第十一章 夜想曲を止めろ(一)
翌朝一番に、俺は約束を履行した。
「昨夜、森の北で妙な音を聴いた。地の底からだ。音のない吼哮、としか言いようがない。三度、等間隔で」
「等間隔……時報みたいにか」
「そうだ。生き物は等間隔に吠えない」
ジェスターは、朝稽古用の木剣を置いた。置いて、真顔になった。
「隠さず言ってくれたな。ありがとう」
「約束だからな」
「よし。ギルドに行こう。……嫌な符合がある。あの実験体、あれが試作なら、本番がいるはずだと、ずっと考えてた」
同じ結論に、あいつは自力で着いていた。
ギルドの会議室に、顔が揃った。非常招集の朝のギルドというものを、俺は初めて見た。誰の顔にも寝不足と覚悟が半分ずつ載っていて、その配合が、妙に頑もしかった。
支部長代理の席にミエルさん。商人組合からバルサ親方。警備組からゴルドー。冒険者側はジェスターと、ドヤール一行と、俺である。俺の椅子は末席の壁際だが、椅子があること自体、二年前には考えられなかった。
「状況を整理します」
ミエルさんが、黒板に線を引いた。
「北の旧坑道の深部から、正体不明の振動。過去の混成群れ・実験体との関連が疑われます。最悪の想定は――大型の、音を扱う魔物の出現」
「静寂の円、か」
ジェスターが低く言った。
「俺が戦ったやつは、周りの音を食った。手鐘も鳴らなかった。本番が同じ性質で、もっと大きいなら――街の鐘も、警報も、殺される。音のない襲撃になる」
会議室が静まった。静まった中で、あいつは続けた。
「だから、逆をやる。音で迎え撃つ」
黒板の前に立って、あいつは自分の仮説を並べた。音で操るものは、音で乱せる。皮膚で聴く魔物に、音は刃になる。奴の静寂の円より外から、大きな音を、正確な拍子で叩き込む。
「街で一番大きい音は、春告げの鐘だ。鐘楼から連続打ちで叩く。街道の魔物よけの鈴を、決戦場の周りに移設して鳴らす。円の内側は音が死ぬ。なら、円の外側を、音の壁で囲む」
「決戦場はどこにするね」と親方。
「城門前の旧練兵場。広くて、住居から遠くて、鐘楼の音がまっすぐ届く。あそこに誘い込む」
「誘い込めるのか、そんな都合よく」
「……そこが、一番の穴だ。正直、賭けになる」
賭けにはならない。
させない。誘導は、裏方の管轄である。
会議はその後、避難の段取りに移った。ミエルさんが撤去訓練の再演という形式を提案し――祭りの撤去で鍛えた連中は、手順を体で覚えている――ゴルドー一味が警備網を引き受けた。ドヤールは鐘楼の鐘つき役に立候補して、リリに「講談で喉を潰した人は駄目っす」と却下され、伝令役に回った。
「伝令って、俺様が一番足が速いからだよな? な?」
「はいはい、そうっす」
「ガスは」
「弓の補佐だ。……あと、実況はしない」
「成長っすね」
場が少しだけ緩んだ。緩ませたのが計算なら、あの三人はたいした軍師である。計算でないなら、もっとたいしたものである。
「避難対象は老人と子供を優先。名簿は、こちらで作成済みです」
「もう作ったのかい」と親方。
「三日前から作っていました。台帳は、こういう朝のためにあります」
三日前。吼哮より先である。観測者の準備は、今回も半歩先に置いてあった。
「サイキ様の配置は」
「荷物持ちだ。ジェスターの隣で」
言うと、会議室の何人かが顔を見合わせた。見合わせて、誰も反対しなかった。
「第二条改正済みだからな」
ジェスターが胸を張り、誰にも通じない条文を、誰も追及しなかった。この街の会議は、たまに優しさで議事が進む。
散会の後、俺は「雑用の仕込みがある」と言って、街へ出た。
嘘ではない。仕込みである。ただし、雑用の規模ではない。
ここからの一昼夜を、俺は工程表で生きた。
工程一。誘導路の整備。
旧坑道から旧練兵場まで、奴が「自然に」選びたくなる一本道を作る。魔物は音を食うなら、音の濃い方へ寄るはずだ。俺は経路上の岩の反響を確かめ、風の通り道を読み、逆に、経路から外れる脇道には音の死んだ区間をこしらえた。落ち葉を厚く敷けば、音は死ぬ。三里ぶんの道普請である。日が暮れた。
道普請の間、旧坑道の入口には近づかなかった。近づけば、起こす。起きる時刻は、向こうが決める。こちらで決められるのは、起きた奴の歩く道だけである。
工程二。決戦場の整地。
旧練兵場の地面から、足を取られる石を除き、崩れると危ない古い的柱を「風で倒れた」ことにして撤去する。ジェスターの足場になる高低差だけを、几帳面に残す。あいつの半歩の受け流しは、平らな地面より、読み切った起伏の上でこそ活きる。
起伏を読みながら、俺はあいつの足運びを思い浮かべた。半歩の受け流し、四撃目の踏み込み、決めの一閃。ひと月半、隣で見てきた足である。振り付けを知っている舞台係の仕事は、速い。
工程三。鐘楼の整備。
春告げの鐘のロープは、二十年物だった。連続打ちに二十年物は保たない。夜のうちに、倉庫の新品と交換しておいた。ついでに滑車に油を差し、鐘つき台の軋む床板を打ち直した。朝になれば、鐘楼の管理人は首をかしげるだろう。かしげるだけで、済む。俺の仕事は、いつも通り、首をかしげさせるまでである。
ロープを替えながら、ふと、供託金を思い出した。落とし穴の報酬、銀貨三百枚。十年後には鐘楼の修繕費になる金である。十年を待たずに、俺は今夜、無償で前倒しの修繕をしていた。行政より早い、供託金の使い道である。
工程四。鈴の移設の下抵え。
街道の魔物よけの鈴三十基は、明日、組合の人夫が運ぶ手筈になっている。人夫の主力は、元夜霧の帯である。俺は夜のうちに、鈴の台座の錆びた留め具を全部緩めておいた。明日の作業が、半分の時間で終わるように。峠で俺の顔を見た男たちは、たぶん何も言わない。言わない借りの返し方を、あの連中はもう知っている。
工程五。避難路の点検。
婆さんの店から避難所まで、荷車の通る道の轍を埋め、角の水溜まりに板を渡した。陛下の籠が揺れないように、である。ついでに治療院の非常口の建て付けを直した。ミエルさんの見取り図は、まだ懐にある。使わずに済ませるための、点検だった。
婆さんには、組合経由で「明日は店を休んで、朝から避難所の炊き出し番を」と頑んである。パンを焼く婆さんは、避難所で一番強い。
夜明け前、俺は城壁の上に立った。
一昼夜の工程を、頭の中の帳簿で検算する。誘導路、決戦場、鐘楼、鈴、避難路。五件、完了。すべて「偶然」と「手際のいい雑用」の顔をしている。
我ながら、集大成だった。三年の裏方業の全部を、この一昼夜に注ぎ込んだ。
誰の記録にも載らない大工事である。載らなくていい。この工事の目的は、ただ一つ。
あいつの剣が、あいつの作戦が、あいつの勇気が――全部そのまま、本物のまま、通用する舞台を建てることだ。
主役の実力で幕が下りる芝居ほど、いい芝居はない。
それから、最後の一件を数に入れるかどうか、少し迷った。
工程六。観測者。
あの学士は、どこかで今夜も見ている。居場所の見当は、ついている。ついているが、手は出さない。出せば、三年の隠蔽が崩れる。それに――妙な話だが、あの几帳面な帳面には、今夜の芝居の一部始終を、正確に書き残してもらう必要があった。教団への報告が「器の力は本物」で締まるなら、連中の目は当分、俺には向かない。
観測者には、観測させておく。舞台の照明は、客席までは照らさないものだ。
検算を終えて、俺は懐から愚者の札を出した。
薄明かりの中で、旅人は今日も空を見上げて笑い、犬は崖の縁を睫んでいる。
「……仕事だ、相棒」
誰にも聞こえない声で言って、札を仕舞った。
東の空が、灰色に緩み始めた。
緩んだ空の下、城門の外の野に、朝霧が低く立ち込めている。
霧の向こうから、音が消えていくのが分かった。夜明けの鳥が途中で黙り、風の音が薄れ、世界の端から順に、静寂が塗られてくる。
その霧の奥で。
何かが、動いた。
霧が、内側から山の形に盛り上がる。
音は、ない。
音のないまま、巨きな影が、ゆっくりと、こちらへ向かって歩き始めていた。




