↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/108

第十一章 夜想曲を止めろ(二)

 ノクトゥルヌ、と誰かが呼んだ。夜想曲。名づけたのは、たぶんあの学士の同類だろう。趣味の悪い詩心である。

 霧を割って現れた本体は、試作の三倍あった。

 黒曜の甲殻。輪郭の定まらない皮膜。頭のあるべき場所に、耳の形の器官が――七つ。歩くたび、世界から音が剝がれ落ちていく。静寂の円は、目測で一町。街まで届けば、鐘も、悲鳴も、避難の号令も、全部食われる。

 だが、奴は街へ向かわなかった。

 向かえなかった、が正しい。脇道の音は死んでいて、進む先の音だけが濃い。音を食う獣は、餌の濃い方へ歩く。三里の道普請は、無駄にならなかった。

 城壁の上には、避難を終えた街の代わりに、持ち場についた顔が並んでいた。弓を構えるガス。鐘楼の窓に、ゴルドーの部下。避難所の煙突からは、もう炊き出しの煙が上がっている。婆さんのパンの煙である。戦場の朝に、パンの匂いのする街は、たぶん負けない。

 奴は誘導路を素直に歩き、旧練兵場の中央へ、のそりと踏み込んだ。

 瞬間。

 鐘が、鳴った。

 春告げの連続打ち。街の方角から、腹に響く重い音が、正確な拍子で叩きつけられる。呼応して、練兵場の外周に移設された三十基の鈴が、いっせいに鳴り始めた。

 音の壁である。

 静寂の円の縁と、音の壁のぶつかる境目が、見えない火花を散らした。円が音を食い、壁が音を注ぎ、食う速さと注ぐ速さが、拮抗する。奴の円は、練兵場の内側で堰き止められた。街までは、届かない。

 鐘の音というものを、俺はこの朝ほど頑もしく聞いたことがない。春告げ。名のある鐘は、いい音で鳴る。そういうことになっている、とうそぶいた日の自分に教えてやりたい。なっている、ではない。今日この朝、それは、そうなのだ。

「――行くぞ、ヨウタ!」

「ああ!」

 円に入る寸前、あいつが言った。

「中では声が届かない。合図を決めよう」

「拳を上げたら注意。二度で下がれ。三度で」

「三度は、使わない予定でいこう」

「賛成だ」

 俺たちは、円の境目を同時にまたいだ。世界の音が、すとんと落ちた。

 二人で、である。

 規約第二条、改正済み。俺の背には荷物――替えの縄、油壷、予備の盾帯、水筒、そして鍋。あいつの半歩後ろが、今日の俺の、公式の持ち場だった。

 円の中は、音のない戦場である。だが、あの夜と違うことが二つあった。一つ、壁の外から鐘と鈴の律動が、骨越しに微かに届く。拍子が、あるのだ。二つ――隣に、俺がいる。

 音のない世界で、あいつが一度だけ振り向いて、口だけを動かした。だ、い、じょ、う、ぶ、か。

 頷いて返す。あの夜と同じ唇の形が、今日は、恐怖の道具ではなかった。

 開戦した。

 そして俺は、早々に気づくことになる。

 この化け物の戦い方が、根本的に、おかしい。

 ジェスターが踏み込む。奴の甲殻が、瞬時に組み変わる。見えない何かを受け流す、傘のような形に。だが、来るのはあいつの峰打ちである。傘は峰打ちに向かない。一撃が、甲殻の継ぎ目に入る。

 奴が後退する。耳の花が三つ、天に向かって開く。何かを探す形に。歌でも降ってくると思っているのか。降ってこない。降ってこない間に、あいつの二撃目が花の根元を打つ。

 対勇者機構、と呼ぶべきなのだろう。奴の体は、あの手帳の観測に基づいて設計されている。器は奇跡を隠している。ゆえに、奇跡に備える。見えない斬撃、天からの光、覚醒の爆発。ありとあらゆる奇跡への備えが、甲殻の組み換えの一手一手に見て取れた。

 ゆえに――奇跡でないものには、備えていない。

 半歩の受け流し。読み切った起伏。二十年物の峰打ち。地道と積み重ねで組んだ本物の剣士の仕事に、奇跡対策の傘は、ことごとく的を外し続けた。

 三度目の空振りは、傑作だった。奴は突然、甲殻の一部を鏡のように磨き上げた。光の奇跡を反射する構えである。あいにく今日は曇りで、反射すべき神の光は、予報にない。磨かれた鏡に映ったのは、峰打ちを構えた剣士の、実に現実的な姿だけだった。

 映った現実が、そのまま叩き込まれた。

 鏡は、割れた。

 設計者の理屈を、想像してみる。観測記録は語る。器の周辺では、説明のつかない事象が起きる。ゆえに器は、説明のつかない力を持つ。ゆえに兵器は、説明のつかない力にのみ備えればよい――三段論法の形は、完璧である。前提が、俺という説明のつかない裏方を、勘定に入れ忘れているだけで。

 帳簿の間違いは、決算の日に一番高くつく。今日が、あの手帳の決算日だった。訂正の申し立ては、受け付けない。こちらは三年、検算に耐える帳簿をつけてきたのである。

 嘘の伝説に備えた兵器が、本物の努力に空を切る。

 この皮肉を笑っていいのは、たぶん世界で俺だけである。笑っている場合でもないので、帳簿の欄外に書き留めるだけにしておいた。

「(左、鈴が一基傾いた)」

 外周で、移設鈴の台座が一つ、奴の余波で傾いだ。傾げば音が痩せる。痩せれば円が押し出す。

「ジェスター! 左の鈴、直してくる!」

「頑んだ! 荷物持ち!」

 俺は走った。堂々と、皆の見ている前で、である。

 台座を起こし、留め具を締め、鈴の向きを整える。手際が良すぎないよう、それでいて間に合うよう、三年物の匙加減で。外周の警備に入っていたゴルドーが、駆け寄って台座を支えた。

「あんた、こういうのは早えな!」

「雑用だからな!」

「二基目も緩んでる! 俺が見る!」

「頑む!」

 ゴルドーの部下たちが散って、外周の点検が回り始めた。留め具を昨夜緩めておいた台座は、締め直すのも早い。設営を手伝った人夫たちは、自分の仕事の速さに驚きながら、誇らしげだった。誇っていい。音の壁は、あんたたちの壁だ。

 外周では、伝令のドヤールが走り続けていた。鐘楼と練兵場の間、片道二町を、もう七往復。「まだまだァ!」と吼える声だけは、講談で鍛えた通りによく通った。

 鈴が、鳴り直した。円の縁が、一歩ぶん押し返される。

 音の壁の修理工。荷物持ちの戦場仕事としては、上出来の部類だろう。隠す必要のない働きというものを、俺は今日、生まれて初めて戦場でやっていた。妙な気分だった。悪くない、妙な気分である。

 戦況は、押していた。

 ジェスターの剣は、肩八割の制約の中で、それでも冴え続けた。無理な大振りを捨て、受け流しと峰の連打で、奴の花を一つずつ潰していく。

 肩は、保っている。保たせている、が正しい。大振りを封じた剣は、代わりに手数と精度を上げた。円の外の鐘の拍子に、あいつは自分の呼吸を合わせている。音のない世界で、外の音に合わせて舞う剣士。あの学士が見ていたら、帳面に何と書くのだろう。奇跡、以外の言葉を探すのに苦労するはずである。奇跡ではないのだ。あれは、稽古の総量なのだ。

 ちなみに本日の俺の隠れた内職は、ここまで一件だけである。奴の踏み込みで跳んだ石礎を一つ、あいつの死角で叩き落とした。一件。ひと月前の初陣は八件だった。減っていく内職は、あいつの成長の、裏の帳簿である。いつかこの欄が零になる日が来るのかもしれない。来たら来たで、俺は別の欄を作るだけだが。

 三つ目の花が落ちた時、円の直径が、目に見えて縮んだ。

「効いてるぞ! このまま――」

 ドヤールの伝令の声が、外周から届く。

 その時だった。

 奴が、動きを止めた。

 止まって、残った四つの耳の花を、ゆっくりと、全部閉じた。

 聞くことを、やめたのだ。

 閉じた花を見ながら、俺の頭の中で、書庫の仮説が嫌な方向に伸びていく。音で操るものは、音で乱せる。なら――音で乱されるものは、いずれ、音を捨てる。

 甲殻が軋む。皮膜が縮む。巨体が内側へ、内側へと折り畳まれ、密度を増していく。音を食う形から、別の何かへ。

 円の縁がふるえ、境目の火花が、一斉に内側へ吸い込まれていく。壁の音が、急に軽くなった。食われていた音の行き先が、変わったのだ。

 骨の奥で、警鐘が鳴った。

 音を食うのをやめた静寂は、どこへ行く。

 答えは、一つしかない。

 ――撃つ側に、回るのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。