第六章 英雄祭の夜(三)
祭りの翌日というものは、世界中どこでも似た顔をしている。
花輪は半分ほど萎れ、広場には屋台の骨組みだけが残り、道の隅には誰かの片方だけの靴が落ちている。俺は朝から「祭場撤去補助」の依頼札を握って、その残骸を片づけて回った。祭りを組み立てるのも雑用、畳むのも雑用である。世界は雑用で回っている。門番の爷さんとの共通見解だ。
撤去の現場には、見知った顔が多かった。警備明けのゴルドー一味が骨組みを運び、どこで聞きつけたのか、白光様まで丸太を担いでいた。
「B級が撤去作業をするな。相場が値崩れする」
「体がなまるんだ。それに、組んだものは畳むまでが祭りだろう」
「頭、白光の旦那が丸太を! 俺らも負けてられねえ!」
「おう!」
士気の高い撤去現場である。なおドヤールは来ていない。昨夜の宴の講談で喉を潰したそうだ。職業病である。見舞いには蜂蜜を届けておいた。おかげで骨組みは予定の半分の時間で消え、時間給の俺の日当も半分になった。世の中の善意は、たまに俺の財布と相性が悪い。なお撤去補助の相場は銅貨三十枚。祭りの華やかさに比べて、畳む側の実入りは世界的に渋いものである。
昼過ぎ、精算に寄ったギルドで、ミエルさんに呼び止められた。
「サイキ様。少し、お時間よろしいですか」
「精算なら札は一枚だが」
「精算ではありません。……こちらへ」
案内されたのは、窓口の奥の小部屋だった。台帳の保管室である。紙とインクと埃の匂いが、書庫のそれより濃い。彼女は棚から一冊の綴りを抜き出して、机に置いた。
表紙には、几帳面な字でこうあった。
――第十三号案件。
「なんだ、それは」
「当支部が開設されてから百二十年、台帳に説明のつかない異常が記録されたことが、過去に十二件あります。井戸の水位が一晩で戻った件、消えた鐘の舌の件、その他。いずれも未解決のまま時効となり、番号だけが振られています」
「へえ。たとえば」
「第五号は『雨の夜にだけ増える薪』。誰かが町外れの薪小屋に薪を足していた、とされる件です。犯人は八十年間、名乗り出ていません」
「……いい話じゃないか、それは」
「はい。ですが台帳的には、未解決です」
八十年前のどこかの誰かに、俺は少しだけ親近感を覚えた。名乗らない親切の先輩である。先輩の八十年に比べれば、俺の二年はまだ研修中もいいところだ。研修中の身で、綴りの厚さだけは歴代一位を狙える位置につけているが。
「へえ。歴史だな」
「これは、十三件目です」
彼女は綴りを開いた。開かれた頁の几帳面さに、俺は軽い眩暉を覚えた。
「一。測定水晶の記録。三年連続、小数点第二位まで同一の数値。較正記録に異常なし」
「機械の癖だろ」
「二。カルタ大森林西部、生息記録にないオーガ・ロードの出現。および、作動済みと記録された落とし穴の再作動。ゴブリンが掘り直した、諸説あり、と記録済み」
「器用だからな、あいつらは」
「三。夜霧の帯の活動停止。同時期に発生した『山暮らし』二十三名の集団就職」
「山の景気だ」
「四。南西区画の水場・苔・地形に関する、雑用等級を超える知見。五。森の主の胃から出た大猪三頭。当該時期、南西区画で大猪の目撃報告は途絶えていました。どこから来た猪でしょうね。六――」
「待て。六まであるのか」
「九まであります」
九まであった。読み上げられる自分の仕事の一覧というものは、表彰であれ告発であれ、心臓に悪い。
六から九の中身は、聞かないことにした。聞けば俺の顔が動く。顔が動けば、それが十号目の項目になる。観測される側の作法というものを、俺はこの二年でずいぶん覚えた。
「参考までに、七だけ申し上げておきます。祭りの警備記録。スリ被害、開催史上最少。警備人員の前歴を考えますと、統計として美しすぎます」
「腕がいいんだろ」
「そうですね。誰かの人選が、です」
「……で、俺にどうしろと」
「どうも、とは」
ミエルさんは綴りを閉じて、初めてこちらの目を見た。
「これは告発ではありません。整理です。私は台帳係ですので、説明のつかない項目を、説明がつくまで綴じておくのが仕事です」
「疑ってるんじゃないのか、俺を」
「サイキ様を疑ってはいません。世界の帳尻を疑っています」
いつか俺が胸の内で組み立てた文章と、一字違いの答えだった。観測者というものは、こちらの独白まで観測しているのかもしれない。
「ちなみに、なぜ十三号なんだ。縁起の悪い数字は飛ばす、とか」
「数字に罪はありません。飛ばすと台帳が狂います」
「……だろうな」
「それに」
彼女は綴りを棚に戻しながら、こともなげに言った。
「いつか辻褒をご説明いただける日が来たら、この綴りは、私が自分で燃やします。台帳係が自分の綴りを燃やすのは、一生に一度あるかないかの背信ですので、楽しみにしています」
楽しみにする背信があるか。あるらしい。この人の辞書は、たまに製本の仕方がおかしい。
保管室を出るとき、俺は一度だけ振り返った。棚に並んだ十三冊の背表紙は、どれも同じ厚さに見えた。俺の二年間が、あの一冊に綴じられて、燃やされる日を待っている。悪くない置き場所だ、と思ってしまったのは、たぶん疲れているせいである。
疲れの原因の半分は、あの綴りが正確すぎることだった。九項目のうち、誤認はひとつもない。優秀な観測者が味方についているのか敵に回っているのか、現時点の帳簿では判定がつかない。判定がつかないまま、綴りだけが厚くなっていく。
夕方、東門の橋のたもとで、俺はその男を見た。
黒い旅装の、背の高い男だった。年の頃は読めない。三十にも五十にも見える。旅装なのに、旅の匂いがしなかった。土埃も、汗も、馬の毛も、何ひとつ連れていない。洗い立ての外套で街道を歩いてくる人間というのは、それだけで一つの異常である。
だが俺の足を止めたのは、匂いではなかった。
気配が、薄いのだ。
書き損じを消した跡のように、そこにいるのに、いた形が残らない。この街で二年、俺の網に引っかからずに歩けた人間は一人もいない。――いなかった、と過去形に直すべき日が、どうやら来たらしい。
橋のたもとの婆さんの店先では、陛下が毛を逆立てていた。男が通り過ぎる間だけ、籠の中で低く唇って、鈴をひとつも鳴らさなかった。あの態度の大きい王が、である。獣の目利きは、たまに人間の網より早い。
男は橋を渡り、街に入り、広場の手前で足を止めた。
鐘楼を、見上げた。
春告げの鐘はちょうど夕刻を打ち始めたところで、揃った三つの音が街に降っていた。いい音である。この街の誰もが好きな音だ。
男は、眉をひそめた。
それから、両耳を一度、手で塞いだ。埃でも払うような、なんでもない仕草で。だが確かに、塞いだ。
鐘の音が嫌いな人間というのを、俺は初めて見た。
男はそのまま、宿場の方へ消えた。追わなかった。追えば、向こうも気づく。ああいう手合いは、気づかれたことに気づく訓練を受けている。
代わりに、動かずに観察できるものは全部観察した。外套の裾の折り目は、畳んだ癖が三日以内に開いたもの。靴底の減りは左右均等で、歩幅は測ったように一定。腰に武器はないが、袖の内側に細いものが一本。筆記具にしては長く、得物にしては細い。そして何より――あの男は街に入ってから、一度も人の顔を見なかった。人を見ずに、建物と、道と、鐘楼だけを見ていた。人間に興味のない旅人というものを、俺は寡聞にして知らない。
夜の点検リストの一番上に、新しい一行を書き加えた。黒衣の旅人。気配の消し方に訓練の跡。鐘の音を嫌う。要観察。
夜になって、宿場の窓に灯がひとつ増えた。増えた灯の下であの男が何を書いているのか、この時の俺には知りようがなかった。厚くなる綴りと、気配の薄い男。同じ日に揃うのだから、世の中の配剤というものは忙しい。
――なお、ずっと後になって、俺はあの男の手帳を読む機会を得ることになる。
最初の頁には、日付と、たった一行だけが書かれていた。
『観測を開始する』
几帳面な字だった。几帳面な字を書く人間の厄介さなら、こちらは日頃から履修済みである。もっとも、あちらの綴りとこちらの綴りでは、燃やしてくれる約束の有無が違う。
観測なら、こちらが先に始めている。そういう競技だとは、あちらはまだ知らない。




