悪い詩心である。
霧を割って現れた本体は、試作の三倍あった。
黒曜の甲殻。輪郭の定まらない皮膜。頭のあるべき場所に、耳の形の器官が――七つ。歩くたび、世界から音が剝がれ落ちていく。静寂の円は、目測で一町。街まで届けば、鐘も、悲鳴も、避難の号令も、全部食われる。
だが、奴は街へ向かわなかった。
向かえなかった、が正しい。脇道の音は死んでいて、進む先の音だけが濃い。音を食う獣は、餌の濃い方へ歩く。三里の道普請は、無駄にならなかった。
城壁の上には、避難を終えた街の代わりに、持ち場についた顔が並んでいた。弓を構えるガス。鐘楼の窓に、ゴルドーの部下。避難所の煙突からは、もう炊き出しの煙が上がっている。婆さんのパンの煙である。戦場の朝に、パンの匂いのする街は、たぶん負けない。
奴は誘導路を素直に歩き、旧練兵場の中央へ、のそりと踏み込んだ。
瞬間。
鐘が、鳴った。
春告げの連続打ち。街の方角から、腹に響く重い音が、正確な拍子で叩きつけられる。呼応して、練兵場の外周に移設された三十基の鈴が、いっせいに鳴り始めた。
音の壁である。
静寂の円の縁と、音の壁のぶつかる境目が、見えない火花を散らした。円が音を食い、壁が音を注ぎ、食う速さと注ぐ速さが、拮抗する。奴の円は、練兵場の内側で堰き止められた。街までは、届かない。
鐘の音というものを、俺はこの朝ほど頑もしく聞いたことがない。春告げ。名のある鐘は、いい音で鳴る。そういうことになっている、とうそぶいた日の自分に教えてやりたい。なっている、ではない。今日この朝、それは、そうなのだ。
「――行くぞ、ヨウタ!」
「ああ!」
円に入る寸前、あいつが言った。
「中では声が届かない。合図を決めよう」
「拳を上げたら注意。二度で下がれ。三度で」
「三度は、使わない予定でいこう」
「賛成だ」
俺たちは、円の境目を同時にまたいだ。世界の音が、すとんと落ちた。
二人で、である。
規約第二条、改正済み。俺の背には荷物――替えの縄、油壷、予備の盾帯、水筒、そして鍋。あいつの半歩後ろが、今日の俺の、公式の持ち場だった。
円の中は、音のない戦場である。だが、あの夜と違うことが二つあった。一つ、壁の外から鐘と鈴の律動が、骨越しに微かに届く。拍子が、あるのだ。二つ――隣に、俺がいる。
音のない世界で、あいつが一度だけ振り向いて、口だけを動かした。だ、い、じょ、う、ぶ、か。
頷いて返す。あの夜と同じ唇の形が、今日は、恐怖の道具ではなかった。
開戦した。
そして俺は、早々に気づくことになる。
この化け物の戦い方が、根本的に、おかしい。
ジェスターが踏み込む。奴の甲殻が、瞬時に組み変わる。見えない何かを受け流す、傘のような形に。だが、来るのはあいつの峰打ちである。傘は峰打ちに向かない。一撃が、甲殻の継ぎ目に入る。
奴が後退する。耳の花が三つ、天に向かって開く。何かを探す形に。歌でも降ってくると思っているのか。降ってこない。降ってこない間に、あいつの二撃目が花の根元を打つ。
対勇者機構、と呼ぶべきなのだろう。奴の体は、あの手帳の観測に基づいて設計されている。器は奇跡を隠している。ゆえに、奇跡に備える。見えない斬撃、天からの光、覚醒の爆発。ありとあらゆる奇跡への備えが、甲殻の組み換えの一手一手に見て取れた。
ゆえに――奇跡でないものには、備えていない。
半歩の受け流し。読み切った起伏。二十年物の峰打ち。地道と積み重ねで組んだ本物の剣士の仕事に、奇跡対策の傘は、ことごとく的を外し続けた。
三度目の空振りは、傑作だった。奴は突然、甲殻の一部を鏡のように磨き上げた。光の奇跡を反射する構えである。あいにく今日は曇りで、反射すべき神の光は、予報にない。磨かれた鏡に映ったのは、峰打ちを構えた剣士の、実に現実的な姿だけだった。
映った現実が、そのまま叩き込まれた。
鏡は、割れた。
設計者の理屈を、想像してみる。観測記録は語る。器の周辺では、説明のつかない事象が起きる。ゆえに器は、説明のつかない力を持つ。ゆえに兵器は、説明のつかない力にのみ備えればよい――三段論法の形は、完璧である。前提が、俺という説明のつかない裏方を、勘定に入れ忘れているだけで。
帳簿の間違いは、決算の日に一番高くつく。今日が、あの手帳の決算日だった。訂正の申し立ては、受け付けない。こちらは三年、検算に耐える帳簿をつけてきたのである。
嘘の伝説に備えた兵器が、本物の努力に空を切る。
この皮肉を笑っていいのは、たぶん世界で俺だけである。笑っている場合でもないので、帳簿の欄外に書き留めるだけにしておいた。
「(左、鈴が一基傾いた)」
外周で、移設鈴の台座が一つ、奴の余波で傾いだ。傾げば音が痩せる。痩せれば円が押し出す。
「ジェスター! 左の鈴、直してくる!」
「頑んだ! 荷物持ち!」
俺は走った。堂々と、皆の見ている前で、である。
台座を起こし、留め具を締め、鈴の向きを整える。手際が良すぎないよう、それでいて間に合うよう、三年物の匙加減で。外周の警備に入っていたゴルドーが、駆け寄って台座を支えた。
「あんた、こういうのは早えな!」
「雑用だからな!」
「二基目も緩んでる! 俺が見る!」
「頑む!」
ゴルドーの部下たちが散って、外周の点検が回り始めた。留め具を昨夜緩めておいた台座は、締め直すのも早い。設営を手伝った人夫たちは、自分の仕事の速さに驚きながら、誇らしげだった。誇っていい。音の壁は、あんたたちの壁だ。
外周では、伝令のドヤールが走り続けていた。鐘楼と練兵場の間、片道二町を、もう七往復。「まだまだァ!」と吼える声だけは、講談で鍛えた通りによく通った。
鈴が、鳴り直した。円の縁が、一歩ぶん押し返される。
音の壁の修理工。荷物持ちの戦場仕事としては、上出来の部類だろう。隠す必要のない働きというものを、俺は今日、生まれて初めて戦場でやっていた。妙な気分だった。悪くない、妙な気分である。
戦況は、押していた。
ジェスターの剣は、肩八割の制約の中で、それでも冴え続けた。無理な大振りを捨て、受け流しと峰の連打で、奴の花を一つずつ潰していく。
肩は、保っている。保たせている、が正しい。大振りを封じた剣は、代わりに手数と精度を上げた。円の外の鐘の拍子に、あいつは自分の呼吸を合わせている。音のない世界で、外の音に合わせて舞う剣士。あの学士が見ていたら、帳面に何と書くのだろう。奇跡、以外の言葉を探すのに苦労するはずである。奇跡ではないのだ。あれは、稽古の総量なのだ。
ちなみに本日の俺の隠れた内職は、ここまで一件だけである。奴の踏み込みで跳んだ石礎を一つ、あいつの死角で叩き落とした。一件。ひと月前の初陣は八件だった。減っていく内職は、あいつの成長の、裏の帳簿である。いつかこの欄が零になる日が来るのかもしれない。来たら来たで、俺は別の欄を作るだけだが。
三つ目の花が落ちた時、円の直径が、目に見えて縮んだ。
「効いてるぞ! このまま――」
ドヤールの伝令の声が、外周から届く。
その時だった。
奴が、動きを止めた。
止まって、残った四つの耳の花を、ゆっくりと、全部閉じた。
聞くことを、やめたのだ。
閉じた花を見ながら、俺の頭の中で、書庫の仮説が嫌な方向に伸びていく。音で操るものは、音で乱せる。なら――音で乱されるものは、いずれ、音を捨てる。
甲殻が軋む。皮膜が縮む。巨体が内側へ、内側へと折り畳まれ、密度を増していく。音を食う形から、別の何かへ。
円の縁がふるえ、境目の火花が、一斉に内側へ吸い込まれていく。壁の音が、急に軽くなった。食われていた音の行き先が、変わったのだ。
骨の奥で、警鐘が鳴った。
音を食うのをやめた静寂は、どこへ行く。
答えは、一つしかない。
――撃つ側に、回るのだ。




