第四章 白光のジェスター(二)
種月二十日の朝、馬車六台の隊列は定刻通りに東門を出た。
隊商を率いるのは商人組合のバルサ親方。首の太い初老の男で、若い頃は自分も護衛剣士だったという。
「オーガ殺しの旦那ってのは、あんたかい」
「ジェスターです。オーガは、その、正確には事故で」
「ハッハ、謙遜は年寄りの前じゃ嫄味になるぜ。俺なんか若い頃は『泣きのバルサ』と呼ばれてな」
「泣くんですか」
「相手がな」
齢の功というのは、だいたい会話の主導権のことである。その親方が出発前、ジェスターの提案した隊列の組み方を一瞥して、片眉を上げた。
「先頭と最後尾に護衛、荷の軽い車を谷側……教本通りだな、若いの」
「はい。教本通りです」
「悪くねえ。だが二号車と三号車の間は、もう半車ぶん空けな」
「理由を伺っても?」
「前の車の土埃が晴れる距離だ。埃の中じゃ、矢が来ても見えねえ」
「……なるほど! 勉強になります!」
ジェスターは本当に帳面を出して書き留めた。親方は満足そうに髭を撫でる。座学の主席が実地の親方に頭を下げる図というのは、見ていて気持ちのいいものである。学ぶ側の器というものは、学び終えた顔をしないところに出る。
道中は、平和だった。
平和なので、俺は俺で細々と働いた。
「三号車、右の後輪。軸が鳴いてる」
「ん? ……おお、ほんとだ。よく聞こえたな、あんた」
「雑用屋なんでな。今夜の野営で直す。油と当て木があれば保つ」
「気の利く従者じゃねえか。ええと、名前なんだっけ」
「ヨウタだ」
「そうそう、ヨウジさんだ」
「惜しくもない」
「なんだっけな、ほら、あれだ」
「ヨウタだ」
「そう、それそれ」
覚える気の総量が知れる返事である。
軸の鳴きは直せるが、人の記憶は直せない。世の中には手の届かない修理がある。
峠に差しかかっても、夜霧の帯は影も形もなかった。当然である。今ごろは求人票を睦みながら、麦粥の炊き方でも相談しているはずだ。ジェスターは終始警戒を解かず、岩陰という岩陰に目を配り続けていたが、警戒の成果は野兔二羽の発見にとどまった。
「おかしい。出るという噂だったんだが」
「出ない日もあるだろ」
「備えあれば憂いなし、だな。うん、憂いがないのはいいことだ」
前向きの見本のような結論に落ち着いた。俺の夜なべの成果は、こうして誰の記憶にも残らずに消化されていく。理想的な決算である。
問題は、二日目の夕方に起きた。
トレモロで荷を下ろし、身軽になった帰り道。西日が街道を橙に染め始めた頃、崖沿いの曲がり角で、先頭の馬が嫌がって足を止めた。
「ど、どうした!?」
「崖の上だ! 岩狼、五頭!」
「ひいっ、積み荷が――いや、命が!」
命が先でいいと思う。
岩狼だった。
崖の上に五頭。灰色の毛並みに岩肌の模様が走る、群れで隊商を狙う類の魔物である。俺の巡回区域の外から流れてきたらしい。こういう日もある。
「隊列停止! 荷馬車の陰へ!」
ジェスターの声が飛んだ。商人たちが車の陰に隠れ、俺は手綱を預かる係に回る。念のため言っておくと、本日の俺の業務予定に岩狼の項目はない。岩狼五頭はC級パーティの標準業務であり、そして目の前の男は、標準という言葉が失礼にあたる類のC級だった。
最初の一頭が崖から跳んだ。
ジェスターは跳躍の頂点を待って、盾の縁で鼻先を打ち、着地の乱れた首筋に峰を落とした。二頭目、三頭目が左右から挟む。半歩引いて二頭の突進線を交差させ、ぶつかりかけた二頭をまとめて薙ぐ。四頭目は虚を突いて荷馬車に跳んだが、跳んだ先には既に盾が待っていた。
読みが早いのではない。読みを相手に押しつけているのだ。ああいう剣は、才能だけでは打てない。十年ぶんの素振りの音が聞こえるような剣だった。
最後の五頭目が、群れの長だったのだろう、ひときわ大きい図体で正面から来た。
西日が、ちょうど崖の切れ目から差した。
振り抜かれた長剣が夕陽を受けて、橙の光が刃の上を走った。峰打ちの一閃が長の顡を打ち上げ、白い光の残像だけが、見物人全員の目に焼きついた。
群れは長を引きずるようにして崖の向こうへ消えた。一人も欠けず、一頭も殺さず、戦闘終了である。
沈黙のあと、荷馬車の陰から歓声が爆発した。
「見たか今の! 剣が光ったぞ!」
「白い光だ! 白光だ!」
「白光の旦那だ!」
「怪我人は」
と、親方だけが実務の声で言った。
「ありません。馬も、荷も無事です」
「……完璧な仕事だ。若えのに、てえしたもんだぜ」
二つ名というものは、こうして生まれる。オーガの晩に仕込まれた燃料に、今の一閃が火をつけた形だった。本人は峰打ちの手応えを確かめながら、歓声の意味が分からずきょろきょろしている。値札に興味のない男は、値札が貼られる瞬間にも気づかないのである。
ちなみに二つ名の命名権は、本人にはない。世間が勝手に名づけ、勝手に呼び、気づいた時には本名より流通している。貨幣と同じで、発行元の意向より市場の都合で価値が決まるのだ。ドヤールが聞いたら膝から崩れる話である。あの男は自家発行の二つ名を三年も流通させようとして、いまだに両替所で断られ続けている。
その晩の野営は、ちょっとした祝宴になった。
「白光の旦那、一杯どうです!」
「俺はジェスターという名前が……いや、いただきます」
「旦那、いける口かい」
「実は、一杯で限界です」
「ハッハ! 剣は立つのに酒は立たねえか!」
「面目ない」
一杯目の半分で、あいつの顔は焚き火より赤くなった。武勇伝の主役が湯気の立つ顔で芋を頰張っている図は、隊商の全員の緊張を良い具合にほどいた。なお俺は五杯目だが、誰一人注目していない。注目されない特技の在庫が、また一つ増えた。
そしてもう一つの出来事は、俺の側で起きていた。
「おい、ええと……ヨウスケさんだっけか。芋の煮たの、食うかい」
「ヨウタだ。もらう」
「ヨタローさん、こっちの毛布使いな」
「ヨウタだ。助かる」
「従士くん! 親方が呼んでたぞ!」
「従士のヨウタだ。今行く」
三連敗である。ジェスターはそのたびに律儀に訂正して回った。
「皆さん、彼はヨウタです。ヨウタ・サイキ。俺の命の恩人で」
「おう、分かった分かった。……で、ヨウなんとかさん、塩取ってくれ」
「取ってやれ、ヨウなんとかさん」
「お前まで乗るな」
「じゃあヨウなんとか殿、こっちにも塩を」
「殿をつけるな」
定着したのは、訂正の方ではなく略称の方だった。名前というものは、呼ばれた回数で育つ。俺の名前は今日、五回呼ばれて五回とも別人だった。育つ暇がない。
極めつけは、バルサ親方が組合に出す護衛記録である。焚き火の明かりで書かれたそれを、俺は肩越しに見てしまった。
――護衛任務、完了。特記事項、岩狼五頭を撃退せしはクラウン氏の功なり。同行、従者一名(名称未詳)。
名称未詳。
二年かけて築いた「その他」の地位に、新しい階級章が加わった。悪い気はしない、と言えば嘘になるが、都合がいいのは確かである。名前のない従者は、誰の記憶にも、誰の記録にも、爪痕を残さない。裏方の理想形と言っていい。
言っていいのだが、その夜、焚き火の向こうでジェスターが親方に食い下がっているのが聞こえた。
「親方、記録の従者の欄、名前を入れてやってください。ヨウタ・サイキです」
「ん? ああ、すまんすまん。だが坊主、こういう記録はな、剣を振った奴の名前しか残らねえもんだ」
「剣だけが仕事じゃないでしょう」
「……変わった坊主だな。分かった、書き足しとくよ」
書き足された俺の名前を、組合の書庫で読む人間は、たぶん永遠に現れない。それでもあいつは、記録の隅の一行のために食い下がるのである。こういうところだ。こういうところが、俺の接待業を、永遠に廃業させてくれない。
翌二十一日、モトリーへの帰路。
街道はどこまでも穏やかで――穏やかすぎた。
魔物よけの鈴の並ぶ一区間で、俺は妙なことに気づいた。鳥の声が、消えている。風はあるのに、葉擦れの音だけが妙に大きい。森の音の抜け落ち方が、自然ではなかった。
夜の点検リストに、一行書き加える。カルタ大森林、南西区画、音の空白。要調査。
隣で馬車に揺られるジェスターは、満ち足りた顔で船を漕いでいた。初仕事を終えた男の寝顔である。起こさないように、俺は静かに、耳だけを森へ向けた。
嫌な予感がした。この予感が外れた例を、あいにく俺は一度も思い出せない。




