第九章 最悪の夜(二)
原野までの道を、俺は今夜の全速で走った。
全速というものを、この街に来てから一度も出したことがない。出せば、景色の方が嘘になる速さである。今夜は、嘘になってもらった。畑の柵を三つ越え、涸れ沢を飛び、丘をひとつ直線で潰した。月が、視界の端で流れて線になった。
西の原野が近づくにつれ、世界から音が減っていった。
風の音が消えた。俺自身の足音が消えた。心臓の音だけが、体の内側で鳴っている。外の音が、死んでいる。
音のない円の中心に、それはいた。
大きさは馬車二台ぶん。甲殻と黒い皮膜の、輪郭の定まらない獣だった。頭のあるべき場所に頭がなく、代わりに、耳の形をした器官が花のように開いている。聞くための化け物。音を、食う化け物。
円の内側では、草が音もなく倒れていた。倒れる音すら、食われている。世界の一部を切り取って、静寂で塗り潰したような光景だった。塗り潰された円の直径は、およそ半町。半町の静寂が、夜の原野に穴のように開いていた。
あの学士の、耳を塞ぐ仕草が頭の隅で像を結ぶ。これが――あの手合いの言う「静寂」か。
その正面に、白い外套が立っていた。
生きている。立っている。剣を構えている。
膝が笑いそうになるほどの安堵と、同じ量の恐怖が、同時に来た。安堵と恐怖は、同じ器に入る。入れた器の方から先に、割れる。
割れる前に、状況を数えた。距離、二十歩。獣の注意は、あいつに固定。円の外の俺には、まだ気づいていない。
ジェスターの足元に、手鐘が転がっていた。
転がる寸前まで振られていたことは、あいつの右手の形で分かった。振ったのだ。何度も。そして、鳴らなかったのだ。この円の中では、鐘は音を産めない。産んだ端から、あの耳の花に食われる。
約束は守られていた。守られて、届かなかった。
約束を守る男の手から、約束の道具だけが奪われていた。世の中の残酷には設計者がいる。今夜のこれは、特に出来のいい設計だった。
ジェスターは、戦っていた。
見事だった、と書くべきなのだろう。音のない戦場は、剣士から拍子を奪う。自分の呼吸が聞こえない。踏み込みの音で間合いを測れない。それでもあいつは、目だけで獣の初動を読み、盾で受け、退がり、立て直していた。騎士学校の主席が、教本の外の地獄で、教本を書き足しながら戦っていた。
獣の初動は、耳の花の開閉に出る。あいつはそれを、この場でもう見抜いていた。花が縮む。爪が来る。半歩の受け流し。花が開く。音を探している。その隙に、呼吸を整える。音のない世界で、あいつは獣の体から拍子を読み直していた。誰に教わったのでもない。この場で、書いたのだ。
俺は知っている。天才という言葉は、ああいう瞬間のためにある。
だが、読めるのと、応じ続けられるのとでは、話が違う。受け流すたび、盾の腕が下がっていく。裂けた外套の白が、闇の中で、だんだん小さく見えた。
外套は裂け、盾の縁は欠け、左の籠手が黒く濡れている。獣は無傷だった。無傷のまま、遊ぶように間合いを詰めたり開いたりしている。
試している――違う。測っているのだ。この期に及んで、まだ。
測って、記録して、持ち帰る。この獣は武器である前に、計器なのだ。計器に殺される剣士がいていいはずが、ない。
俺は、円の外で一瞬だけ立ち止まった。
いつもなら、ここから先は裏方の手順だ。視界を測り、風を読み、誰にも見えない一手を差す。だが音のない円の中で、俺の手札は半分死ぬ。音で逸らす手が使えない。石も枝も、投げれば軌道が残る。観測者は、たぶんどこかで見ている。
手順を、探した。探して、探して――
やめた。
ばれてもいい。
生まれて初めて、その言葉が胸の真ん中を通った。三年間積み上げた規則の一番上の石が、音もなく落ちた。ばれてもいい。あいつが死ぬよりいい。
言い訳の在庫が、全部灰になった。名乗らない親切も、載らない名前も、接待の一線も、燃えてしまえば同じ灰である。灰の中に残ったのは、たった一行だった。
規則三号。死なせない。これだけは、他のすべての規則に優先する。
最初から、そう書いてあったのだ。あの夜、立法した俺は、ちゃんと分かっていたのだ。
俺は円の中へ、正面から踏み込んだ。
「ジェスター!」
声は、円の中では届かない。届かないと知っていて、俺は叫んでいた。
あいつが、俺に気づいた。
目が合った。音のない世界で、あいつの唇が動いた。に、げ、ろ。
同時に、獣が動いた。
新しく円に入ってきた、小さくて、遅くて、柔らかいもの――俺の方へ。捕食者の目利きは正確である。この円の中で一番弱いのは、どこからどう見ても、荷物持ちの俺だった。
黒い突進が、俺との距離を潰した。
俺は動ける。動けるのだ。爪の一本一本の軌道が見える。躱すのは造作もない。造作もないが、躱した先の話を、俺の頭は半瞬で組み立てていた。躱せば正体が出る。出れば、それでも、あいつが生きるなら――
半瞬は、長すぎた。
後にも先にも、俺が「遅かった」夜は、これ一度きりである。
言い訳をさせてもらえるなら、俺は速さを計算していたのではない。ばらし方を計算していた。ばらして、なお、あいつの十年が壊れずに済む道を。半瞬で見つかるはずのない道を、半瞬だけ、探した。
その半瞬に、あいつは体を投げていた。
計算のない速さだった。考えてから動く俺と、考える前に動くあいつの、十年ぶんの差だった。
俺の視界を、白いものが横切った。
外套だった。
割り込んだ背中が、俺と爪の間に入った。盾は間に合っていない。あいつは盾を捨てて、届く方を選んだ。体を、である。
爪が、白い外套を肩から胸へ裂いた。
音のない世界で、それはひどく静かな光景だった。血の飛ぶ音も、布の裂ける音も、あいつの呻きも、何も聞こえない。ただ、白が赤く染まって、膝が落ちて、それでもあいつは倒れながら剣を振り、獣の爪を一本、へし折った。
最後まで、剣士だった。
へし折られた爪を抱いて、獣が初めて、声のない悲鳴の形に器官を歪めた。
俺の中で、何かの糸が切れた。
次の記憶は、断片である。
獣の耳の花が、俺の方を向いた。向いた時には、俺の拳が甲殻の中心にあった。一撃。円の主が、円ごと潰れた。音が、世界に戻ってきた。風の音、遠い火事の残り火の爆ぜる音、そして、俺自身の荒い息。
戻ってきた世界の音は、ひどく他人行儀だった。
自分の拳を見た。震えてはいない。震えていないことが、少しだけ怖かった。三年間、俺はこの拳を、誰かを守る道具として夜に振ってきた。怒りで振ったのは、今夜が初めてだった。初めてのことは、今夜だけで、もう充分だった。
獣の体は、砕けた端から黒い砂になって崩れていった。作られたものは、壊れ方まで不自然である。砂は風に散って、後には何も残らなかった。俺の一撃の証拠ごと、何も。
偽装の必要はなかった。皮肉なことに、今夜だけは。三年磨いた偽装の腕前が、一番出番のほしい夜に、失業していた。
「ジェスター!」
抱き起こした体は、熱かった。肩から胸への裂傷。深い。だが、浅くはないが、致命ではない。心臓は動いている。肺は無事だ。三年ぶんの魔物の解体の知識が、初めて友人の体の上で棚卸しされた。
止血。外套を裂いて肩を縛る。傷は焼かない。針と糸は治療院にある。担ぐ。走る。揺らさない。頭の中で手順だけが、他人の声のように流れ続けた。手順の声の下で、別の声が、同じ一行を繰り返していた。
俺のせいだ。
半瞬の計算のぶんだけ、確実に、俺のせいだった。
「……よ、う……た」
薄く開いた目は、焦点が合っていなかった。俺を見て、俺の後ろの、もういない獣のあたりを見て、また俺に戻った。
「無事、か……よかっ……」
「喉るな。血が動く」
「……に、げろって……言ったのに……」
言ったのに。
声にならない声で、あいつはそれだけ言って、目を閉じた。
閉じる寸前まで、その目は俺の無事だけを数えていた。
遠くで、街の鐘が鳴り始めた。
連続打ち。襲撃の報せだ。誰かが、西の異変をようやく告げたのだ。
遅い。もう、終わった。終わらせてしまった。
街までの道を、俺は今夜二度目の全速で走った。
腕の中の体温だけを、世界のすべての音の代わりに数えながら。




