第七章 静寂の斥候(二)
花月六日の昼、ギルドに急報が飛び込んだ。
「東街道で行商の荷車が襲われた! 魔物の群れだ、まだ居座ってる!」
駆け込んできた御者は無事だったが、荷車は峠の手前で立ち往生しているという。受付が依頼札を書き上げるより早く、ジェスターは立ち上がっていた。
「行こう、ヨウタ」
「ああ」
「討伐等級は」
「不明です。混成の群れは、前例がありません」
「なら二人で見てきます。手に負えなければ応援を」
「お気をつけて。……サイキ様も」
「俺は荷物だ」
「荷物にも、お気をつけて」
道すがら、追いついてきた御者から証言を取った。
「な、なあ旦那がた、ありゃ普通じゃねえ。狼と猪が、喧嘩もしねえで並んでたんだ」
「積み荷は?」
「塩と布と……そういや、地図だ。街と近郊の地図の写しを、注文で運んでた」
「地図? 誰の注文だ」
「渡り鳥亭の、北の学士様だとよ」
塩と布と、俺の街の地図。襲われた荷の中身としては、出来すぎた取り合わせである。
ちなみに地図の注文自体は、写本屋を通した正規のものだ。正規の手続きで、俺の街を紙に写し取っていく男。手口が丁寧であるほど、背筋というものは冷える。
走りながら、御者の証言を頭の中で並べ直す。狼が七つ、猪が四つ、それから大蚛蛛。
……おかしい。
狼と猪と蚛蛛は、群れない。食う側と食われる側と、どちらでもない側だ。この三種が同じ場所で同じ方向を向くことは、自然界の帳簿ではありえない。ありえない仕訳が出てきたときは、たいてい、帳簿の外から手が入っている。
現場に着いて、その確信は深まった。
街道の真ん中に、群れがいた。灰狼が七頭、大猪が四頭、岩場に大蚛蛛が一体。荷車を囲んだまま、食いもせず、散りもせず、ただ待っている。獣は待たない。待つのは、命令されている者だけである。
「なんだ、あれは……」
ジェスターも異常に気づいた。当然だ。図鑑を三日読んだ男である。
「群れ方が、おかしい。それに目だ。どの獣も、目が濁ってる」
「荷車の御者は逃げた後だ。積み荷ごと囲んで、何を待ってるんだか」
「分からん。分からんが――囲みを解かせる。荷の持ち主が戻ってくる前に」
あいつは盾を構えて前に出た。俺は荷物と一緒に、道端の岩の陰である。定位置についたところで、本日の勝利条件を確認しておく。
一つ。ジェスターを死なせない。いつも通り。
二つ。ばれない。いつも通り。
三つ。――測らせない。本日の新規追加である。
あの学士がこの騒ぎを観測していない保証は、どこにもない。むしろ観測するために群れを置いた可能性すらある。だとすれば、俺の内職は今日から、検算に耐える帳簿でなければならない。指弾きは駄目だ。軌道が残る。小石も駄目だ。出所を測られる。使っていいのは、風と、地形と、獣自身の間違いだけ。
仮に俺が手を出したとしよう。すると観測者の水晶が何かを拾う。拾われた俺は俺でなくなる。よって俺は手を出さない。――手を出さない、と観測される形でしか、手を出さない。背理法の、たぶん世界で一番いかがわしい使い方である。
「ヨウタ! 荷車の陰まで下がれ! 荷物ごとだ!」
「下がってる!」
「よし! ――来い!」
開戦した。
統率された群れは、厄介だった。狼が波状で出入りし、猪が突進で盾を削り、蚛蛛が糸で退路を制限する。役割分担である。獣に役割分担をさせる何かが、この裏にいる。
しかも狼の出入りには、拍子があった。一定の間で寄せては引く、訓練された槍衾の拍子である。拍子を持つ獣を、俺は生まれて初めて見た。見たくなかった部類の初めてである。
だが、ジェスターの立ち回りは、その拍子への適応で進化していった。三度受けて、四度目には拍子の裏を取る。相手が訓練されているなら、訓練の癖ごと読めばいい――言葉にすれば一行の理屈を、あの男は盾の上で実演する。座学と実地の間に橋を架ける速度が、この一月でまた上がっていた。
ジェスターは、それでも凌いだ。狼の波を斜めに割り、突進線から荷車を外し、糸の射線を岩で塞ぐ。隊列を組み替える判断が、一手ごとに速くなっていく。
「(五頭目、後ろに回った)」
俺は動かない。動く代わりに、道端の枯れ枝を踏んだ。ぱき、と乾いた音が斜面を渡る。背後を取りかけた狼の耳が、音の方へ半拍だけ流れた。半拍あれば、あいつの盾は間に合う。音は残らない。枝を踏む足音など、森では誰のものでもない。
「(猪、二頭同時)」
二頭の突進の中間点に、朝方の雨のぬかるみがある。俺は何もしない。何もしないことを、あらかじめ選んであった。あいつを誘導したのは戦いの流れで、流れを読んでそこに立ったのはあいつ自身だ。二頭の猪は泥に前脚を取られ、交差して転がった。
「(蚛蛛が糸を溜めてる)」
蚛蛛の岩の真上に、スズメバチの巣がある。今朝の巡回で確認済みの、今日ここで喧嘩が起きるなら一番怒らせたくない住人である。蚛蛛の糸が巣の端をかすめるのは、時間の問題だった。俺は待った。待つのも仕事である。果たして糸は巣をかすめ、住人は激怒し、蚛蛛は本日の戦線から名誉ある撤退を選んだ。
もう一手あった。蚛蛛の最後の糸が、盾の留め具に絡みかけたのである。絡めば盾が死ぬ。俺は――何もしなかった。する前に、あいつが自分で気づいた。留め具を返して糸を滑らせ、逆に糸ごと狼を一頭薙ぎ払う。
よし。今のは満点である。俺の出番がない瞬間というのは、この商売でもらえる最高の給料だった。
どれも、俺は何もしていない。
何もしていない、と観測される形で、全部やった。
あの学士の帳面には、今ごろこう書かれているはずである。対象、混成群れに単独で対応。地形の利用、的確。特異事象――なし。
なし、と書かせることが、本日の俺の勝ち筋だった。
妙な話である。二年間、俺は「何もしていない」を装って全部やってきた。今日からは「本当に何もしていない」に限りなく近い形で、やはり全部やらねばならない。無職の擬態から、無為の芸へ。裏方業界にも、技術革新の波は来るのである。
潮目が変わったのは、狼が三頭になった時である。
ふ、と。
群れ全体から、糸が切れたように力が抜けた。濁っていた目に色が戻り、獣たちは一斉に我に返って、蚛蛛の子を散らすように森へ逃げていった。残ったのは、荷車と、砕けた糸と、静けさである。
囲まれていた荷車は、車輪ひとつ欠けていなかった。獣たちは積み荷に興味がなかったのだ。興味の対象は、最初から別にあった。討伐に駆けつけてくる、誰かである。
「……終わり、か?」
ジェスターが荒い息のまま、剣を下げた。
「引いたな。妙な引き方だが。……まるで、見るものを見終えた、みたいな」
「ああ。始まり方も、群れ方も、引き方も、全部妙だ」
あいつは倒れていた狼の一頭に歩み寄り、首筋を検分して、眉を寄せた。
「ヨウタ、これを見てくれ」
狼の首筋に、細い刺し傷があった。針の痕だ。それも、ただの針ではない。傷口の周りだけ、毛が渦を巻くように寝ている。振動の痕である。
「棘か? 蜂の――いや、違うな」
「針だ。それも、音の痕がある」
「音?」
「振動だ。毛の寝方が渦を巻いてる。羽音の強い虫に刺されるとこうなるって、蜂に詳しい婆さんが言ってた」
「詳しいな、相変わらず」
「役に立ったことのない知識だ」
「最近よく立つな、それ」
「不本意ながらな。……つまり、この針は刺さる時に鳴っていた。音で獣を操る道具なんて、俺は聞いたこともないが」
言いながら、抜き取った針を布でくるんで懐に収めた。水晶片の隣である。俺の懐は、いつの間にか、他人の落とし物の博物館になりつつあった。
「誰かが打った、ってことだよな。誰かが、って」
言いかけたあいつの視線が、俺の肩越しで止まった。
振り向く。
東の尾根の上、夕方の逆光の中に、人影が一つ立っていた。
黒い外套。距離、四町。顔は見えない。ただ、立っている。観測の姿勢で。
瞬きの間に、影は消えた。
「……人、だよな。今の」
ジェスターの声が、低かった。
人だ。そして、知っている気配だった。書き損じの跡のような、あの薄さ。
学士様は、宿で書き物をしているのではなかったらしい。
本日の観測記録に、俺は「特異事象なし」と書かせられただろうか。尾根の上の帳面の中身を、初めて、心の底から読みたいと思った。




