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第十章 道化の夜話(三)

 長屋に戻って、俺は鞄の前に座った。

 座って、しばらく見て、それから、中身を全部出した。

 着替えを棚に戻す。櫞を枕元に戻す。七つ道具を床下に戻す。統計の綴りと、愚者の札と、規約の写しは、卓の上に並べて置いた。

 空になった鞄を、寝台の下の奥へ押し込む。

 荷解きというものは、荷造りの倍の速さで終わる。積む理屈は長くて、降ろす理屈は一行で済むからだ。

 一行を、書いておく。

 載らない名前で、隣にいることはできる。

 バラッドの言う通り、俺は載らない側の人間だ。それは変わらない。変える気もない。だが、載らないのと、消えるのとは、別の話だった。あの札の犬は、絵の隅にいて、絵の真ん中の旅人と、同じ道を歩いている。

 隅でいい。隅で、隣を歩く。

 消えることだけが、やめられる償いだった。

 償いの続きは、別の形でやる。夜業で。隣で。載らない名前のままで。方式を変えるだけで、金利は変わらない。むしろ上がる。上がった分は、俺が笑って払う。そういう帳簿に、今夜から切り替えた。


 翌日、ジェスターが退院した。

 医者は「あと三日」と渋ったが、本人が病室で素振りを始めたため、療養の意味がないと判断されたらしい。追い出される形の退院である。

 門前には、ちょっとした人垣ができていた。

「白光様! お帰りなさい!」

「快気祝いだ、持ってきな!」

 婆さんのパン、ドヤールの快気講談の予約、ゴルドー一味の揃った敬礼。あいつは一人一人に頭を下げて回り、人垣が解けるまでに半刻かかった。人垣の後ろにはミエルさんの姿も見えた気がしたが、目が合う前に消えた。台帳の外の時間を、あの人はいつも上手に隠す。

「……すごい人気だな」

「違うぞ、ヨウタ。これは人気じゃない」

「じゃあなんだ」

「ご近所づきあいだ」

 英雄の定義がまた一つ、あいつの中で書き換わっていた。いい書き換わり方だと思った。

「はっはっは、退院祝いに煮込みを食おう。豆の多いやつ」

「笑い事か。肩、まだ上がりきってないだろ」

「八割は動く」

「残りの二割で命を落とすのが冒険者だと、教本に書いてなかったか」

「……書いてあった」

 珍しく、素直に引いた。どん底の夜は、あいつの中の何かも、少しだけ組み替えたらしい。

 鈴鳴り亭で、退院祝いの煮込みが出た。豆は、多い日だった。

「見ろヨウタ、豆が多い。得した」

「退院初日から運を使うな」

「運じゃない。日頃の行いだ」

「どっちでも変わらん気がするが」

 二杯目の途中で、あいつはふと、手を止めた。

「……うまいなあ、飯って」

 死にかけた人間の言う「うまい」は、辞書の「うまい」より三段深い。俺は黙って、自分の一杯を食った。

 食い終えて、あいつはバラッドに手鐘を返そうとした。

「世話になりました。おかげで――いや、鳴らせませんでしたが」

「持っときな」

 バラッドは、押し返した。

「次は、鳴らせる場所で鳴らしな」

「……はい!」

 手鐘は、あいつの腰の、鈴の短剣の隣に収まった。鈴が二つになった腰である。よく鳴る男に、なっていくらしい。

 店を出て、城壁の上へ歩いた。

 いつかの夜と、同じ場所である。月は、あの夜より少しだけ太っていた。

 太った月の下で、あいつは胸壁に肘を置いた。置き方まで、あの夜と同じだった。違うのは、肩の包帯と、腰の鈴が二つになったこと、そして――これから始まる議題である。

「ジェスター。話がある」

「奇遇だな。俺もだ」

「俺が先だ」

 言うと決めていたことを、言った。

「規約の、修正動議を出す」

「ほう?」

「第二条。危険な役目はジェスターが引き受ける――これを廃止して、こう直す。危険な役目は、二人で分ける」

 あいつは、月を見たまま、しばらく黙っていた。

「理由を聞こう、議員」

「岩陰は、もう嫌なんだ」

 理屈を百個用意してきた。費用対効果も、戦術論も、従士制度の歴史的変遷も。用意した百個を全部飛ばして、出てきたのは、それだった。

「お前が斬られるのを、後ろで見てるのは、もう嫌だ。守られる係も、守る係も、どっちも、もう嫌だ。隣がいい。俺は、お前の隣で、同じ崖っぷちを歩きたい」

 皮肉の在庫が、一つも出てこなかった。

 素直というものを三年ぶりに使ったので、使い方が下手で、声が少し震えた。

 あいつは、月から俺へ、ゆっくり視線を戻した。

 それから、笑った。どん底の前と同じ、目尻の下がる笑い方だった。

「――可決だ」

「早いな、議会」

「いい条文は、審議が要らない」

 いつか俺が言われた台詞を、そっくりそのまま返された。議長の座を明け渡した覚えはないのだが、この議会の議事録は、いつの間にか俺の知らない頁が増えている。

「ただし、条件がある」

 ジェスターは指を一本立てた。

「無茶はしない。異変を感じたら、隠さず言う。……お前、たまに一人で全部背負う顔をするからな」

 心臓の裏側を、素手で触られた気がした。

「善処する」

「その善処は信用しないと、前に決めた」

「……分かった。約束する」

「よし」

 約束、という言葉の重さを、互いに知っている夜だった。だから、それ以上は言わなかった。言わない代わりに、あいつは拳を差し出して、俺は拳を合わせた。

 条約の批准というものは、案外、これくらいの音で済む。

「そういえば、お前の話はなんだったんだ」

「ん? ああ」

 あいつは、少し照れた顔をした。

「同じ話だ。第二条を直そうと思ってた。病室で考えたんだ。守る守られるって数え方をやめないと、俺はまた勝手に一人で受けようとする。それは、お前に失礼だって」

「……」

「だから可決が早かった。議案が同じなら、審議はいらないだろ」

 善意の二正面は、最後の最後で、同じ一枚の紙に着地した。二枚に割れた善意が、書いた文面まで同じだったのだ。笑うところなのか泣くところなのか、判定は保留にして、俺は月を見た。

「なあ、ヨウタ」

「なんだ」

「隣ってのは、いいな」

「……ああ」

 語彙の少ない夜だった。少ない語彙で足りる夜のことを、人はたぶん、いい夜と呼ぶ。いい夜の在庫は、あの祭りの夜からずっと切らしていた。今夜、久しぶりの入荷である。


 その夜、俺は久しぶりに、夜の森へ出た。

 九日ぶりの夜業である。森は、俺の休業を責めもせず、いつも通りの顔で迎えた。

 九日の間に、灰狼は一頭増え、大蚛蛛の卵囊が一つ育ちかけ、街道の鈴が二基、風で緩んでいた。世界は、俺の休みの分だけ、几帳面に散らかっていた。散らかりを一つずつ畳みながら、妙な安堵が胸に湧いた。

 俺の夜は、無意味ではない。

 無意味ではないが、俺がいなくても、世界は続く。

 その両方が、同時に本当なのだった。両方を本当のまま持って歩けるようになったのは、たぶん、あの絵の犬のおかげである。

 灰狼の数を数え、街道の鈴を締め直し、南西の岩場を見回る。

 締め直した鈴が、夜風にちりちりと鳴った。鳴る鈴の数だけ、この街道は正直でいられる。バラッドの昔話を聞いた後の耳には、ただの点検作業まで、別の意味を帯びて聞こえた。

 異常は、なかった。

 なかった、のだが。

 帰り際、俺は足を止めた。

 地面が、震えている。

 いや、違う。震えというほどの揺れではない。腹の底に、直接届く何かだ。音の形をしていない音。鼓膜を素通りして、骨だけが聞き取る、深い、深い――吼哮。

 地の底から、である。

 北の岩場。旧坑道の、そのさらに下。俺が三晩で洗うはずだった場所の、洗い残した深さから。

 音のない吼哮は、三度響いて、止んだ。

 森の鳥が、一斉に飛び立った。

 腹の底の残響を、俺は懐の音の針と引き比べた。同じ系統の、もっと深い音。試作の音ではない。本番の、音だった。

 遠くモトリーの方で、犬が吠え、そして――風に乗って、微かに、ちりん、と鈴の音がした気がした。

 三度の吼哮の間隔を、俺は数えていた。等間隔だった。生き物の声は、等間隔には吠えない。あれは声というより――時報である。何かの、始まりの。

 夜が明けたら、あいつに隠さず言おう。

 約束は、昨日、批准したばかりである。

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