第六章 英雄祭の夜(一)
花月一日。モトリーの春花祭は、朝の鐘を合図に始まった。
街路には花輪が渡され、広場には屋台が並び、普段は依頼書の貼られる掲示板まで花で飾られている。祭りの朝の空気には、焼きたてのパンと花と揚げ物の匂いが、三層になって漂うものである。
パン屋のマルグリット婆さんは広場の角に出店を構え、籠の中の陛下は花冠を被せられて据わった目をしていた。ちりん、と不服の鈴が鳴る。
「陛下、お似合いだよう」
「治世の危機、という顔をしてますが」
人混みの整理をしているのは、揃いの腕章をつけたゴルドー一味だった。商人組合の警備の口が回ってきたらしい。元盗賤が祭りの警備である。経歴の使い道として、これほど正しい転用もない。
「押さないでくだせえ! 列は二列で! ……あんたか。どうも」
「板についてきたな」
「へっ。人混みってのは、俺らの古巣みてえなもんでさあ」
スリの手口を知り尽くした警備員たちは、この日、スリ被害を開催史上最少に抑えることになる。なお矢の若いのは屋台で買い食いをしながら巡回しており、職務と青春を器用に両立させていた。春花祭というのは本来、種蜿きの無事を祝う農の祭りである。だが今年に限っては、誰もが別の名前で呼んでいた。英雄祭、である。オーガに始まり、隊商護衛、そして森の主。この一月の主演俳優を、街は祭りごと担ぎ上げる気だった。呼び名の改定に、議会の承認は要らないらしい。
昼、広場の舞台で昇格の式があった。
「本日付、ジェスター・クラウン殿をB級に昇格とします。台帳的には、当支部歴代最速です」
司会進行はミエルさんである。祭りの司会まで台帳の管轄らしい。
壇の下には、見知った顔が揃っていた。バルサ親方は樽を椅子にして陣取り、鈴鳴り亭の隠居二人は早くも祝いの一杯を始めている。バラッドの姿だけがない。店を開けているのだろう。祭りの日ほど、酒場というものは忙しい。壇上のジェスターが徽章を受け取ると、広場が割れるような歓声になった。
「白光! 白光!」
「一言どうぞ」
「え、あの……この一月、俺は運が良すぎると思います!」
第一声がそれだった。歓声が笑い声に変わる。
「オーガは自分で転んでくれて、盗賤は出てこなくて、主は食い過ぎでした! だから次は、運じゃなくて実力で、皆さんの役に立ちます!」
嘘のない挨拶に、広場はますます沸いた。俺は人垣の後ろで、運の製造元として拍手だけしておいた。運が良すぎる、という感想は正しい。正しい感想が真実に届かないよう設計するのが、俺の仕事であるだけで。
歓声の中、一人だけ複雑な顔で拍手する男がいた。
「ちくしょう、次は俺様だ。見てろよ白光」
「その意気だ、ドヤール」
「励まされた!? くそ、いい奴め!」
ライバル宣言が励まされて終わる男である。なお左肩の包帯は今日も健在で、婦人たちに「まあ、お怪我を」と囲まれるたび、名誉の負傷の講釈が三割増しで長くなっていた。
式の後、壇を降りたミエルさんが、通りすがりに足を止めた。
「サイキ様。本日、私は非番になりました。台帳もお休みです」
「珍しいな」
「ですので、今日見たものは記録しません。……お祭りですから」
それだけ言って、人混みに消えた。休みの宣言をわざわざしていく観測者である。妙な貸しを作られた気がした。
式のあとは、無礼講だった。
あいつは屋台の並びを、端から順に制圧し始めた。
「ヨウタ、これはうまいぞ。串焼き、岩塩のやつ」
「もう何本目だ」
「十二本。それとこっちの蜂蜜パンと、豆の煮たのと、川魚の揚げたのがまだだ」
「昼だけで祭りの経済を回す気か」
「腹が減っては守れないからな。ヨウタも食え。ほら、あーん――は、しないが、皿は持て」
「今なにを言いかけた」
「婦人たちの間で流行っていると、屋台の親父が」
「流行に乗るな」
食べ方は綺麗なのである。骨は皿の隅に揃えられ、口の周りは汚れひとつない。上品な所作のまま、量だけが騎士団の炊き出し規模だった。屋台の親父たちは「白光の旦那が食った」の札を勝手に掲げ始め、行列が倍になった。宣伝効果まで上品に大食いである。
食いながら、あいつは屋台の親父の一人一人と何かしら言葉を交わした。塩加減を褒め、火加減を訊き、子供の年を訊く。訊かれた側は全員、次の瞬間から白光の身内の顔になる。人望という商品の製造工程を、俺は最前列で見学している気分だった。
「ときに、知ってるか、ヨウタ。北の方じゃ昔、こういう祭りを『愚者の祭り』と呼んだそうだ」
「愚者?」
「無礼講の日は、身分が逆さになる。徒弟が親方に説教して、平民が王様の格好で街を練り歩く。一年に一度、世界をひっくり返して笑う日だ。書庫の民俗誌に載ってた」
「ひっくり返して、どうする」
「戻すのさ。一度ひっくり返しておくと、元の世界の風通しが良くなるらしい」
「ふうん」
「ちなみにその日は、道化が一人だけ『愚者の王』に選ばれる。で、本物の王様は道化の帽子を被るんだそうだ」
「王様も大変だな」
「それが、嫌がった王様の話は残ってないらしい。案外、王様の方が楽しみにしてたのかもな」
書庫籠もりの成果は魔物図鑑だけではなかったようである。世界をひっくり返して笑う日。それなら今日、この街で一番逆さまなのは俺だろう。最強が荷物持ちの格好で、英雄の後ろを歩いている。
――と、いい気分で歩いていた俺の袖が、くいと引かれた。
見下ろすと、五つくらいの女の子が、涙目で俺を見上げていた。見覚えがある。着任の日、広場で飴を落とした、あの子である。
「銅貨のお兄ちゃん、どこ?」
「銅貨の……ああ、あいつか」
俺は雑踏の音を三秒だけ選り分けた。半町ほど先、搬入口の裏で「迷子はどこだ!」と叫んでいる声がある。あの声の主の娘だろう、この子は。よし。
「おーいジェスター。客だ」
十三本目に伸びかけていた手が、止まった。あいつは女の子の前にしゃがみ込むと、心得た顔で懐から銅貨を取り出した。
「やあ、また会ったな。はぐれたのか」
「……うん」
「よし。じゃあ見ててくれ」
銅貨が指の上で躍り、消えて、今度は女の子自身の耳の後ろから出てきた。
「今日はきみが宿屋だったか。宿賃だ、取っておきなさい」
女の子が、ふ、と噴き出した。泣き顔の途中で笑うと、子供の顔は忙しい。
「父上と母上はどこではぐれた?」
「んっと、りんご飴のとこ」
「なら大通りだな。ヨウタ、りんご飴の屋台は」
「確か、搬入口の裏の方にもう一軒あったな。そっちじゃないか」
「よし、行こう。肩車だ!」
肩車の高さから女の子が手を振り、搬入口の裏で親子は無事に再会した。父親は平謝りに謝り、ジェスターは「祭りの日は、はぐれるのが仕事みたいなものですから」と笑い、女の子は最後まで銅貨を握りしめていた。
タネも仕掛けも知っている手品を、俺は今日も横から眺めていた。十年前と違うのは、観客が俺ではなくなったことくらいである。それでいい。あのトリックは、泣いている誰かのためのものだ。俺はもう、あんまり泣かない。
あんまり、というのは、まったく、ではない。ではないが、その差分の話は今日はやめておく。祭りの日である。
「いやあ、いい祭りだな!」
戻り道、ジェスターは十三本目の串を改めて手に取った。
「お前、さっきの、よく屋台の場所が分かったな」
「雑用屋だからな。街の地図は頭に入ってる」
「頼りになるなあ、相棒は」
相棒、という言葉を、あいつは最近ためらいなく使う。使われるたび、俺の中の帳簿が小さく軋む。相棒の定義に「隠し事の総量」という欄があったら、俺は失格の側である。
夕方が近づいて、屋台の灯が一つずつ点り始めた。祭りの締めは、日暮れの鐘楼の鐘と決まっている。鐘が鳴ったら踊りの輪が解け、街は夜の宴に移っていく。
鐘楼はモトリーで一番高い建物で、鐘には「春告げ」という名がある。名のある鐘は、いい音で鳴る。そういうことに、この街ではなっている。
その鐘を待つ人混みの中で、ふいに、ジェスターの声が半段低くなった。
「ヨウタ。夜、少しいいか」
「……どうした、改まって」
「たいした話じゃない。いや……たいした話かもしれない。鐘が鳴ったら、城壁の方に来てくれ」
あいつは、笑ってはいた。笑ってはいたが、目だけが笑い切れていなかった。
祭りの太鼓が、遠くでひとつ、拍子を外した気がした。




