第九章 最悪の夜(三)
モトリーの治療院は、旧市街の北の角にある。二年間、薬草を届ける側でしか入ったことのない建物だった。
運ばれる側の廊下が、こんなに長いとは知らなかった。
治療院の廊下は、蚋燭が二本だけだった。
処置室の扉の向こうで、医師と助手の声が低く続いている。
俺は廊下の長椅子に座って、自分の手を見ていた。
あいつの血は、洗った。洗ったのに、まだ手が重い。
長椅子の下に、あいつの剣と、裂けた外套が置いてある。
外套は、もう白くなかった。
洗えば落ちるだろうか。落ちない気がした。落ちても、覚えている気がした。
処置室の灯りが、扉の隙間から廊下に細く伸びている。
その細い光を、俺はずっと見ていた。見ている間は、何も考えずに済んだ。
扉が開いたのは、夜半を二つ過ぎた頃だった。
「縫合は終わりました。深いが、急所は外れています。若いし、体もいい。峠は越えました」
医師の言葉を、俺は三回、頭の中で繰り返した。
峠は越えた。
三回目で、ようやく息の吐き方を思い出した。
越えたのは、あいつの峠だ。俺の峠は、まだ夜の中にあった。
医師は、それから傷の形について二つ三つ訊いた。獣の爪か。何の獣か。
「分からない。夜で、よく見えなかった」
嘘は、するりと出た。三年使っている道具は、こういう夜でも手に馴染む。馴染むことが、今夜は少し、嫌だった。
「化け物の噂は、朝には広まる。療養は騒がしくなるだろうから、面会は絞りなさい」
「頑みます」
「あんたも白湯くらい飲みなさい。付き添いが倒れるのが、うちでは一番困る」
白湯は、味がしなかった。味のことを考える場所が、今夜は塞がっていた。
廊下の長椅子は、硬かった。硬さだけが、今夜は正直だった。
廊下に、足音が来た。
煏だらけのドヤールだった。走ってきたのだろう、肩が上下している。
「白光は」
「峠は越えた」
「……そうか」
ドヤールは長椅子の反対の端に、どすんと座った。座って、何かを言いかけて、やめた。やめて、代わりに俺の肩を一度、強く叩いた。煏の匂いがした。今夜の東を最後まで守り切った男の、匂いだった。
「借りって言やあ、うちのリリがな。『順番、合ってたっす』とか言ってたぜ。何の話だか」
何の話かは、俺だけが知っていた。あの眠そうな目は、最後まで正確だった。しばらく黙って、それから、懐から何かを出した。
手鐘だった。
「西の原野に、これだけ落ちてた。黒い砂と、こいつだけだ」
「そうか」
「なあ、荷物。何があった」
「化け物がいて、ジェスターが戦って、化け物は崩れた。それだけだ」
「それだけ、ね」
ドヤールは、それ以上聞かなかった。聞かない優しさというものを、この男も持っている。手鐘を俺の膝に置いて、立ち上がった。
「明日また来る。あいつに言っとけ。貸しにしとくってな」
何の貸しかは、言わなかった。
入れ替わりに、ミエルさんが来た。夜中なのに、昼と同じ顔で、書類の束を抱えていた。
「治療費の立て替え手続きと、ギルドへの報告書です。事実関係は、明日で結構です」
「夜中に、わざわざ」
「台帳は、こういう夜のためにあります」
言い方は事務でも、夜中に自分の足で来る台帳係を、俺は他に知らない。書類の束の一番下に、治療院の非常口の見取り図が挟んであった。使い道は、聞くまい。あの人の準備は、いつも半歩先に置いてある。
彼女は書類を置いて、少しだけ、処置室の扉を見た。
「……サイキ様。あなたのせいでは、ありません」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っています」
「顔は、台帳に載せないでくれ」
「載せません。今夜のことは、何も」
何も、の範囲を訊き返す気力はなかった。訊かなくても、あの人の「何も」は、いつも正確である。
それだけ言って、帰っていった。
俺は廊下に残った。手鐘は、膝の上で冷たいままだった。
待つ間、一度だけ外へ出た。
東の空に、火事の名残の煙が細く立っている。焦げの匂いが、まだ薄く風に残っていた。
西の空は、何事もなかったような顔をしていた。
夜というものは、朝が来れば畳まれる。畳まれた夜の中身を覚えているのは、畳んだ人間だけだ。
戻って、また座った。
夜明け前、窓の外の塀の上に、灰色の影がひとつ現れた。
陛下だった。
籠を抜け出してきたのだろう。窓越しにこちらを一瞥して、それきり、塀の上で丸くなった。
鈴は、鳴らさなかった。
鳴らさない見舞いというものが、あの王の流儀らしかった。
明け方近く、付き添いを許された。
寝台のあいつは、包帯の白と、顔の白が、同じ色をしていた。
眠っている。呼吸は浅いが、規則正しい。規則正しさというものが、こんなにありがたい夜は初めてだった。俺は椅子を寝台の横に寄せて、音を立てずに座った。
俺は椅子に座って、ただ、その呼吸を数えた。
百二十まで数えた頃、あいつの目が、薄く開いた。
「よ、う」
「起きるな。寝てろ」
「ここ、治療院か」
「そうだ。峠は越えたと、医者が言った」
「そうか」
あいつは天井を見た。しばらく、ただ見ていた。
それから、掠れた声で言った。
「ごめんな」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「守るって、言ったのに。……守られたの、俺の方だ。かっこ悪……」
「馬鹿を言うな」
声が、思ったより硬く出た。
「お前は俺を庇った。あの爪の前に、体を入れた。守るって約束を、字義通りに果たした馬鹿は、世界でお前だけだ」
「へへ」
あいつは、笑おうとして、失敗した。笑いかけた息は途中で咳に変わり、咳は傷に響いて、あいつは顔をしかめた。しかめた顔のまま、それでも言った。
「でも、俺がもっと強けりゃ……お前に、あんな顔、させなかった」
あんな顔。
俺はあの円の中で、どんな顔をしていたのだろう。知りたくなかった。
「でも、じゃない」
俺は、膝の上の手鐘を握った。
言うなら、今だった。
三年で一番、今だった。
こいつは俺のせいで傷ついた。俺が半瞬、計算したせいで。俺が三年、黙っていたせいで。俺が最初から全部話していれば、こいつは今夜、盾を捨てて爪の前に立つ必要なんてなかった。
言葉は、喉まで来ていた。
三年ぶんの、全部が。
夜明け前の間引きも、オーガの結末の一行も、峠の面接も、満腹の主も、俺の名前の載らない英雄譚の、裏の頁の全部が。
全部話して、全部軽くなって――軽くなるのは、俺だけだとしても。
「ジェスター。聞いてくれ」
「ん」
「実は、俺は――」
言いかけた俺の袖を、包帯の手が、掴んだ。
弱い力だった。振りほどこうと思えば、羽根より軽く解ける力だった。
その力が、俺の言葉を止めた。
「……なんも、言うな」
あいつは、俺を見ていなかった。天井を見たまま、目の縁だけが赤かった。
「今、お前が何か言ったら……俺はたぶん、泣く。傷に、響く」
返す言葉を、俺は持たなかった。
「だから、なんも言うな。……頑むから」
告白未遂、通算三回目。
敗因、善意。いつもの敗因である。いつもの敗因なのに、数える指が、初めて震えた。
一回目は、鍋に負けた。二回目は、笑顔に負けた。
三回目は――掴まれた袖の、羽根より軽い力に負けた。
三連敗である。
三連敗の記録係は、俺しかいない。記録のたびに軽口で締めてきたこの帳簿に、今夜だけは、締めの一行が書けなかった。
俺は、口を閉じた。
閉じた口の中で、言えなかった言葉が、ゆっくり溶けて消えていった。
「ヨウタ」
「なんだ」
「いてくれるか。朝まで」
「いる」
「そうか」
短い会話だった。
短い会話の値段を、俺は今夜、初めて正しく知った気がする。
あいつは目を閉じた。今度は、眠りの方へ。
呼吸が深くなるまで、袖を掴んだ手は、そのままだった。
俺は動かなかった。動けなかった、が正しい。
言えなかった言葉の行き場を、俺はまだ知らない。
知らないまま、袖の重みだけを、腕に覚えさせた。
窓の外が、藍色から灰色に変わっていく。
鳥が、一羽だけ鳴き始めた。
あの静寂の円の外の、生きている世界の音だった。
円の中で食われた音の分まで、鳴けばいい。
勝手なことを思いながら、俺は椅子の背に、初めて体重を預けた。
預けた背中に、今夜の重さが全部ついてきた。ついてきたまま、降ろし方が分からなかった。
手鐘を、枕元に置いた。
鳴らなかった鐘は、そこで静かに、朝を待っていた。




