第五章 カルタ大森林の主(三)
その夜の鈴鳴り亭は、開店以来の入りだったと思う。
主討伐の報は昼のうちに街を一周し、夕方には尾ひれがつき、夜には背びれと胸びれまで生えていた。店の中央ではドヤールが新演目「白光、竜の軒に立つ」を披露しており、当の白光は隅の席で、一杯目の麦酒を半分残したまま茹で上がっている。
なおドヤールの左肩には包帯が巻かれ、本人はこれを「名誉の負傷」と呼んで講談の小道具に活用していた。庇われた当のリリは、講談が盛り上がるたび、眠そうな目で「順番が違うっす」と訂正を入れている。
入口近くの卓には、見慣れない顔が三つあった。倉庫番の制服を着たゴルドーと、元経理係と、あの矢の若いのである。
「あんた……いや、なんでもねえ」
ゴルドーは俺と目が合うと、続きを麦酒で飲み込んだ。
「頭、聞いてくださいよ。俺、明日から夜勤なんですよ。夜勤手当ってのが出るんですよ」
「泣くな。頼むから勤務先の街で泣くな」
夜霧の帯改め、倉庫番の帯である。台帳的には、山の景気の続きということになっている。
「それでよ、検分組合の連中が言うにはだ」
講談の合間に、ドヤールが仕入れたばかりの情報を披露した。
「主の腹から、猪が三頭ぶんも出てきたんだとよ。食い過ぎだ食い過ぎ。道理で動きが鈍かったわけだぜ」
「……食い過ぎ」
ジェスターが顔を上げた。
「そうか、食い過ぎか。飛ばなかったのは、それでか」
「当たりめえよ。腹一杯で空を飛べる奴がいるかっての。俺様は飯のあと走るだけで脇腹が痛え」
「そうか……なんだ、そうか!」
あいつは膝を打って、心の底から安堵した顔で笑った。俺は麦酒を一口飲んで、猪の仕入れ元として、静かに胸を撫で下ろした。世界の帳尻というものは、たまにこうして向こうから合いに来てくれる。検分組合には足を向けて寝られない。
「しかしよお白光、猪三頭食った直後の主とやり合ったってことは、あれか、腹が空いてたら実質もっと強えってことか」
「どうだろうな。俺は、目の前にいた相手と戦っただけだ」
「……くっ。その台詞、俺様が言いたかったぜ」
卓の方では、例によって学問が白熱していた。
「だからよ、ワイバーンってのは百年生きると竜になるんだ」
「逆だ逆。竜が年を取って、翼だけ残ったのがワイバーンよ」
「どっちも違うね。ありゃでかい蠜蚟の成れの果てさ」
石工の隠居と船頭の隠居とドヤールで、誤答が三つ揃った。見かねたジェスターが身を乗り出す。
「皆さん、それは全部俗説です。ワイバーンと竜は最初から別の種で、脚の数が違います。二本ならワイバーン、四本なら竜。紋章学でも厳密に――」
「若えの、それも半分だけ正解さね」
カウンターからバラッドが口を挟んだ。
「紋章の世界じゃ、脚が何本だろうと『描いた家がそう呼べば』そうなるのさ。北の伯爵家の紋章にゃ、四本脚のワイバーンがいる。絵師が数え間違えて、家の方が『うちのはこれでいい』と言い張ったんでね」
「そんな決まり方が!?」
「紋章ってのは学問じゃなく、家の見栄だからねえ」
「見栄で脚が増えるんですか!?」
「見栄ってのはね、だいたい脚から増えるもんさね」
名言なのか駄弁なのか判定のつかない一言で、場が沸いた。学問の敗北であった。
訂正の上にさらに訂正が乗って、真実は今夜も一杯の彼方へ持ち越された。正しさというものは、酒場では二番目までしか偉くなれない。一番偉いのは面白さである。
「ときにバラッドさん、前から聞こうと思ってたんですが」
ジェスターが店の看板の方を指した。
「この店、なんで鈴鳴り亭って言うんです? 扉の鈴ですか」
「おや、いい質問さね」
バラッドは杯を磨く手を止め、天井から吊るされた七つの鈴を見上げた。
「あれはね、俺が自分で吊るした。音程はばらばらさ。揃える気もない」
「揃ってないのがうちの調律、でしたっけ」
「よく覚えてるじゃないか」
店の喧噪が、なぜか少しだけ薄くなった気がした。
「昔の宮廷道化はね、帽子に鈴をつけてた。まだら服に、三叉の帽子に、鈴。なんでだと思うね」
「居場所を知らせるため?」
「猫の首輪じゃないんだ。……逆さね。あの鈴は『ここに嘘がないよ』って合図なんだよ。鈴が鳴ってる間、道化の口は真実を言っていい。王様を笑っていい。そういう約束の音なのさ。だからね、坊主。鈴の鳴る店では、誰でも本当のことを言っていいんだ」
「いい話だな……! ヨウタ、聞いたか」
「聞いた」
聞いて、俺は自分の杯に視線を落とした。鈴の鳴る店では、本当のことを言っていい。この二年、俺はこの店の扉を何百回もくぐった。くぐるたびに七つの鈴を鳴らして、そのくせ、本当のことは一度も言っていない。
言う気がないのだから、鈴に責任はない。ないのだが、音程の狂った七つの鈴が、今夜に限って、どれもこちらの胸の内を知っている顔でぶら下がって見えた。酔いのせいということにしておく。
「あたくしの知る限り、その約束を破った王様は――おっと」
バラッドは咳払いをひとつして、杯磨きに戻った。
「――と、いう昔話さね。チップは酒で」
言い直された一人称のことは、今夜も詮索しないでおいた。詮索しない代わりに、覚えてはおいた。
それからバラッドは、ジェスターの腰の短剣に目を留めて、目を細めた。
「いい鈴だ。古い作りさね」
「家に伝わるものだそうです。物心ついた時から持ってました」
「……そうかい。大事にしな」
それだけ言って、親父は厨房へ引っ込んだ。引っ込む背中が、いつもより少し丸く見えたのは、気のせいかもしれない。気のせいでない場合のことは、今夜は考えないでおいた。
長屋に帰り着いたのは、日付の変わる頃だった。
珍しく、湯を使わずに寝台へ転がった。徹夜続きの体に祝いの麦酒が回って、まぶたが落ちるのは早かった。
枕に頭が沈む。
遠くで、祝いの残りの笛が鳴っていた。
誰かの笑い声が、路地を通り過ぎていく。
いい夜だった。いい夜のまま、眠った。
夢を見た。
古い夢だ。天井の木目が見える。フェルマータ村の、うちの天井だ。
体が熱い。息が浅い。額の布が、何度も替えられる。
婆ちゃんの声が、遠くで祈っている。
窓の外は吹雪で、部屋の隅の蚋燭が、細く揺れている。
枕元に、小さな影がある。
ジェスターだ。八つの、泣き虫を卒業したばかりのジェスターが、泣きながら、何かを唱えている。
歌のようで、呪文のようで、どちらでもないもの。
俺の手を、両手で握って。
同じ節を、何度も、何度も。
唱え終わるたび、あいつは俺の顔を覚き込む。
まだ息をしているか、確かめるみたいに。
それからまた、同じ節を始める。
そして、どこかで、鈴の音がした気がする。
ちりん、と。一度だけ。
胸の奥が、あの夜、確かに温かかった。
目が覚めた。
窓の外は、まだ暗い。夜明けには少し早い。
夢の中身は、起きた瞬間から砂のように崩れていった。残ったのは、熱と、手の感触と、鈴の音の記憶だけだ。
あの熱の夜のことは、婆ちゃんからもジェスターからも、後になって何度か聞かされた。三日三晩、熱が引かなかったこと。医者が匙を投げたこと。四日目の朝、嘘のように熱が下がっていたこと。
それからだ、と思う。
体が丈夫になったのは。走れば村の誰より速く、転んでも傷ひとつつかなくなったのは。
手のひらを、天井にかざしてみる。
傷ひとつない手だ。
的を消した手で、猫を探し、パンを受け取り、あいつの背中を守ってきた手である。
……あれ。
俺は寝台の上で、天井の見慣れた染みを眺めた。
俺は、いつから強かったんだっけ。
鍛えたから強くなったのだと、ずっとそう思ってきた。だが、鍛え始める前から、俺の体はもう。
熱の前の俺は、村で一番足の遅い子供だった。
熱の後の俺は、村で一番速かった。
間にあるのは、三日三晩の熱と、あの夢だけだ。
どちらの俺も俺であることに、変わりはない。ないはずなのに、今夜はその継ぎ目が、妙に気になった。
考えは、そこで糸が切れた。夜明け前の眠気というものは、都合の悪い問いを持ち越しにする名人である。
窓の外で、早起きの鳥が一羽だけ鳴き始めていた。
明日は――いや、もう今日か。今日から街は、春花祭の支度で浮かれ始める。浮かれる街の底で、答えの出ない問いだけが、静かに沈んでいった。




