第十章 道化の夜話(一)
それからの三日を、俺はうまく思い出せない。
朝が来て、見舞いに行って、雑用をして、夜が来た。
夜業は、しなかった。
二年間で、初めての連休だった。誰に許可を取ったわけでもない。ただ、夜の森へ向かう足が、動かなかった。
休んだ夜の森がどうなっているか、考えなかったと言えば嘘になる。考えて、それでも足が動かないのだから、人間の芯というものは、思ったより夜業に向いていない。向いていないなら、動ける間に済ませるべきことがある。そういう理屈で、俺は後に、鞄を出すことになる。
ジェスターの熱は、二日目に下がった。
三日目には粥を平らげ、医者に叱られながら腕の曲げ伸ばしを始めた。回復は早い。若さと、体の頑丈さと、本人の機嫌の良さのおかげである。
機嫌が、いいのだ。あいつは。
「ヨウタ、見ろ。もう指がここまで動く」
「動かすなと言われてるだろ」
「動かせるかどうかの確認だ。確認は療養のうちだ」
「屈理屈の回復が一番早いな」
「そうだ、ヨウタ。退院したら、まず何を食うべきだと思う」
「粥以外なら何でも喜ぶ体になってるはずだ」
「鈴鳴り亭の煮込みだな。豆の多いやつ」
「豆の多い日は選べないぞ」
「選べないのがいいんだ。当たった日は、得した気になる」
病人の語る煮込みの話は、健康な人間の語るどんな夢より具体的で、切実だった。
枕元には、手鐘が置いたままになっている。あいつはそれを、時々指先で撫でた。鳴らさずに、撫でるだけである。鳴らせなかった夜のことを、あいつがどう仕舞ったのかは、聞けずにいた。
笑って、俺は見舞いの籠を置いて、笑ったまま帰った。
帰り道の途中で、笑い方を忘れた顔に戻る。この三日、その繰り返しだった。
街は、白光の負傷で静かに揺れていた。
鈴鳴り亭の講談は休演になった。ドヤールが自分で「白光の回復まで休む」と宣言したのである。講談師の矜持だった。矜持の間、あの男は毎日、治療院の受付で面会の順番を人に譲っていたという。譲った回数は、誰も数えていない。
マルグリット婆さんは毎日、治療院に焼きたてのパンを差し入れた。陛下は治療院の塀を縄張りに加えた。ゴルドー一味は夜番のついでに、頼まれてもいない夜回りを始めた。
街というものは、大事なものが欠けた時に、輪郭が見える。あいつはひと月半足らずで、この街の輪郭の一部になっていた。
輪郭の一部になった男の隣の空白に、俺の名前を書く者は、いない。いなくていい、と決めたのは俺だ。決めた俺が、いま初めて、その決め事の値段を数えていた。
夕方の長屋は、静かだった。
いつもの静かさのはずだった。二年間、この部屋で一人だったのだから。
違うのは、静かさの質だ。
あいつが来る前の静けさは、何もない静けさだった。今の静けさは、何かが欠けた静けさである。同じ無音でも、帳簿の科目が違う。科目名は、たぶん「不在」という。
俺は、部屋の真ん中に鞄を置いた。
二年住んで、荷物は鞄一つだった。
着替えが少し。婆ちゃんの形見の櫞。裏方の七つ道具。それから、懐の博物館――水晶片と、音の針。
詰めるものを数えたら、それで終わりだった。二年間の暮らしというものは、詰めてしまえば、鞄一つの容積である。
詰めなかったものも、数えてしまった。
規約の写し。第七条まである、あの紙だ。
鞄に入れかけて、やめた。
持っていけば、未練になる。置いていけば、証拠になる。
どちらでもない場所が、荷物にはない。
結局、卓の上に置いた。置いて、しばらく見た。
理屈は、単純だった。
教団の的は、あいつの背中に描かれている。描いたのは、俺の隠蔽だ。
あいつの傷は、俺の半瞬が作った。作ったのは、俺の秘密だ。
なら、源を断てばいい。俺が消えれば、異常は止む。異常が止めば、観測は終わる。観測が終われば、あいつはただの、本物の、B級の英雄として生きていける。あの実力だ。いずれA級にもなるだろう。俺の接待なしで、あいつは十分に強い。
完璧な理屈だった。
完璧な理屈というものは、だいたい、どこかが致命的に間違っている。間違いの場所を、この時の俺は、探す気力を失っていた。
反論の声も、聞こえてはいた。誰が街道の鈴を巻くのか。誰が陛下を探すのか。誰があいつの隣で、豆の話をするのか。
聞こえないふりをした。ふりの技術なら、三年ぶんの蓄積がある。
翌朝、ギルドの窓口に立った。
「冒険者登録の、抹消手続きをしたい」
ミエルさんは、書類から顔を上げた。
いつもの顔だった。いつもの顔のまま、彼女は言った。
「退会の書式は、あいにく在庫切れです」
「……台帳が在庫切れなんてことがあるのか」
「発注もしていません」
換気のような軽口が、一往復だけあった。それきり、彼女は真顔に戻った。
「理由を、伺っても?」
「一身上の都合だ」
「そうですか」
彼女は席を立ち、保管室から一冊の綴りを持ってきた。
第十三号案件――ではなかった。もっと薄い、統計の綴りだった。
「サイキ様。手続きの前に、これを」
開かれた頁には、数字が並んでいた。
「当支部管内の年間死亡者数。冒険者、行商人、伐採夫、旅人。十年ぶんです」
指が、数字の列をなぞる。
「十年前、十七人。九年前、二十一人。八年前、十九人。……そして二年前から、四人、三人」
指が、止まった。
「今年はまだ、零です」
零。
零という数字を、俺は測定水晶以来、久しぶりに正面から見た。あの時の零は、俺が作った嘘の平均値の親戚だった。この零は、違う。
「街道の隊商被害、二年前から七割減。森の事故、六割減。行方不明者、零が二年続いています。この街は辺境です。辺境の数字では、ありません」
「偶然だろう」
「偶然という言葉を、統計は十年で洗い流します。一年の零は偶然。二年続く零は、傾向。傾向には、原因があります」
「……台帳的には、原因はなんだ」
「空欄です」
彼女は、事務の顔のまま言った。
「空欄のまま、埋まらなくていい欄だと、私は思っています。埋まらない空欄を守るのも、台帳係の仕事ですので」
守る、という動詞を、台帳係の口から聞いたのは初めてだった。
「……いい土地なんだろ」
「台帳は、理由を記録しません」
彼女は綴りを閉じて、俺の方へ、静かに押し出した。
「記録するのは、事実だけです。二年前から、この街では人が死ななくなった。それが台帳に書いてある、すべてです」
押し出された綴りが、窓口の上で止まった。
「それを、お持ちください」
「……なぜ」
「旅のお供に、統計はいいものですよ。嘘をつきませんから」
俺は、綴りを見た。
薄い綴りだった。薄いのに、持ち上げる自信がなかった。
この綴りの中で、死ななかった誰かの数だけ、俺の夜がある。夜明け前の間引き、峠の面接、鈴の点検、屋根の修理。名前の載らない二年間が、数字の形で、そこに綴じられていた。
誰にも見えない仕事だと、思っていた。
見えないまま、数えられていた。
観測者というものを、俺はずっと、警戒すべき相手として数えてきた。学士の水晶も、彼女の台帳も、俺の秘密を狙う網だと。
網は、受け止める道具でもあった。
落ちていく人間を、下で待つ形にも、張れるのだった。
「手続きの書式は」
声が、少し掠れた。
「在庫切れです」
ミエルさんは、繰り返した。それから、ほんの少しだけ、声の角を丸くした。
「――その綴り、お預けします。返却の期限はありません」
窓口を離れかけた俺の背中に、最後の一言が届いた。
「預かり賃は、いつか、話で」
振り向かなかった。
振り向けば、顔の在庫を全部見られる。
長屋に戻って、卓の上の規約の隣に、統計の綴りを並べた。
鞄は、部屋の真ん中で、口を開けたまま待っている。
窓の外を、夜回りの提灯が二つ、通り過ぎていった。
ゴルドーの声と、あの若い声が、小さく言葉を交わして遠ざかる。
この夜回りも、俺が消えれば、いつまで続くだろう。
……いや。
続くのだ、たぶん。俺がいなくても。
あの火事の夜、東を守ったのは俺じゃない。バケツの列と、煏だらけの講談師と、元盗賤の指揮だった。
その事実だけが、荷造りの手を、さっきから何度も止めていた。
止まる手と、進める理屈。今夜の部屋には、その二つしか住んでいなかった。
詰めるべきものが、一つ増えたのか、減ったのか。
答えの出ないまま、日が暮れた。




