第四章 白光のジェスター(三)
翌日のギルドは、白光の噂で軽く発酵していた。
待合の隅では早くも「白光にどこまで肖れるか」の座談会が開かれている。肖る、という動詞がこの街でこれほど活用されるのは、在住二年で初めて見る光景である。
なお掲示板の右下には、例の尋ね人が貼られたままだ。「落とし穴の設置者、名乗り出られたし。報酬供託中」。毎朝この前を素通りするたび、俺は自分の几帳面さと自分の財布に、同時に謝っている。
護衛任務の完了報告は、本来なら書式一枚で終わる事務である。終わるはずだったのだが、精算窓口のミエルさんは、書式を受け取ったまま手を止めた。
「確認します。峠で、盗賊には」
「遭ってない」
「不思議ですね。夜霧の帯の出没は十日周期でした。前回の襲撃から、昨日でちょうど十一日目です」
「休暇だったんじゃないのか」
「盗賊に休暇があると?」
「盗賊にも生活があるだろ」
「サイキ様は、盗賊の生活にお詳しいんですか」
「一般論だ」
「一般論、ですか」
彼女は羽根ペンの尻で、こつ、と台帳を突いた。
「では一般論をもう一つ。今朝、商人組合の倉庫番の求人に、応募が九件入りました。開設以来、応募のなかった枠です」
「景気がいいな」
「九人全員、経歴欄が『山暮らし』でした」
「山は人を育てるからな」
「伐採路の整備にも六件。街道の鈴の点検人夫にも五件。全員、山暮らしです」
「山の景気がいいんだろう」
「……そうですね。山の景気の話として、記録しておきます」
記録される山の景気であった。二十三人の再就職が軌道に乗ったのは喜ばしいが、喜ばしさの分だけ、この受付嬢の台帳に妙な線が増えていく。彼女の疑いは、証拠の形をまだしていない。していないが、点と点の間隔が、会うたびに狭くなっている気がする。
観測者というものの厄介さは、観測をやめてくれないところにある。彼女は俺を疑っているのではない。世界の帳尻を疑っているのだ。帳尻の合わない世界を、あの職業倫理は放置できない。そして俺という男は、要するに、歩く帳尻の不一致なのである。
「ときにサイキ様。南西区画の地図の件で、測量部から照会が来ています」
「なんでだ」
「先日サイキ様が雑用の報告書に『大水場は涸れている』と書かれたので。地図では現役の水場です」
「地図は全部を言わないんでな」
「いえ、測量部は三年前に更新したばかりだと」
「なら三年で涸れたんだ」
「涸れた時期を、なぜご存じなんです?」
「苔の育ち方で分かる。水際の苔は三年でああいう縞になる」
「……お詳しいですね」
「役に立ったことのない知識だ」
「今、立ちかけています」
「立たせないでくれ」
「最後にもう一つ。峠の手前の岩場で、焚き火の跡が三つ見つかっています。二十人規模の野営の跡です」
「キノコ狩りだろ」
「夜に、ですか」
「夜キノコだ」
「夜キノコ」
「月夜茸というのがあるだろ。夜に光る」
「月夜茸は毒です」
「だから狩るんだ。間違えて食わないように、先に採っておく」
「……間引きの発想ですね」
どきりとする語彙を使う人である。
「本日の質疑は以上です。回答の信憑性は、いつも通り『諸説あり』で綴じておきます」
立たせるつもりで言ったのではない。俺の口は、たまにこういう小銭を勝手に落とす。詳しさというものは隠すのが難しい。強さは出さなければ見えないが、詳しさは黙っていても会話の隙間から漏れるのである。
夕方の鈴鳴り亭は、満員だった。
白光の旦那の祝勝だと言って、常連たちが勝手に祝宴を組み上げていた。主賓のジェスターは一杯目の麦酒で既に真っ赤で、二杯目は俺の前に静かに移動してきている。規約第一条、報酬は等分。酒も等分である。
「よお英雄様! 次は竜でも斬るのかい!」
「竜は斬りません! 岩狼です! しかも峰打ちです!」
「謙遜だねえ!」
「事実です!」
事実を叫ぶほど伝説が育つ仕組みについては、もう説明を諦めた。あいつは今、自分の伝説と綱引きをして負け続けている。
店の中央では、ドヤールが講談の続きを打っていた。
「――そこで白光は言ったのさ。『下がっていろ、ここは俺の舞台だ』とな!」
「言ってません!」
「細けえことはいいんだよ!」
講談師と本人が同席する講談会である。訂正が入るたび、客は「本人公認の照れ隠し」と受け取って盛り上がった。伝説の製造工程に、本人の関与は必要ないらしい。
なお演目は現在三本立てで、オーガの段、岩狼の段、そして完全創作の第三部「白光、夜霧を斬る」である。斬っていない。夜霧の帯は今ごろ倉庫番の面接中だ。事実がこの調子で置き去りにされていくなら、いずれ俺の伝記も誰かが勝手に書き始めかねない。書かれないことに俺の職業人生が懸かっているのだが。
「くそっ、それに比べて、俺様の『紅蓮』はいつになったら流通するんだ」
「発行元の信用からだな」
「どういう意味だ!」
卓の隅では、例によってアルカナ札が始まった。
「そういや兄さん、こないだの北方ルールの話な。行商人に聞いたら本当だとよ。北じゃ愚者は切り札扱いだ」
「わしの学説の勝ちだな、船頭」
「次の一杯で手を打つよ、石屋」
学問の決着は、今日も一杯である。
「で、兄さん、今日もどうだい」
「悪いが今日は白光の運がついてる」
ジェスターの隣で札を引いた。
愚者だった。
「ぶれないねえ、兄さん」
二回目である。正確には、記録を取り始めてから二回目で、体感では二十回目くらいだ。この店の札束は、俺の指を覚えているとしか思えない。
「どれ……ほう」
ジェスターが俺の手元を覗き込んだ。
「いい札じゃないか」
「最弱札だぞ、これは」
「そうなのか? でも、ほら。旅人がいい顔で笑ってる」
あいつは札の絵を、本気で気に入ったらしかった。ただ、あいつが札の犬を褒めたこの夜のことを、俺は後々まで妙に長く覚えていることになる。理由はその時は分からなかった。分からないことは、だいたい後から分かる。そして後から分かることの八割は、もう少し早く分かってほしいものである。
「それにこの犬。いい顔してるな」
「……犬か?」
「ああ。旅人より真剣な顔をしてる。こういう犬は、いい犬だ」
断言だった。犬の何が分かるのかと言いかけて、やめた。あいつが良いと言ったものは、あいつの中で永久に良いのである。俺は自分の手札の犬を、もう一度だけ見た。崖の縁を睨んでいる、写実的な犬である。いい顔かどうかは、俺には判定しかねた。
勝負は俺の三連敗で終わり、俺は今夜も三杯ぶんの勘定を積んだ。愚者に好かれて得をした夜は、まだ一度もない。
店じまいが近づいた頃、扉の鈴が不揃いに鳴って、ギルドの使いの少年が駆け込んできた。
「白光のジェスター様は……いた! お届け物です! 至急便!」
差し出されたのは、封蝋つきの指名状だった。ジェスターが開き、読み、眉を寄せる。俺は横から覗き込んだ。
――指名依頼。カルタ大森林南西区画において、大型飛竜種の目撃情報複数。商隊および伐採組合の操業に支障。討伐ないし追払いを依頼する。推奨等級B。指名、「白光」のジェスター殿。
「B級依頼の、指名。俺にか?」
「昇級したばかりのC級にB級案件。異例だな」
「受けるべきだと思うか」
思うも何も、受けなければ別の誰かが行く。別の誰かが行けば、たぶん帰ってこない。そしてこの指名状の背景に、俺は心当たりがあった。南西区画。鳥の声の消えた、あの音の空白である。
嫌な予感の答え合わせが、封蝋つきで届いた形だった。
「……なあ、ヨウタ。飛竜種って、ワイバーンだよな」
「だろうな」
「図鑑によると、翼開長が馬車二台ぶんある」
「あるだろうな」
「よし。受けよう」
「決断の過程を全部飛ばしたな」
「ちなみに知ってるか。指名依頼は断ると指名料が依頼主に戻って、以後の指名が来にくくなる。受ければ報酬に指名料が上乗せされる」
「制度の話じゃない。あの森の向こうで困ってる人がいる。俺に来た依頼だ。それが全部だ」
「……そうか」
「そうだ」
制度の説明を始めた俺の方が、少し恥ずかしくなる返事だった。
空になった俺の杯に、カウンターの向こうからバラッドが黙って三杯目を注いだ。今夜は妙に、気前がいい。
「森の主ってのはね、坊主」
「なんだ」
「主になるだけの理由が、あるもんさね」
含みのある酌だった。含みの中身は、教えてくれないのだろう。この店の小噺は、いつも勘定の後に効いてくる。




