第六章 英雄祭の夜(二)
日暮れに、春告げの鐘が鳴った。
揃いすぎるほど揃った音が三つ、街の上をゆっくり渡っていく。踊りの輪が解け、屋台の灯が半分になり、祭りは夜の顔に変わった。
俺は約束通り、城壁の階段へ向かった。
階段の下で、祭りの終わりかけとすれ違う。花冠を斜めに被った酔客が二人、肩を組んで古い歌を怒鳴っていた。歌詞は三割ほどしか原形を留めていなかったが、本人たちの機嫌は原形より上等に仕上がっていた。祭りの効能というやつである。
モトリーの城壁は、実戦を知らない城壁だ。築かれて百年、外敵に破られたことは一度もない。ないのだが、その百年の何割かは、俺のような誰かが夜明け前に働いた結果だろう。城壁は、破られなかった夜の積み重ねで出来ている。
階段を上った。
城壁の上は、風の通り道になっている。眼下には祭りの残り火みたいな街の灯が広がり、反対側には、月明かりのカルタ大森林が黒い海のように横たわっていた。ジェスターは胸壁に肘を置いて、先に来ていた。
月は半分で、森の上に薄い雲が二筋かかっている。眼下の祭りの灯は、燃え残りの焚き火に似ていた。賡やかさというものは、上から見ると急に頼りなくなる。
「早いな」
「ん。いい眺めだろう、ここ」
「知ってる。二年住んでるからな」
「そうか。そうだよな」
歯切れが悪い。世界一歯切れのいい男の歯切れが、である。
俺は懐から、昼のうちに確保しておいた蜂蜜パンを出して、半分に割った。
「規約第四条だ」
「……第四条?」
「夕飯は、なるべく一緒に食う」
「ああ! そうだな。うん、第四条だ」
あいつは笑って、半分を受け取った。受け取って、齢って、それきりまた黙った。祭りの喧噪が、ずいぶん遠くで鳴っている。
沈黙が続く。長い。あの弾幕のような安否確認をしてくる男が、言葉を探して黙っている。
言い出せない側の顔というものを、俺は毎朝、水瓶の水面で見ている。だからすぐに分かった。今夜のあいつは、俺なのだ。立場が入れ替わる夜というものが、長い付き合いには何度かある。今夜がその一度目だった。たぶん、最後でもない。言うべきか、言わざるべきか、言うならどこから――その顔である。
沈黙が続いた。長さは数えなかった。数えていい沈黙と、数えてはいけない沈黙がある。今夜のは、後者だった。
急かさなかった。急かされなかった恩を、俺はあの鈴鳴り亭の夜からずっと覚えている。
蜂蜜パンがなくなった頃、ようやく、あいつは口を開いた。
「ヨウタ。……笑わないで聞いてくれるか」
「内容による」
「そこは嘘でも頷くところだろう」
「善処する」
「その善処は信用しないことにしてる」
少しだけ、いつもの調子が戻った。戻って、また沈んだ。
「――実は、怖いんだ」
風の音の隙間に、その一言は置かれた。
「昇格が、早すぎる。オーガも、盗賤のいない峠も、森の主も……全部、うまく行きすぎてる。皆は俺の実力だと言ってくれる。でも俺には分かるんだ。あの中に、俺の実力じゃないものが混ざってる」
あいつは自分の掌を見下ろした。主を討った夜と、同じ仕草だった。
「主のことも、本当は納得してない。食い過ぎだったのは分かる。でも、あの巨体が翼を広げかけて、三回やめた。三回だぞ。あれはただの満腹の動きじゃない。何かが……何かに、遠慮してるみたいだった」
心臓に、じかに触られている気分だった。
「評判ばかりが先に走ってる。白光だ、英雄だ、歴代最速だ。俺の中身が、俺の名前に追いつかない。いつか化けの皮が剥がれたとき、期待してくれた人たちの顔を見るのが怖い」
俺は黙って、続きを待った。
「この一月、夜中に何度も目が覚めるんだ。オーガの棍棒が、俺の半歩先に落ちる夢を見る。あの半歩がどうして出たのか、自分でも思い出せない。体が勝手に動いた。次も動いてくれる保証は、どこにもない」
あいつは、少しだけ笑おうとして、失敗した。
「街の子供が、木の枝で俺の真似をするんだ。白光ごっこと言うらしい。……嬉しいんだ、本当に。嬉しくて、重い。それから、お前の前で格好をつけていたい気持ちも、正直、ある。守るなんて大口を叩いて、俺は」
言葉が、そこで途切れた。
途切れた続きを、俺は引き取らなかった。引き取る資格が、俺にはない。
あいつの「怖い」の材料は、九割が俺の仕事である。オーガの結末の一行も、静かすぎた峠も、翼を畳んだ主も。あいつの成功を守るつもりで積み上げた俺の親切は、いつの間にか、あいつの自信を横から削っていた。
守るということの副作用を、俺は今夜、初めて帳簿の裏面で見た。
間引きすぎた森は痩せる。守りすぎた剣は鈍る。俺は森の管理人のくせに、一番大事な生態系で同じ失敗をやりかけていた。
昔話に、こういうのがある。贈り物というものは、渡し方を間違えると、相手のいちばん大事なものと引き換えになるのだと。俺が贈り続けた「勝利」の代金を、あいつは「自信」で支払わされていた。贈った側が回収に回れないのが、この商売の一番の欠陥である。
言おうか、と思った。
今なら言えるか。実は俺がやった。お前の運の正体は俺だ。だからお前は何も怖がらなくていい――。
駄目だ。
それを言えば、あいつの「怖い」は消える。消えて、代わりに「全部嘘だった」が残る。十年の誓いも、十七枚の願書も、四撃を受け切った盾も、まとめて「不要だった」の箱に入る。あいつの積み上げた本物まで、俺の告白が偽物の色に塗り替えてしまう。
だから俺は、本当のことだけを話すことにした。全部ではない、本当のことを。
何を言うべきかは、正直分からなかった。分からないまま、嘘だけは使わないと決めた。嘘の在庫なら倉ひとつぶんあるが、今夜ここで棚卸しする気にはなれなかった。
「ジェスター」
「……ああ」
「運も実力のうち、とは言わない。あれは負けた側の算数だ」
「う、うん」
「その上で言うが、俺はこの一月、お前の隣で全部見てた。岩狼の五頭は運じゃない。読みと足と、十年の素振りだ。主の顡下の一閃も運じゃない。尾の一撃を待って、見切って、踏み込んだ。あれをやれる人間を、俺は他に知らない」
「見てたのか、そんなに」
「荷物持ちは暇なんだ。見るくらいしか仕事がない」
「嘘つけ。縄も張るし、飯も炊くし、薬草も詰めてるだろ」
「じゃあ忙しい合間に見てた。どっちでもいい。事実は変わらん」
「……」
「運が混ざってるのは、事実だろう。世の中に運の混ざらない勝ちはない。だがな、運ってのは、口実に使った奴のところには二度と寄りつかん。お前は運を口実にしてない。怖がってる。それでいい」
「いいのか、怖くて」
「怖くない奴の剣は、いつか人を死なせる。バルサ親方でも、たぶん同じことを言う」
我ながら、偉そうな演説である。演説の原稿料は、罪悪感で支払われていた。相場より高くつく通貨である。
あいつは、しばらく黙って森を見ていた。
夜風が、二人の間を一度通り抜けた。
「……そうか」
声が、少しだけ軽くなっていた。
「そうだな。怖いままで、いいのか」
「いいんだろ。知らないが」
「知らないのか」
「専門外だ」
「専門はなんなんだ」
「雑用だ」
「そうだった」
あいつは噴き出して、それから、月の方を向いたまま言った。
「なあ、ヨウタ。もうひとつだけ、変なことを言っていいか」
「どうぞ」
「俺は、お前がいると――不思議と、勝てる気がするんだ」
口にしてから、あいつは照れたように笑った。
「変だよな。理屈じゃないんだ。ただ、隣にお前の気配があると、腹の底が静かになる」
気配。腹の底。あいつの語彙が、俺の正体の輪郭を、知らないままなぞっていく。なぞられた側は、曖昧に笑うしかない。
鐘の余韻は、もうとっくに消えていた。
街の灯が、ひとつ、またひとつ落ちていく。
勝てる気がする。その正体を、この世界で俺だけが知っている。
知っていて、黙って、俺は「そうか」とだけ言った。
言えたのは、それだけだった。三文字に載せられるだけのものは、載せたつもりだった。届いたかどうかは、あいつの顔がいつもの顔に戻っていたことで、勘弁してもらう。
帰り道、あいつはまた祭りの話をした。
俺は相槌を打った。
途中の角で、明日の集合を決めて、別れた。
一人になった路地で、空を見た。
月が、半分だけ欠けていた。
半分は言えて、半分は言えない。そういう夜だった。




