第七章 静寂の斥候(一)
祭りが終わって、街は日常に戻った。戻ったのは街だけで、俺の日常には新しい項目が二つ増えていた。一つは黒衣の男の見張り。もう一つは、朝稽古である。
「ヨウタ! 構えが甘い!」
「甘いと言われても、これが精一杯だ」
「よし、じゃあ足の運びからだ。守られるだけじゃなく、お前も自分の身くらい守れた方がいい。俺が教える」
城壁裏の空き地で、木剣を持たされて三日目になる。言い出したのは無論あいつで、理由は例の規約第三条の周辺整備らしい。俺は毎朝、才能のない従士を丁寧に演じている。木剣を三回に一回は取り落とし、足はもつれさせ、打ち込みは腰砕けにする。手加減の芸というのは奥が深い。下手すぎれば不自然で、上手すぎれば正体が出る。ちょうどいい下手さというものを、俺は毎朝、小数点第二位まで調整していた。
「素振り百回! 数えるぞ!」
「百は多い」
「なら五十だ。まけたぞ」
「言った側から半分に負ける議長を、俺は他に知らない」
「議長は柔軟なんだ。ついでに第八条を追加する。朝稽古は毎日」
「雨の日は休みにしろ」
「却下だ。雨の日こそ足場の稽古になる」
「急に厳格になったな、議会」
ちなみにこの朝稽古、三日目にして早くも見物人がついている。出勤途中のミエルさんが、塀の向こうで足を止めるのである。
「サイキ様の剣筋、初日より下手になっていませんか」
「緊張するんだ、見られると」
「そうですか。台帳的には『退歩』と記録します」
「稽古まで台帳に載るのか」
「載ります。……不思議な退歩です。下手になっているのに、転び方だけ毎回安全です」
観測者の目は、今日も痛いところを突く。転び方まで演技の質を疑われる日が来るとは、二年前の俺は思ってもみなかった。
「うーん……不思議だな」
三日目の朝、ジェスターは木剣を下ろして首をひねった。
「打ち込みは素人だ。足も遅い。なのにお前、視線の運びだけ玄人なんだ。俺の肩と腰、ちゃんと順番に見てる」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
「……猫探しで鍛えたんだ、目は」
「猫で?」
「陛下は速いからな」
「なるほど、陛下は速いか! よし、なら次は足だな!」
「足か」
「足の速さは歩幅と拍子で決まる。俺が前に出たら、お前は斜め後ろに半歩。やってみるぞ」
「半歩な」
「……今の、完璧だったな?」
「まぐれだ」
「まぐれが三回続いてるんだが」
「まぐれは続くから、まぐれって言うんだ」
「そうか? そうかなあ」
語源に関しては完全な捿造である。捿造で切り抜けられる程度の疑いのうちに、演技の精度を上げなければならない。
「よし、今日はここまで! 水を汲んでくる」
「俺が行く。従士だからな」
「なら一緒に行こう。相棒だからな」
肩書きの応酬は、いつも向こうの勝ちで終わる。
納得した。納得してくれたが、冷や汗の分だけ、朝稽古の危険度は俺の中で二段階上がった。あの男の目は、節穴の正反対である。節穴なら、俺の二年はもっと楽だった。
さて、黒衣の男の話をしよう。
男は宿場の「渡り鳥亭」に三日、滞在している。三日間、何もしていない。朝に一度出て、街を歩き、昼には戻る。誰とも話さず、何も買わず、依頼も出さない。
何もしない滞在者というのは、何かをする滞在者より、よほど質が悪い。行商人なら商いをする。旅人なら発つ。何もしない男の予定表には、まだ書き込まれていない仕事があるということだ。
宿の女将に世間話のついでに聞いたところでは、男は「北の学士様」で通っているらしい。物静かで、支払いは前金、部屋には紙の束。夕食は部屋でとり、湯は使わない。
「学士様ってのは、みんなああなのかねえ」
「さあな。知り合いに学士がいないもんでな」
「あんたもたまに、妙なことを聞くね」
「雑用の下見だ」
「そういえば学士様、あんたのことを聞いてたよ」
「……俺を?」
「いんや、名指しじゃない。『白光様のお連れの、荷物持ちの方』ってさ。名前は聞かれなかったね」
「そうか。名前は、覚えにくいんでな」
「変なこと言うんじゃないよ」
妙なことを聞く雑用屋と、何もしない学士。宿帳の上では、どちらも無害な住人である。
そして花月五日の夜、その予感は形になった。
月が細い。
風が止まっている。
こういう夜は、音がよく残る。
夜の巡回である。三日前から、俺は順路を毎晩変えていた。変えた順路の三番目、先日処理した灰狼の骸のところで、俺の足は止まった。
骸が、動かされていた。
正確に言おう。骸の位置は元のままだ。だが、向きがわずかに違う。偽装でつけた爪痕の上に、細い擦れ跡がある。物差しを当てた跡だ。爪痕の間隔を、誰かが測ったのである。
しゃがみ込んで、周囲を検分した。
牙が一本、根元から切り取られている。標本採取の切り口だ。獣の仕業ではない。刃物の、それも医療器具に近い薄い刃の仕事である。
三歩下がった位置の枝が、二本折られていた。高さを測るための折り方だ。骸を吊るして殺したのか、立ったまま殺されたのか、打点の高さから逆算する気だったのだろう。
誰かが、俺の偽装を検算している。
鑑賞ではない。検算だ。爪痕の間隔、牙の標本、打点の高さ。この三つを揃えて調べる人間の目的は一つしかない。「この獣は、本当に獣に殺されたのか」である。
答えを言えば、殺したのは俺で、獣に見せかけたのも俺である。三年、この偽装で通してきた。通ってきたのは、疑う人間がいなかったからだ。疑う目で見れば、俺の美術には署名が残る。同じ角度、同じ深さ、同じ様式美。作風というものは、隠しても滂むのだ。絵師が贋作を見抜くのは筆致が語るからだと言うが、俺の爪痕も、たぶんもう語っている。
……落ち着け。まず容疑者を並べよう。
ミエルさん。違う。あの人は台帳から出ない主義だ。現場に来るくらいなら俺を保管室に呼ぶ。
検分組合。違う。連中の仕事は丁寧だが、丁寧さの種類が違う。組合は死骸を金に換えるために調べる。標本のために牙を一本だけ持ち帰る趣味はない。
リリ。……あの眠そうな目は確かに何かを見ているが、彼女が夜の森を一人で歩く姿は想像がつかない。想像がついたら怖い。
ドヤール。論外である。あの男が夜の森で静かにしていられるなら、講談というものは生まれていない。
消去法の残りは、一人だった。
三日間何もしなかった男は、何もしていなかったのではない。昼の散歩で俺の街を測り、夜のどこかで俺の森を測っていたのだ。宿の寝台で寝ている「はず」という俺の思い込みごと、測られていた。
二年間、観測する側に立ち続けた人間の油断である。観測者は、観測されない。その前提が、音もなく崩れていた。
思えば、傲慢な前提だった。舞台袖の人間が客席から見えないのは、客が舞台を見ているからにすぎない。舞台ではなく袖を見に来る客が、世界には存在するのだ。
念のため、現場の周囲を一町ぶん、指先の感覚で浚った。
あった。
草むらの根元。親指の先ほどの、透明な欠片である。
摑み上げて、月にかざした。水晶だ。それも、ただの水晶ではない。断面が糸のように細かく波打っている。魔力を通した水晶が消耗した時の、独特の割れ方だ。ギルドの測定水晶と同じ石質――だが、規格が違う。ギルドの水晶はどれも小指の太さで統一されている。これは細く、長く、先端だけが焼けたように白い。
布に包む前に、匂いを確かめた。松脂と、油と、それからごく薄く、香のような匂い。この街の誰も焚かない香である。北の、というより、もっと遠くの匂いだった。
計測器の、消耗部品。
誰かがここで、何かを測った。爪痕や打点といった目に見えるものではなく、目に見えない何かを、器械で。
残っていた魔力の癖か。それとも――俺の、痕跡か。
欠片を布に包んで、懐に仕舞った。夜の森は、いつも通りに静かだった。
静かさの意味が、昨日までと今日とでは、もう違ってしまっていたが。
帰り道、渡り鳥亭の前を遠回りに通った。二階の角部屋に、灯がひとつ。
あの灯の下で、几帳面な字が今夜も何かを書いているのだろう。こちらの筆跡は、もう読まれ始めている。なら、俺のやることは一つだ。
明日から、贋作の腕を上げる。
本物の獣より獣らしい殺しの絵を描いて、あの学士様に採点してもらおうじゃないか。二年やってきた画業の、初めての品評会である。負ける気は、なかった。




