第八章 善意の二正面(一)
ここで一度、断っておきたい。
この章で引用する黒い手帳の記述を、当時の俺は知らない。手帳がどういう経緯で俺の手に渡るのかは、しかるべき時に書く。今は、あの数日間に街の裏側で進行していた「観測合戦」を、両側の帳面から再現するのが目的である。片側は俺の記憶、もう片側は、あの几帳面な字だ。
まず、手帳の花月十日の頁から。
――観測十日目。対象(クラウン卿)の周辺事象、九件を精査。うち七件、通常の因果で説明不能。事象は対象の着任と同期して発生。結論の仮説、対象の内に潜在する力が漏出していると観測される。
七件。ミエルさんと同じ数字である。優秀な観測者というものは、洋の東西を問わず同じ数を数えるらしい。違うのは、結論の向きだった。彼女は「サイキ様、あなた何者です」と訊いた。学士様は、最初から俺を数えていない。
同じ頁に、こんな付記もある。
――当地の住民は対象を「白光」と呼び、崇敬の対象とする。伝承の形成速度、異例。伝承と事実の乖離、大。乖離の原因は不明と観測される。
乖離の製造元は、酒場の講談師である。ドヤールの芸が、遠い北の帳面に「原因不明」と記録されているわけだ。本人が知ったら三日は自慢するだろうから、教えないでおく。
その証拠に、同じ頁の隅にこうある。
――従者(名称未詳)について。平凡。特記事項なし。毎朝、灰色の猫に敬礼する習慣が観測される。
敬礼ではない。挨拶である。陛下に頭を下げないと引っかかれるからだ。だが訂正の窓口はないので、俺は後世の読者として、余白にツッコミを入れるしかない。
さて、俺の側の帳面に移る。
観測されていると知った日から、俺は「見せる日課」を組んだ。狩人は、獣に見せたい足跡だけを雪に残す――猟師の間に伝わる符牳である。見せたい俺は、こうだ。朝はパン屋に並び、陛下に挨拶し、稽古で転び、昼は依頼の雑用、夕は鈴鳴り亭で麦酒を二杯。夜は長屋の灯りを常識的な時刻に消す。
「陛下、おはようございます」
挨拶をすると、陛下は籠の中で尻尾を一度だけ振った。返礼である。たぶん。
「あんた最近、判で押したような毎日だねえ」
「平和が一番なんだ、婆さん」
「平和な顔で目の下に隅をこさえてるのは、どこの誰だい」
婆さんの観察眼は、学士の水晶より侮れない。
朝稽古では、師匠の方から待ったがかかった。
「ヨウタ、今日は稽古は休みだ」
「珍しいな。雨も降ってないのに」
「お前、寝てないだろう」
「寝てる」
「寝てる奴は、あくびを噛み殺すときに目が泳がない」
「……観察が細かくなったな」
「師匠の目は誤魔化せんぞ」
師匠になった覚えはないが、弟子の観察眼が育つのは、師匠側としては複雑である。睡眠不足の原因が「お前の背中の的を消す夜業」だとは、口が裂けても言えない。
夜の鈴鳴り亭でも、油断はできなかった。
「坊主、近ごろ規則正しいね」
「健康に目覚めたんだ」
「へえ。目覚めた人間ってのはね、だいたい何かから目を逸らしてるもんさね」
「小噺が辛口だな、今夜は」
「安酒に合うんだよ、辛口は」
観測者は水晶を持つ一人だけではない。この街の年寄りは、全員が素手の観測者である。
灯りを消してからが、本業である。
窓から出ずに、床下から出る。床下の抜け道は二年前に掘った。掘った時は用心のつもりだったが、まさか学士相手の営業経路になるとは思わなかった。人生の設備投資は、どこで利くか分からない。なお抜け道の出口は隣の空き家の物置で、家賃は誰も払っていない。厳密には、俺が屋根を直した貸しで相殺されている。この街の経済は、たまにこういう物々交換で回るのである。
夜の森では、第二の工作を進めた。
学士様は俺の偽装現場を検算した。なら次は、本物を見せればいい。俺は東の沢で、縄張りの重なった大猪と灰狼の群れを、餌場の調整だけで正面衝突させた。手は出していない。餌の位置を三日かけて半町ずらしただけだ。獣の喧嘩は本物で、爪痕も本物で、倒れた骸も本物である。
半町ずらす、と一行で書いたが、実務は地味である。猪の好む球根の群生を三晩かけて掘り移し、狼の水場の風向きを読み、双方の斥候が同じ朝に同じ沢へ出るよう、時刻まで設計する。賭けの要素はある。あるが、二年ぶんの観察日誌が、賭け率をほぼ確定に変えてくれる。自然を偽装するのではない。自然に、少しだけ早口で営るのだ。
翌々日の手帳に、こうあった。
――再調査。東の沢にて獣同士の闘争痕を確認。先日の検体と同一の様式。結論、当地の獣の闘争は、この様式が自然である。偽装の仮説を棄却する。
棄却された。
贋作師の勝ち筋は、贋作の腕を上げることではない。本物の隣に並べることである。品評会は、こちらの不戦勝で閉幕した。
勝因を一つ挙げるなら、あの学士が誠実な観測者だったことだろう。誠実な観測者は、目の前の本物を疑えない。嘘つき相手なら、俺はもう少し苦労していた。
ついでに、手帳の観察の誤記も拾っておこう。
――従者の観察、補遺。パンの購入は毎朝二個。一個は自食、一個は用途不明と観測される。
用途は陛下への献上である。
――受付係と従者の間に、緊張関係が観測される。取引か、恋愛か、監視か。判断を保留する。
保留するな。監視だ。いや、監視でもないのだが、恋愛と書かれるよりは監視でいい。
――酒場の店主は、従者に対してのみ、酌の回数が多い。理由は不明。
理由は俺が三杯飲むからである。観測というものは、たまに答えより先に謎を製造する。
――と、ここまでは、いい。
問題は、俺の隠蔽が成功すればするほど、手帳の別の頁が育っていったことである。
――対象は混成群れの試験に対し、地形を利用して対応。損害なし。特異事象なし。にもかかわらず、結果のみが常に最適である。過程に説明がつかない。潜在する力が、無自覚に働いていると観測される。
――受付係の記録を閲覧(許可は一部のみ)。対象の昇格速度、当支部歴代最速。周辺の異常事象、着任後に集中。仮説を補強する。
――対象の人格についての試験は不要と判断する。対象は、群れの襲撃下で真っ先に民間人の退路を確保した。器として、上質と観測される。
最後の一行を後日読んだとき、俺は妙な気分になった。敵の帳面の中で、あいつは正しく観測されていた。強さの出所だけが間違っていて、人柄だけが正確だった。世界の観測網というものは、たまにこういう歪んだ精度を出す。
俺の誤算は、単純である。
観測者の問いは「異常の犯人は誰か」ではなかった。「クラウン卿はいつ覚醒するか」だったのだ。犯人探しなら、俺を消せば捜査は迷宮入りする。だが覚醒待ちなら、俺が消えるほど、あいつの周りの説明不能は「あいつ自身の力」に整理されていく。
隠れる俺と、育つ誤解。
俺が上手に消えた分だけ、あいつの背中に、見えない的が描かれていった。
気づくべきだった、と後の俺は思う。だが当時の俺の帳簿は、二年ぶんの成功体験で黒く塗り潰されていた。隠れることは、守ること。その等式を、俺は一度も疑わずに来たのだ。疑わない等式ほど危ういものはないと、知ってはいたはずなのに。
観測合戦の勝敗表を、当時の俺はこう付けていた。隠蔽戦、俺の勝ち。情報戦、引き分け。――この採点が甘かったことは、後の頁が教えてくれる。
花月十一日の夜、俺は渡り鳥亭の屋根の上にいた。
瓦越しに、部屋の気配を読む。筆の走る音、紙をめくる音、香の匂い。学士様は今夜も勤勉である。勤勉な筆が何を書いているのか、この時の俺は知らない。知らないまま、嫌な予感だけが、いつもの精度で騒いでいた。
屋根を降りようとした時、筆の音が、一度だけ止まった。
止まって、窓の方を向く気配がした。
俺は瓦の上で、呼吸ごと消えた。三十を数えたところで、筆の音が戻った。
気づかれてはいない。いないが――勘のいい筆である。
後日の俺が頁をめくると、その夜の記述は、こうだった。
――総括。観測を完了する。従者は無関係。受付係は無関係。周辺事象はすべて、クラウン卿の潜在力の漏出として整理される。器の覚醒は、近いと観測される。
――本部へ、第二段階を要請する。
第二段階。
観測の、次の段階。
その言葉の意味を、俺たちは数日後、最悪の形で履修することになる。




