第八章 善意の二正面(三)
翌日の昼飯は、妙に和やかだった。
和やかすぎた、と言うべきである。隠し事のある人間は、隠し事のない話題に異様に熱心になる。なお、これは経験則である。経験の出所は、鏡だ。
俺たちは煮込みの豆の配分について十分、陛下の新しい首輪の鈴について五分、真剣に語り合った。世界平和の会談でも、ここまで議題を選ばない。
「豆はな、ヨウタ。煮込みの主役ではないが、いないと寂しい」
「従士みたいなもんか」
「うまいことを言うな! そう、豆は煮込みの従士だ!」
「なら俺は今日から豆でいい」
「駄目だ。お前は豆以上だ」
豆談義に妙な熱がこもるのも、後ろ暗さの裏返しである。
「そういえば陛下の新しい鈴、音が高くなったな」
「銀に替えたらしい。婆さんの奮発だ」
「いい音だ。……鈴の音ってのは、なんで安心するんだろうな」
「嘘がないからだろ」
「?」
「いや、なんでもない」
鈴鳴り亭の看板の由来を、うっかり自分の口で使いかけた。危ない危ない。隠し事の量が増えると、口の在庫管理が難しくなる。倉庫番の苦労が、少しだけ分かった。
「ヨウタ、パンを取ってくれ。あと、明日の朝稽古は休みにする」
「……なんでだ」
「お前にゆっくり寝てほしいからだ」
「そうか。パンどうぞ」
パンの受け渡しに挟むには、不自然な優しさだった。明日の朝、俺を寝かせておきたい理由。つまり今夜か明日の早朝、あいつは動く。
言っておくが、俺も人のことは言えない。
「じゃあ俺は、今夜は早めに休む」
「そうか! いいことだ!」
「ああ。健康第一だからな」
健康第一の男は、昨夜、旧坑道の下見一晩目を終えたばかりである。今夜は二晩目の予定だ。食卓の上を、パンと嘘が等分に行き交っていた。
念のため、両者の言い分を並べておく。
ジェスターの理屈(推定)。ヨウタを危険から遠ざける。これは規約第二条の誠実な履行であり、隠して動くのは嘘ではなく、心配をかけない配慮である。
俺の理屈。あいつの単独行動の前に危険を摘む。これは裏切りではなく、前倒しの誠実である。隠して動くのは嘘ではなく、事務の簡略化である。
……並べてみると、よく分かる。理屈の骨組みが、寸分違わず同じなのだ。善意というものは、言い訳の文法まで似せてくる。裁判になったら、判事は頭を抱えるだろう。両方とも有罪で、両方とも情状酌量の満点である。
なお、この裁判には検察も弁護も傍聴人もいない。いるのは判事だけで、判事は俺で、判事自身が被告の片割れである。法廷としては欠陥品だが、世の中の良心の法廷は、だいたいこの構造で回っている。
その夜、俺は長屋の灯りを常識的な時刻に消し、床下から出た。
旧坑道までは走って半刻。下見二晩目の目標は、坑道の奥の水脈と、例の香の匂いの出所である。
――だった、のだが。
街道の半ばで、俺の網に、聞き慣れた足音が引っかかった。
振り返らずに分かる。歩幅、拍子、革靴の癖。ジェスター・クラウン。単独。装備は軽装、提灯なし、月明かりだけで北へ向かっている。
早い。早すぎる。締切は明後日のはずだろう。
……いや、違う。あいつは受注前の下見に来たのだ。慎重な男は、本番の前に地形を見る。俺と同じ理屈で、俺と同じ夜に、俺と同じ方角へ。
こうして、世にも間抜けな夜間行軍が始まった。
先頭、何も知らないジェスター。その二町後ろ、気配を消した俺。俺の仕事は三重になった。一つ、あいつに気づかれない。二つ、あいつの進路の危険を先回りで摘む。三つ、ついでに自分の調査も済ませる。三重の内職を月明かりだけでこなす夜が来るとは、雑用の求人票には書いていなかった。
あいつの下見は、堅実だった。獣道を避け、稜線に立たず、時折足を止めて風の匂いを確かめる。教本通りで、教本通りに優秀である。
途中で一度、あいつは夜空を見上げて伸びをした。誰も見ていないと思っている顔は、稽古の時より三つ若く見えた。見てはいけないものを見ている気がして、俺は視線を仕事に戻した。
問題は、俺だった。
あいつの進路の先に、昨夜の俺が掃除した痕跡が点々と残っている。摘んだ危険の芽、均した足跡、片づけた骸。あいつがそれを見つければ「先客がいる」と気づく。気づかせるわけにはいかない。結果、俺はあいつの半歩先を並走しながら、昨夜の自分の仕事の痕跡を、必死で消して回る羽目になった。
自分の善意を、自分で隠蔽する。
この商売を三年やってきたが、本日の業務内容が過去最高に馬鹿げている自信がある。
途中、あいつが野営の火の跡――昨夜、俺が均したものである――の手前で足を止めた時は、心臓が二拍飛んだ。
「……ん。土の色が」
しゃがみ込む。見るな。頑むから、そこの検分はやめてくれ。
「……モグラか。ずいぶん几帳面に掘るんだな」
立ち上がって、歩き出した。
几帳面なモグラで通った。通ったのは僥倶だが、俺の偽装がモグラの仕事と鑑定される日が来るとは、贋作師の沽券に関わる夜でもあった。
夜半過ぎ、あいつは坑道の入口を遠くから検分し、頷き、引き返した。収穫なし――そう、収穫なしだ。俺が先回りで消したから。あいつは明日、こう考えるだろう。「痕跡はなかった。慎重に進めば、単独でもいける」と。
俺の護衛が、あいつの警戒を軽くしてしまった。
帰り道の二町後ろで、俺は月に向かって、声に出さずに長いため息をついた。善意の二正面作戦は、互いの矢が相手の足元の石を砕き合う。誰も射抜かれないのに、地形だけが悪くなっていく。それでも、引き返す気はどちらにもないのだろう。善意というものは燃費が悪い。悪いくせに、満タンから減った試しがない。
翌、花月十三日。
その日は、朝から妙に静かだった。
風が湿って、鳥が低く飛び、陛下は婆さんの店先で一日中、北の空を睫んでいた。
「陛下、今日は機嫌が悪いんだよう。朝から毛づくろいもしないでさ」
「そうですか、って顔でもないですね」
王の不機嫌には、たいてい理由がある。理由の見当がつくだけに、俺は陛下に心の中で詫びた。網の目を粗くして、すまない。獣の目利きは人間の網より早い。分かっていたのに、俺の網は、疲労で目が粗くなっていた。
昼、ギルドに寄ると、ミエルさんが窓口で一言だけ言った。
「学士様、今朝から宿を空けています」
「そうか」
「渡り鳥亭の帳場には、部屋代が月末まで前払いされていたそうです」
「戻る気か、戻らない気か、読めない払い方だな」
「以上、業務連絡でした」
北の学士は、動いた。どこへ、何をしに。考える頭の芯が、寝不足で重い。
待合では、ドヤールが例の依頼札の前で腕を組んでいた。
「おい荷物。白光の奴、これを本当に一人で受ける気か」
「さあな」
「さあな、じゃねえだろ。……ったく。俺様たちは今週、倉庫街の夜番に回された。何かあったら狼煙を上げろ。三本だ」
「ドヤール」
「なんだよ」
「頼りにしてる」
「っ……当たり前だ!」
照れると声が大きくなる男である。狼煙三本。使う日が来ないことを祈ったが、祈りの打率については、最近あまり考えないことにしている。
重い頭のまま、夕方が来てしまった。
日暮れて、俺たちは鈴鳴り亭で夕飯を取っていた。今夜も豆の配分の話をしていた。していた、その時である。
鐘が、鳴った。
春告げの鐘。だが夕刻の定時打ちではない。三連打、休符、三連打。火事の報せの打ち方である。
鐘は打ち方で用件を語る。三連打は火事、連続打ちは襲撃、一打ずつの長打は弔い。街の耳は、その文法を体で覚えている。
「火事だ! 東の倉庫街だ!」
誰かが表で叫び、店の客が一斉に立ち上がった。窓の外、東の空が、じわりと赤い。
ジェスターも立ち上がった。立ち上がった、その背中に――
西から、届いた。
吼哮。
聞いたことのない声だった。獣のようで、獣ではない。金属を裂くようで、喉から出ている。一声で分かる。あれは、自然の生き物ではない。自然は、あんな声を設計しない。遠いのに、腹の底が直接震えた。店の七つの鈴が、誰も触れていないのに、一斉に、不揃いに鳴った。
ジェスターが、ゆっくりと西の窓を見た。
その横顔から、血の気が引いていくのが分かる。恐怖ではない。計算だ。東に人手が割かれる夜に、西で正体不明が吼える。この配置の意味を、あいつも読んだのだ。
東の火の手と、西の吼哮。
同時、である。




