第九章 最悪の夜(一)
店の中の時間が、一拍だけ止まった。
最初に動いたのはジェスターだった。
「火事場は人手で回る。俺は西を見てくる」
「待て。逆にしろ。西は正体が分からない」
「だからだ」
あいつは剣帯を掴みながら、一度だけ、強くこちらを見た。
「分からない方に、お前をやれるか」
議論の時間は、なかった。窓の外で火事の鐘が二巡目を打ち、西の余韻はまだ腹の底に残っている。時間のない場所では、最善ではなく、最悪でない方が選ばれる。
それに――認めたくないが、あいつの理屈は筋が通っていた。B級はあいつで、荷物持ちは俺だ。世間の帳簿の上では、この配置しかない。世間の帳簿と俺の帳簿が違うことを、説明する時間だけが、なかった。
「……二手だ。俺が東、お前が西。ただし約束しろ。見るだけだ。近づくな、手を出すな」
「分かってる」
「合図を決める。異常があれば――」
「これを持ってきな」
カウンター越しに、バラッドが古い手鐘を投げて寄越した。ジェスターが受け取る。よく鳴る、実用の鐘だった。
「三度鳴らせば、街道まで届く。……二人とも、死ぬんじゃないよ」
さね、が付かなかった。あの親父の言葉から飾りが落ちるところを、俺は初めて聞いた。
俺たちは、店の前で二手に分かれた。
「ヨウタ」
「なんだ」
「火傷するなよ」
「お前こそ、約束を忘れるな」
あいつは頷いて、西へ走った。白い外套が、月明かりの下で一度だけ翻って、見えなくなった。
背中を、俺は三秒だけ見送る。
三秒の内訳を書いておく。一秒目、追いかけて全部話す案を検討した。二秒目、却下した。三秒目、却下した自分を、生まれて初めて少しだけ憎んだ。
それでも足は東へ向いた。東には確実に人がいる。火は待たない。正体不明は、まだ誰も傷つけていない。優先順位の算数は正しい。正しい算数を憎む夜が来るとは、思っていなかった。
見送った三秒の間に、俺は本当の計画を組み終えていた。
火事を半刻で殺す。殺したら、西へ走る。あいつが「見るだけ」を守っている間に追いつけば、何も起こらない。起こさせない。半刻だ。半刻で済ませる。
――この見積もりが甘かったことを、先に書いておく。
倉庫街は、赤かった。
火元は東端の油倉庫。風は北東。火の粉が屋根から屋根へ渡ろうとしている。バケツの列が二本、井戸から伸びて、怒鳴り声が交錯していた。
倉庫街の火事というものを、俺は初めて見た。壁が石でも、中身は麻袋と木箱と油である。火は建物を食うのではない。中身を伝って、街の血管を走るのだ。
婆さんの店は風上で無事だった。無事なのに、婆さんは店の前でバケツを二つ提げて、列に加わろうとしていた。
「婆さん、店にいてくれ。陛下と一緒に」
「あんたこそ、気をつけるんだよう!」
陛下は店の窓から、火よりも、西の空を睫んでいた。
「水が追いつかねえ!」
「三番倉庫を諦めろ! 荷を出せ!」
列の先頭で斧を振るっているのは、ガスだった。ドヤールは屋根の上で延焼の火の粉を叩き、リリは煙の風下から人を逃がしている。夜番の三人は、今夜が初仕事のはずだった。初仕事にしては、上出来すぎる働きだった。
指揮を執る者がいないのに、列は乱れていない。理由はすぐ分かった。ゴルドーである。元頭目は水路の元栓の位置から倉庫の中身の目録まで頭に入れて、怒鳴らずに人を回していた。夜番の帯は今夜、初めて、街の帯になった。
「あんたも来たか。……悪いな、うちの若いのが今夜どこかで世話になるかもしれん」
「まだ何もしてない」
「そうかい」
この返事が嘘になるのは、もう少し後の話である。
「おい、荷物! 来たか!」
「状況は」
「火元は油だ、水じゃ消えねえ! 砂をかけてる!」
「延焼は」
「風向きが悪い! 二番と四番が危ねえ!」
俺はバケツ列に加わりながら、裏の仕事を並行で始めた。
二番倉庫の裏手で、誰も見ていない三秒に、支えの梁を蹴り抜く。屋根が内側へ落ち、火の渡り先が消える。崩落は延焼の熱のせいになった。四番倉庫の横の用水路で、堰板を素手で引き抜く。水位が上がり、飛び火が水面で死ぬ。堰板は焼けて外れたことになった。
三つ目の裏仕事は、風だった。火事場の風は熱で生まれ、熱の配置で曲がる。俺は燃え残りの資材の山を二つ、崩れたふうに動かして、熱の通り道を狭めた。風向きが変わったのは、夜の気まぐれということになった。夜は文句を言わない。便利な共犯者である。共犯者の夜に、俺は小さな借りを作り続けた。
働きながら、俺は数えていた。半刻の砂時計を、頭の中で。
……おかしい。
火の減りが、計算と合わない。
油倉庫の火勢が落ちた頃、西端の資材置き場から、二本目の煙が上がった。時間差の出火である。風上に、わざわざ。
偶然ではない。火というものは、こんなに賢く生まれない。
二本目を殺しに走りながら、俺は自分の失策を数え上げていた。これは火事ではない。火事の形をした、時間泥棒だ。街の人手と、俺の半刻を、東端に縛りつけるための。
設計者の顔が見える火だった。逃げ道は塞がず、死人は出さず、ただ時間だけを正確に奪っていく。殺意より質の悪い、計算である。人を殺せば、街は敵になる。時間を盗むだけなら、街は「不運な夜」で済ませる。あの筆跡は、街の憎み方まで設計していた。
設計者に誤算が一つあるとすれば、時間泥棒の被害者の中に、俺が入っていたことだろう。盗まれた半刻の請求書は、いずれ利子をつけて回す。
二本目の火元の資材の下に、油の染みた布が几帳面に折り畳まれて仕込まれていた。几帳面に、である。放火の道具まで、あの筆跡に似ていた。
消した。三本目を探した。あった。北の空き倉庫。まだ火は小さい。踏み消して、仕込みごと潰した。
これで終わりか。終わりだと言ってくれ。
「――おい! 誰か! 誰かいねえか!」
声は、油倉庫の方から来た。崩れた庼の下、煙の奥で、若い声が咳き込んでいる。
矢の若いのだった。夜番の巡回路の最後で、逃げ遅れた猫を追って庼の下に入り、戻れなくなったらしい。猫は腕の中で無事だった。人間の方が、煙に巻かれかけていた。煙は上に溢まる。姿勢を低く、口元を濡らして――教本の知識が役に立つ高さを、煙はとうに越えていた。
三秒、俺は皆の視界を測った。煙が濃い。全員の目が火に向いている。
行った。
煙の中で若いのを担ぎ、猫ごと風上に放り出すまで、四秒。崩れかけた庼を、出がけに肩で支え直して、崩落を三十秒遅らせた。三十秒あれば、バケツ列が下がれる。
「げほっ、な、なんで俺、外に……」
「風向きが変わったんだろ」
「ね、猫! 猫は!」
「腕の中だ」
「へ、変な風……でも、助かった……」
「猫に礼を言っておけ。お前より先に出口を向いてた」
「し、します! 一生します!」
一生は長いが、訂正する時間が惜しかった。
猫は無事で、若いのも無事で、俺の砂時計だけが、確実に死んでいた。
半刻の予定は、とうに一刻を超えていた。
火事は、ようやく背骨を折られた獣のように勢いを失い、バケツ列から最初の安堵の声が上がった。
ドヤールが屋根から降りてきて、煏だらけの顔で笑った。
「見たか荷物、俺様の消火活動……って、おい。どこ見てんだ」
俺は、西を見ていた。
火事場の音の向こうで、耳だけをずっと西へ張り続けていた。手鐘の音を、この一刻、待ち続けている。鳴らない鐘というものが、こんなにうるさいとは知らなかった。
その時である。
西の空が、白く光った。
雷ではない。音が、遅れて来なかった。光だけが走って、消えた。
手鐘は、鳴っていない。
鳴っていないのに、光った。
約束は、生きているか。それとも、鳴らす暇がなかったのか。
最悪の想像というものは、いつも一番足が速い。想像に追い抜かれる前に、体を追いつかせるしかない。西までは走って四半刻。今夜の俺なら、その半分で行ける。半分でも、遅いかもしれなかった。
走りながら、俺は算数をやり直し続けた。閃光から今まで、およそ二十数える間。手鐘を鳴らす動作は、三秒あれば足りる。三秒が惜しい状況か。三秒を使えない状況か。それとも、鐘ごと落とした状況か。
どの答えも、気に入らなかった。答え合わせは、走った先にしかない。答え合わせという言葉が、今夜ほど嫌いになった夜もない。
俺は、走り出していた。




