第八章 善意の二正面(二)
その依頼札を見つけたのは、偶然だった。いや、正確には、ミエルさんの視線が偶然を装って教えてくれた。
掲示板の右上。真新しい札。
――旧街道周辺、魔物を操りし者の追跡調査。推奨等級B上位。危険度、高。人的抗争の可能性あり。
そして札の受注欄には、見慣れた几帳面な字で、仮受付の署名が入っていた。ジェスター・クラウン。人数の欄には、「一」。
一。
二人組の片割れが書く数字ではない。
操り手の追跡は、王都の返答待ちでは遅い、というのが商人組合の言い分だった。実害が出ている以上、ギルドも札を出さざるを得ない。出したくなさそうな札というものはあるもので、この札は画鐶の刺さり方まで嫌々だった。
札を出す側の気持ちは分かる。出された札を黙って見上げる従士の気持ちは、もっと分かる。人数欄の「一」という字は、書いた人間の優しさの形に、少しだけ歪んで見えた。
「仮受付の締切は、明後日です」
窓口のミエルさんが、書類から顔を上げずに言った。
「そうか」
「取り消しも、明後日まで可能です」
「……そうか」
「以上、業務連絡でした」
業務連絡の顔をした、援護射撃である。撃たれた側の俺は、礼の代わりに黙って頷いた。彼女の弾は、いつも急所の半歩手前に落ちる。
その晩の鈴鳴り亭は、静かな緊張の卓になった。
「説明を聞こうか」
「見たのか」
「見た。人数欄の『一』もだ」
ジェスターは匙を置いて、置いた匙をまた取った。
「相手は人間だ、ヨウタ。魔物じゃない。獣の群れをけしかけて、街道を襲わせるような奴だ。何をしてくるか分からない」
「分からない相手のところに、一人で行く理屈がどこにある」
「お前を連れて行けない理屈ならある。荷物持ちは非戦闘員だ。人間相手の斬り合いになったら、俺はお前を守りながら戦えるほど――」
強くない、と言いかけて、あいつは言葉を切った。切って、煮込みを二口食った。
「……この煮込み、今日は豆が多いな」
「話を豆に逃がすな」
「豆は大事だぞ」
「規約第五条。緊急時は互いの判断を尊重する。俺の判断は同行だ」
「これは緊急じゃない。計画だ。計画は第二条の管轄で、危険な役目は俺が引き受ける」
「都合のいい時だけ条文が達者になるな」
「起草者だからな。だいたいお前は、自分の心配をしなさすぎる」
「してる」
「してない。オーガの時も岩狼の時も、お前は一度も後ろに隠れなかった。荷物を抱えて、いつも妙にいい位置にいる」
「偶然だ」
「偶然が、あんなに続くか」
続くのである。続けているのは俺なのだから。だがこの文脈でそれを言えば、話は別の崖から落ちる。
「とにかく、一人は駄目だ。第五条だ」
「第二条だ」
「五条」
「二条」
条文の応酬は、豆の煮込みが冷めるまで続いた。
起草者は、口論の途中でまた煮込みを食った。食ってから、思い出したように付け足した。
「うまいな、今日のは」
「……ああ、うまいよ」
言い合いの途中で飯の感想を挟む男と、それに律儀に同意する男。傍から見れば仲直りに見えただろう。実際は、どちらも一歩も引いていない。引いていないまま、豆の多い煮込みだけが減っていった。
カウンターの向こうで、バラッドが素知らぬ顔で杯を磨いていた。磨きすぎである。あの杯はもう三往復目だ。地獄耳の主人は、今夜は珍しく、小噺を挟んでこなかった。挟まない、という挟み方があることを、俺はこの夜に知った。大人の距離の取り方というものは、酒場で学ぶのが一番早い。
店を出て、夜道を並んで歩いた。
話の続きは、どちらも切り出さなかった。城壁の影が道に落ちて、月は今夜も半分だった。あの祭りの夜から、月は少しも太っていない気がする。俺たちの足音だけが揃っていた。
先に沈黙に飽きるのは、いつもあいつの方である。ただ今夜の沈黙は、飽きて破られたのではなかった。深呼吸を三つぶん数えてから、あいつは言った。
「……なあ、ヨウタ。あの熱の夜の話、もう少しだけしていいか」
「聞く」
「前に話したよな。俺は隣で祈ることしかできなかったって。あれな、半分だけ嘘なんだ」
足音が、一拍ずれた。
「祈ったのは本当だ。でも、ただ祈ったんじゃない。俺はあの夜……神様と、取引をした」
「取引」
「子供の口約束だ。笑ってくれていい。『ヨウタを助けてくれるなら、俺の一番いいものをあげます』って。何度も唱えた。婆様に教わった古いおまじないに、勝手にそう付け足して、朝まで唱え続けた」
夜道の空気が、少しだけ薄くなった気がした。
「朝になったら、お前の熱が下がってた。医者は奇跡だと言った。村中が喜んだ。俺も喜んだ。喜んで――それから、怖くなった」
「怖く?」
「差し出した『一番いいもの』が何だったのか、思い出せない。あの朝からずっとだ。何かを払ったはずなのに、何を払ったのか分からない。財布の中身を確かめられない買い物ほど、怖いものはないだろ」
「思い出そうとしたことは」
「ある。何度も試した。夢に出そうになる時もある。でも、いつも途中で覚めるんだ。……たぶん、思い出しちゃいけない類のものなんだと思う。そう思うことにしてる」
あいつは自分の掌を見た。三度目の、あの仕草だった。
「剣を始めたのは、その後だ。守るため――そう言ってきたし、嘘じゃない。でもたぶん、半分は違う。俺は、払った何かの穴を埋めたかったんだ。努力で。稽古で。何かが足りない気がして、足りない何かの名前が分からなくて、だから全部で埋めるしかなかった」
言葉が出なかった。
俺の中で、夢の断片が音を立てて並び直っていく。泣きながら同じ節を唱える八つのあいつ。ちりん、と一度だけ鳴った鈴。熱の前と後で、造り替えられたような俺の体。
あいつが払ったもの。
俺が受け取ったもの。
勘定書の両側が、夜道の暗がりで、初めて同じ机に載った気がした。載っただけで、まだ読めない。読めないが、載ってしまった。
読んでしまえば、たぶん戻れない。俺の最強も、あいつの十年も、意味が全部書き換わる。書き換わった後の世界の間取りを、俺はまだ想像できずにいた。
「――変な話をした」
あいつは笑って、首を振った。
「昇格だ、二つ名だって騒がれるたびに、思うんだ。俺の今の強さは、あの夜の続きなんだって。だからな、ヨウタ」
立ち止まって、あいつはこちらを向いた。
「俺はもう、あの日の続きを生きてるんだ。続きの途中で、お前をまた危ない場所に立たせるわけにはいかない。今度こそ、俺が払う番だ」
今度こそ。
その言葉の重さを知っているだけに、返す言葉の持ち合わせがなかった。代わりに、俺は一番手前の本音を出した。
「……一人で行くな。頑むから」
「ヨウタ」
「祈る側は、つらいんだろ。お前が一番よく知ってるはずだ」
「ずるいぞ、それは」
「知ってる。ずるさなら俺の管轄だ」
「管轄って、お前」
あいつは短く噴き出して、その尻尾が消える前に真顔へ戻り、目を見開いた。
長い沈黙のあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。二人でだ」
分かった、の前の間が、二拍長かった。
二拍ぶんの何かを、あいつは胸の奥に畳み込んだ。俺はそれに気づき、気づかないふりをした。気づかないふりの得意な男と、隠し事の下手な男の、夜道である。
長屋に戻って、俺は俺で、机に紙を広げた。
あいつが単独で動くなら、その前に、俺が動く。操り手の居場所を先に洗い、危険の芽を先に摘む。いつもの夜業の、少し大きいやつだ。
痕跡は、あの尾根から北へ延びている。北の岩場、旧坑道、水の匂い。三晩あれば洗える。三晩のうち、あいつが動かないでいてくれれば、の話だが。動かない保証は、あの二拍の間のぶんだけ、怪しかった。
善意と善意が、同じ夜に、別々の紙へ計画を書いていた。
書きながらどちらも、相手のためだと信じて疑わなかった。
後から思えば、これが二正面の始まりである。敵は東西から来たのではない。善意が、同じ約束の下で二枚に割れたのだ。
割れた善意は、それぞれ正しく、それぞれ全力で、互いの見えない場所へ歩き出す。喜劇の台本なら、観客が腹を抱える場面である。あいにく当事者は、二人とも大真面目だった。
窓の外で、夜回りの鐘が二つ鳴った。
いい音だった。
いい音のうちに、書けるだけ書いた。




