第五章 カルタ大森林の主(一)
指名依頼の受諾から数日、ジェスターは書庫に籠もっていた。
籠もって出てきた男の腕には、付箋だらけの魔物図鑑と、びっしり書き込まれた帳面がある。夕方の鈴鳴り亭で、あいつはそれを卓に広げた。
「ヨウタ、まず基本からだ。ワイバーンとドラゴンの区別はつくか」
「羽の生えた迷惑、でまとめて呼んでる」
「駄目だ。ここは大事だぞ」
あいつは図鑑の絵を指した。
「脚が二本で、翼が前肢を兼ねるのがワイバーン。四本脚に翼が別づけなのがドラゴンだ。紋章学でも厳密に描き分ける。翼の膜で飛ぶ以上、ワイバーンの本体は実は脚と尾だ。翼を狙うのは素人で、本命は着地際の尾の一撃。これで馬車が半分になる」
「詳しいな」
「三日籠もったからな! それでだ、対空戦の要点は三つ。降ろす、走らせない、尾を殺す」
「ちなみに弱点はどこだと思う」
「顡の下」
「……なんで即答できるんだ。俺は三日かかったのに」
「勘だ」
「いい勘だ! そう、鱗の継ぎ目が顡下と翼の付け根に走ってる。ただ、今回の主は変異種で、目撃談じゃ鱗が黒い。黒曜化してたら矢も刃も浅くしか入らない。だから接近戦になる。俺向きだな!」
「危険度も一段上がってるんだが」
「だから俺が行くんだ。危険はうちの管轄と決まってる」
規約第二条は、こういう時に限って雄弁である。
座学の主席が三日で組んだ戦術は、専門家の講義として通用する水準だった。本人が真剣であるほど俺の胸中は複雑になる。なぜなら、あいつの相手をする「主」の体調管理を、今まさに裏で調整しているのが俺だからである。
受諾の翌日には、ミエルさんが目撃情報を整理してくれていた。
「体長、通常個体のおよそ一・三倍。鱗の一部が黒色。直近の被害、伐採小屋二棟と荷馬車一台。人的被害は、逃げ遅れた騾馬が一頭」
「騾馬は人的被害なのか」
「組合的には財産被害です。ですが騾馬のロバートには家族がいました」
「騾馬に家族が」
「厩舎の皆です」
真顔で言うので、笑っていいのか分からなかった。彼女なりの追悼だったのかもしれない。
「決行はいつになさいますか」
「三十日の朝に」とジェスター。「準備に、あと三日ください」
「承りました。ご武運を。……サイキ様も」
俺に武運が要ると思われているのか、それとも別の何かを見透かされているのか。判定は保留にして、俺は俺の準備に入った。
偵察の結果から言おう。
音の空白の正体は、やはり主だった。ワイバーンの変異種。通常より一回り大きく、鱗の一部が黒曜石のように硬化している。縄張りの拡張期で気が立っており、森の生き物が半径二里で沈黙するのはそのせいだ。等級で言えばB級の上、当たりどころが悪ければA級に届く。
主は岩山の中腹、伐採組合が「竜の軒」と呼ぶ張り出しに巣を構えていた。夜目にも分かる威容である。畳んだ翼が岩肌と同じ色に沈み、呼吸のたびに周囲の空気がかすかに暖まる。半径二里の沈黙は、恐怖というより礼儀に近いのだろう。生き物というものは皆、王の寝所では足音を忍ばせるのだ。
変異の原因は分からない。餌の偏りか、年齢か、あるいはもっと別の何かか。バラッドの言う「主になるだけの理由」の中身を俺は少し考え、考えても答えの出ない項目として、頭の抽斗の奥に仕舞っておいた。
正面から挑ませていい相手ではない。かといって、俺が夜のうちに済ませていい相手でもない。指名状の宛名は白光であって、裏方ではないのだ。
なら、やることは決まっている。接待の基本は、会食である。
二十九日の夜、俺は森の南西へ「差し入れ」を運んだ。
大猪、三頭ぶん。俺の日課の間引きで出た、正規の在庫である。主の巣の風上に置いておけば、あの食欲なら夜のうちに平らげる。そして満腹のワイバーンは、飛ばない。飛べないのではなく、飛ぶ気が失せる。翼というのは燃費の悪い贅沢品で、腹が満ちた竜は歩くのだ。
差し入れの置き方にも、作法がある。狩りの獲物に見えるように、一頭は沢の岩に引っかけ、二頭は倒木の陰に伏せる。竜という生き物は、施しを受けない。だが「自分で見つけた獲物」なら、誇りを傷つけずに食ってくれる。接待の要論は、相手に接待と気づかせないことである。どこかの誰かの人生と、まったく同じだ。
地上に降りた主なら、あいつの剣が届く。届けば、あとはあいつの実力の領分である。
俺の仕事は空を消すことまで。地上戦の勝敗には、指一本触れない。それが規則二号の運用細則だった。
――と、まとめると三行の仕事に聞こえるが、実際の夜間業務一覧はこうである。
一、主の巣の偵察と体調確認。二、差し入れ三頭の運搬(片道二里)。三、決戦予定地の整地。転がしておくと危ない岩を三つ、危なくない位置へ移す。四、周辺に居着いた飛竜の若体二頭に退去勧告。五、日課の間引き、通常営業。六、夜霧の帯の元経理係から「倉庫番の帳簿を見てほしい」との相談一件。七、帰宅、装備の手入れ、仮眠。
仮眠、と書いて虚しくなった。労働量を換算すると、煮込みでおよそ九杯ぶん。徹夜に直して二晩ぶん。誰にも請求できない請求書の束が、今夜も俺の頭の中で音を立てて積み上がっていく。
なお本日の業務一覧のうち、発注者が存在する項目は一つもない。全部ない。数え直しても、ない。俺の労働の九割は、発注書のない受注生産である。景気の良し悪し以前に、産業として成立していない。
特に六番である。
「すいません、ヨウタさん。どうしても借方と貸方が合わなくて」
「どれ。……ここだ。矢の在庫を経費で落とした癖が抜けてない。倉庫番に矢はいらない」
「あっ! そうか、もう俺、矢、買わなくていいんだ……」
元盗賤の経理係は、しみじみと泣いた。転職の実感は、帳簿の科目から来るらしい。
「ついでに言っとくが、貸方に『義理』って科目を作るな」
「駄目ですか。頭に飯を奢られたぶんなんですが」
「気持ちは分かるが、帳簿は気持ちで書くな」
書くなと言いながら、俺の頭の中の帳簿には気持ちしか書かれていない。人に厳しく自分に甘いのが、指導というものである。ちなみに俺の名前を正しく覚えているのは、現状この元盗賤だけである。ゴルドー一味、恐るべき記憶力の集団だった。
三十日の朝は、雲ひとつない討伐日和になった。
東門には見送りが集まっていた。マルグリット婆さんは籠から丸パンを二つ押しつけてきたし、門番の爷さんは「主の討伐たあ、雑用屋も出世したもんだ」と欠伸まじりに手を振った。陛下は婆さんの籠の中から、鈴を一度だけ鳴らして寄越した。激励と受け取っておく。見送りの人数は、俺の在住二年の合計より多い。あいつが来てから、まだ二十日足らずでこれである。
その東門の前で、ジェスターは仕上げの装備点検をしていた。規約第六条に基づき、俺の背負い籠まで点検される。
「縄よし、油よし、鍋……なんで鍋なんだ、今日も」
「昼飯は炊く」
「ワイバーン討伐の日にか」
「討伐の日でも腹は減る」
「……よし、鍋よし!」
通った。この規約の運用は、起草者の性格に似てだいぶ甘い。
「道すがら、最後の確認だ。開幕は俺が正面。ヨウタは荷物と一緒に岩陰だ」
「岩陰な」
「返事が軽いぞ。約束だからな」
「善処する」
「……その善処、今まで一度も善処された覚えがないんだが」
気づき始めたか。十年来の付き合いは伊達ではない。
と、そこへ、ギルドの使いの少年が息を切らして走ってきた。
「た、大変です! 白光様!」
「どうした」
「ドヤールさんたちが……『紅蓮のドヤール、一番槍をいただく』って書き置きして、夜明け前に南西区画へ!」
朝の空気が、一拍で凍った。
先行入山。功名心。よりによって、満腹の主が地上でくつろいでいる、あの決戦予定地へ。
「――走るぞ、ヨウタ!」
「ああ」
短い返事に、俺のぶんの焦りも全部載せた。
俺の完璧な段取り表が、朝日の中で音を立てて崩れていく。段取りというものは、段取りを知らない人間に対して無力である。知っていたはずなのに、俺はドヤール・マウンティという男の計算を、帳簿に入れ忘れていた。
走りながら、頭の中で予定表を引き直す。主の満腹は計算通り。なら今、地上にいる。地上でくつろぐ主と、功名心の三人組が、同じ岩場に――考えるほど足が速くなる。速くなりすぎないよう、俺はジェスターの半歩後ろを守った。半歩後ろは、荷物持ちの定位置である。




