第十章 道化の夜話(二)
日暮れの旧市街は、いつも通りの顔をしていた。
いつも通りの顔の街を、見納めのつもりで歩くと、景色というものは急に、手間のかかる細部を見せ始める。ポルタ雑貨店の看板の割れ。時計塔の鳩。婆さんの店の粉の匂い。二年かけて覚えた細部が、二年ぶんまとめて、引き留めにかかってくる。引き留めてくる細部を、俺は職業柄、全部覚えてしまう。覚えたものは、鞄に入らない。
振り切って、俺は角を曲がった。曲がる時、時計塔の鳩が二羽、夕空へ飛んだ。飛び方まで見納めの顔に見えるのだから、人間の目というものは当てにならない。
その夜、鈴鳴り亭の暑簾をくぐったのは、店じまいの半刻前だった。
客は、いなかった。店じまい前の鈴鳴り亭は、椅子が半分卓に上がって、床は掃き終わっている。一日の商いを畳んでいく途中の店というものには、楽屋に似た親密さがある。親密な楽屋で、俺はこれから、退場の挨拶をするつもりでいた。バラッドはカウンターの内側で、いつも通り杯を磨いていた。
「煮込みは売り切れさね」
「麦酒でいい」
「あいよ」
注がれた一杯を、俺はゆっくり飲んだ。ゆっくり飲んだのは、たぶん、飲み終えたら言うことになっていたからだ。世話になった、とか、そういう類の、別れの挨拶を。
杯が半分になった頃、バラッドが言った。
「坊主。鞄の紐が、見えてるよ」
手が、止まった。
「……なんのことだ」
「二年もカウンター越しに顔を見てりゃね、分かるさ。今夜のあんたは、勘定を多めに置いてく顔をしてる。置いてく勘定ってのは、当分来ない人間の勘定だ」
地獄耳に、千里眼までついていたらしい。
俺は観念して、杯を置いた。
「世話になった。それを言いに来た」
「そうかい」
バラッドは、磨いていた杯を置いた。置いて、カウンターの奥の壁から、あの人形頭の杖を下ろした。
ガラクタ、と言われていた杖である。
埃を払うと、人形の顔が出てきた。まだら服の道化の顔だった。小さな帽子の先に、豆粒ほどの鈴が三つ、ついている。
「マロットってんだ、これは。道化の杖さ。相棒の人形に、言いにくい台詞を代わりに言わせる道具でね」
そして親父は、俺の目を見た。
「――あたくしはね、坊主」
一人称が、変わった。
言い直さなかった。今夜は、言い直さなかった。
「北の宮廷で、三十年、道化を務めた。鈴鳴りのバラッド。王の隣で鈴を鳴らして、王を笑わせて、王に、本当のことを言う係だった」
店の七つの鈴が、風もないのに、微かに揺れた気がした。
「王様ってのは、偉くなるほど耳が遠くなる。世辞しか届かなくなるんだ。だから道化がいる。鈴を鳴らして、笑いに包んで、毒にも薬にもなる本当のことを、届ける。三十年、あたくしはそれで飯を食った。悪くない飯だった」
「王様は、どんな人だった」
「よく笑う人だったよ。よく笑って、よく間違えた。間違えるたびに、あたくしの鈴で笑って、道を戻った。……いい王様だったさ。あたくしが黙るまでは」
昔話の途中で、親父は一度だけ、杯の中を見た。杯の底に北の宮廷が映っている、そういう見方だった。三十年を語るのに、この親父は三分も使わなかった。長い時間を短く語れるのは、何度も胸の中で畳み直した人間だけである。
「……なんで、辺境の酒場の親父をやってる」
「一番言うべき夜に、黙ったからさ」
声の温度は、変わらなかった。変わらないまま、中身だけが重くなった。
「あの夜、王は道を誤ろうとしていた。あたくしには見えていた。見えていて、怖かった。歳を取って、失うものが増えて、鈴を鳴らす手が、動かなかった。……翌年、王は誤った。国は傾いた。あたくしは鈴を置いて、逃げた。逃げた先が、ここさね」
「……」
「後悔してるか、なんて聞くなよ。後悔ってのはね、し慣れると酒の肴になっちまう。あたくしのは、もう三十年物の上等な肴さ」
冗談の形をしていたが、誰も笑わない冗談だった。本人も、笑っていなかった。
だからこの店には、鈴が七つも吊るしてある。
だから、音程は揃えない。
だから、この店では誰でも、本当のことを言っていい。
看板の由来の全部が、一本の線で繋がった。
繋がってみれば、単純な線だった。黙った道化が、誰でも喋っていい店を建てた。それだけの、三十年がかりの償いだった。
「坊主。あんたが何者かなんて、あたくしは聞かないよ。聞かないがね、一つだけ、年寄りの商売道具を使わせてもらう」
その声で、分かった。この親父が今夜、初めて「本気」を出したのだと。三十年、笑いに包んで届けてきた男が、今夜は包み紙を使わない。裸の本当だけを、カウンターに置く気なのだ。
バラッドは懐から、使い込まれたアルカナ札の束を出した。迷いなく一枚引き抜いて、カウンターに置く。
愚者の札だった。
この店の卓で、俺が二十回引かされた、あの札である。
「あんた、この札が嫌いだろう」
「最弱札だからな」
「そう教わったろうからね。……いいかい、坊主。この絵を、よく見な」
節くれ立った指が、札の絵をなぞった。
崖っぷちを歩く旅人。空を見上げて笑っている。その足元で、小さな白い犬が吠えている。
「世間じゃこう言うのさ。愚かな旅人が崖から落ちそうになってるのに、気づいてない。犬が吠えて止めてるのに、聞いてない。だから愚者の札、って」
「違うのか」
「あたくしは、逆だと思ってる」
指が、犬を指した。
「この犬はね、旅人を止めてるんじゃない。崖を教えてるんでもない。――連れだって、歩いてるのさ」
息が、一つ、止まった。
「旅人が空を見て歩けるのは、足元を見る係が隣にいるからだ。旅人が笑っていられるのは、崖の縁で吠える声を、ちゃんと信じてるからだ。この二人は、一枚の札なんだよ。旅人だけなら、とっくに落ちてる。犬だけなら、どこへも行けない。二人で一枚。だから――」
バラッドは、札をこちらへ滑らせた。
「番号がないのさ。強いとか弱いとか、他の札と比べる場所に、最初からいないんだ」
二十二枚のうち、ただ一枚だけ番号を持たない札。
北の遊び方では、切り札。
隠居たちの学説は、正しかったわけだ。学問の決着は次の一杯どころか、今夜、俺の胸の真ん中で着いた。
俺は、札の中の犬を見た。写実的な、崖の縁を睫む犬を。いい顔してるな、と言った男のことを、思い出していた。
「英雄譚にゃ、裏方の名前は載らねえ――前に、そう言ったね」
「言った。載らなくて上等だと、俺も思ってる」
「半分正解さね」
バラッドは、マロットの人形の頭を、指の腹でひとつ撫でた。
「載らない名前ってのはね、坊主。消えていい名前って意味じゃあ、ないんだよ。呼ばれなくても、そこにいる名前のことさ。この絵の犬に、名前は描かれてないだろう。描かれてなくても、旅人が振り向きゃ、いつもそこにいる。……いなくなってごらんよ。この絵は、ただの、崖から落ちる男の絵になっちまう」
俺は、二年間の夜を思った。
夜明け前の森。峠の焚き火。火事場の風。誰にも見えない場所で振ってきた、この手のことを。
見えない仕事は、消えていい仕事だと、どこかで一緒にしていた。
別物だと、この絵は言っている。番号のない札の犬は、消えるために描かれたのではない。隣を歩くために、描かれたのだ。
札を、返そうとした。
「持っときな。貸しだよ」
また貸しが増えた。この街の貸しは、どれも重くて、どれも温かい。貸しの帳簿は、いつか全部返すと決めている。返し先が増えるたび、俺の足は、この街に深く埋まっていく。
店の中は、静かだった。
静かなのに、七つの鈴の下で、何かがずっと鳴っている気がした。
「あたくしは、王の隣からいなくなった側の人間だ。だからこれは、道化の先輩としての、たった一つの助言さね」
バラッドは、杯に新しい麦酒を注いだ。置いてく勘定の男に注ぐ、二杯目だった。
「勘定は」
「一杯目のぶんだけでいいよ。二杯目はね」
親父は、マロットの帽子の鈴を、指先でちいさく鳴らした。
ちり、と。この店で初めて聞く、揃った音だった。
「餉別じゃなくて――引き留め賃さね」
王様、の一言に、あいつの顔が浮かんだ。浮かんだ顔は、白い病室で、手鐘を撫でていた。
「王様ってのはね、坊主。――道化がいないと、崖から落ちるんだよ」




