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第五章 カルタ大森林の主(二)

 岩場に着いた時、そこには既に開戦の景色があった。

 決戦予定地のど真ん中で、翼を半開きにした黒い山塊がうずくまり、その正面で、探知棒を構えたドヤールが仁王立ちしている。ガスは斧を構えたまま固まり、リリだけが正しく岩陰にいた。

「ドヤール! なぜ先に入った!」

「よお、白光。悪いな、一番槍はもらった――いや、もらう予定だった」

「ド、ドヤールさん、あれ、あれ」

「リリ! 状況を報告しろ!」

「起こしちゃったっす」

「見れば分かる!」

「ち、違うぞ白光! 俺様はただ、寝てる隙に一突きすりゃ楽勝かと思って」

「寝込みを襲うのは冒険者の恥だぞ!」

「うっ、正論で殴りつけるな!」

 予定は未遂に終わっていた。彼我の距離、二十歩。主はまだ攻撃していない。満腹の惰眠を邪魔された王が、寝起きの不機嫌で招かれざる客を検分している段階である。

 ちなみにドヤールの装備を紹介したい。頭には岩片除けの分厚い兜。腰には落とし穴探知棒。背中には転倒時用の背当て。オーガの一件から実に多くを学んだ装備であり、学んだ方向が全部ずれていた。今日の相手は穴を掘らないし、岩片も飛ばさない。飛ぶのは本体である。

「下がれ、ドヤール。ゆっくりだ。目を離すな」

「は、はあ? 俺様はまだ何も」

「気を立たせたのはお前だ。責任を持って、ゆっくり下がれ」

 ジェスターの声は静かだったが、有無を言わせない密度があった。ドヤールが半歩下がる。

 その半歩を、主は「逃走」と裁定した。

 吼哮。

 大気が震え、木々の梢から鳥の代わりに枯れ葉が散った。黒曜の鱗が朝日を弾き、長い首がもたげられる。

 開戦である。段取り表の外の、開戦である。

 幕が上がってしまえば、演目の中止はできない。できるのは、進行表を書き直しながら走ることだけだ。舞台監督の受難というものは、どの世界でも変わらない。

 最初の突進をジェスターが正面で受けた。盾ではなく、受け流しの半歩でだ。丸太のような首の一薙ぎが空を切り、あいつはその内側に潜り込んで、すれ違いざまに一太刀入れる。黒曜の鱗が火花を散らして刃を弾いた。

「硬いな!」

「言った通りだろ!」

「言った通りだ! 継ぎ目を狙う!」

「ヨウタ! 荷物は無事か!」

「無事だ! 前を見ろ!」

「よし!」

「今のが騎士学校式の間合い管理か、ガスさん」

「実況やってる場合か! 下がれ!」

「ドヤールさんも下がるっすよ」

「わ、分かってる!」

 観戦席は今日も通常営業だった。恐怖と野次は、両立するものらしい。

 戦術通り、あいつは主を「走らせない」波状の出入りを始めた。俺はといえば、荷物と一緒に岩陰の定位置である。

 ここからの数分間、この岩場では二つの戦いが同時に進行することになる。表の戦いは、白光のジェスター対カルタ大森林の主。裏の戦いは、俺対「段取りの崩壊」である。観客に見える戦いが一つで済んでいるのは、裏の戦いの担当者が、今日のところ無敗だからだ。

 定位置で、内職を始めた。

 一つ目の内職。主が翼を広げかけた瞬間、俺は小石を一つ、翼の付け根の継ぎ目へ飛ばした。蜂に刺された程度の痛痒。だが竜の飛翔というのは繊細な儀式で、離陸の拍子を狂わされた翼は、苛立たしげに畳み直される。飛ばれたら、あいつの剣は届かない。空だけは、渡さない。地上で戦う限り、これはあいつが勝てる勝負である。勝てる勝負に整えるまでが俺の仕事で、勝つのはあいつの仕事だった。

 二つ目の内職。尾の一撃がドヤールを捕らえかけた。正確には、庇ってリリを突き飛ばしたドヤールの背中を、である。俺は転がる軌道に岩陰から指一本ぶんの修正を加え、彼を茂みの柔らかいところへ着地させた。世界の記録の上では、運のいい転がり方をしたことになる。あの男の運の良さは、半分くらい俺の手作りだ。

「ドヤールさん!」

「……へっ、見たかリリ。受け身の練習の成果だぜ」

 練習していたのか。少し感心した。

 三つ目の内職。ガスの放った投げ斧が鱗に弾かれ、あらぬ方向へ跳んだ。跳んだ先にリリがいた。俺は落ちていた枝を一本、誰にも見えない速度で投げ、空中で斧の柄を叩いて軌道を三寸ずらした。斧は岩に刺さり、リリは眠そうな目のまま、刺さった斧と俺の岩陰を一度ずつ見た。またその順番である。

 四つ目の内職。尾が砕いた岩の破片、握り拳大が三つ、放物線の先にガスの頭。兜を被っていない方の頭である。小枝三本で全部叩き落とした。本日の内職、ここまでの累計八件。内職の方が本業より忙しい職場というものを、俺は他に知らない。

 五つ目の内職。主の目がリリの岩陰に据わりかけたので、反対側の茂みに松ぼっくりを一つ落として気を逸らした。竜の注意力は、王のくせに存外安い。

 戦況は、膠着に見えて、少しずつあいつの側へ傾いていた。

 主は苛立っている。飛べば終わる相手に飛べず、押せば潰せる小さな敵が、押すたびに半歩だけ外にいる。満腹の巨体は動くほど重く、動くほど、地上の剣士の間合いに馴染んでいく。

 言っておくが、満腹にしたのは俺でも、満腹の主と正面で切り結ぶ胆力は俺の管轄外である。腹ごしらえをさせた料理人は、皿の上の勝負には手を出せない。出さない。それが接待の一線というものだった。

「「引きつける!」」

 ジェスターとドヤールの声が、完全に重なった。

「「……お前がか!?」」

 それも綺麗に揃う。息の合った他人同士である。結局ドヤールが正面で騒ぎ、主の目を引いた。役に立つ騒がしさというものが世の中にはある。あの男の騒がしさは恐怖の裏返しではなく、恐怖と同居したままの騒がしさだ。あれはあれで、一種の胆力だと最近は思う。

 そして、機は熟した。

 風が一度、岩場を渡った。誰かの汗が顡を伝って落ちる音まで聞こえそうな静けさの中で、主が長い息を吐いた。

 主が痺れを切らし、全体重を乗せた尾の薙ぎ払いを放つ。馬車を半分にする一撃。ジェスターは、それを待っていた。

 半身。盾の面が、尾の腹を滑らせる。衝撃の芯を外し、流し、尾が岩を砕いた反動のわずかな静止――そこに、あいつは踏み込んだ。

 顡の下。鱗の継ぎ目。

 白い閃光が、朝の岩場を一直線に裂いた。

 一拍遅れて、斬られた鱗の欠片が、からん、と乾いた音で岩を打った。

 声はなかった。主は長い首をゆっくりと横たえ、地響きをひとつ立てて、それきり動かない。討伐というより、王の退位に近い静けさだった。

 誰も、すぐには声を出せずにいる。

 最初に膝から崩れたのはドヤールで、次に歓声を上げたのもドヤールだった。

「やりやがった! 本当にやりやがった! B級の主を、真っ向からだぞ!」

「見事っす」

「……ああ。文句なしだ」

 ガスとリリも得物を下ろす。俺は岩陰から出て、いつも通り、遅れて駆け寄る係を務めた。

「白光! あんた……いや、あなた様! 俺様を弟子にしろ!」

「弟子はとらない。それより肩を見せろ、ドヤール。さっきの受け身、左を庇ってただろう」

「……見てたのかよ」

「パーティは違っても、現場は同じだ」

 言いながら手当ての支度を始める横顔に、ドヤールが毒気を抜かれた顔をする。リリが小声で「これは沼っす」と言った。何の沼かは、聞かないでおいた。

 討伐の証明に尾の先を、と言いかけたガスには、ジェスターが首を振った。

「素材は組合の検分に任せよう。余計な傷をつけたくない」

 主の亡骸への、あいつなりの礼だった。

 言っておくが、最後の一連に、俺は指一本触れていない。翼を封じたのは俺だが、地上での立ち回りも、尾を見切った半身も、顡下の一閃も、全部あいつのものだ。十年の素振りが、目の前で満期を迎えた。それだけの話である。

 それだけの話に、俺の胸は思ったより騒いだ。裏方というものは、舞台の成功には慣れている。慣れているはずなのに、幕の内側で拳をひとつ、誰にも見えないように握った。

 ジェスターは、剣を下げたまま、倒れた主を長いこと見ていた。

「ジェスター?」

「……ヨウタ」

 振り向いた顔は、勝者のそれではなかった。

「勝った。勝ったんだが……なんだろうな。こいつ、一度も飛ばなかった」

「満腹だったんだろ」

「翼を広げかけて、やめた。三回もだ。飛べば勝てたのに、まるで――」

 あいつは自分の掌を見下ろした。

「……俺の力じゃない気がする」

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