第一章 辺境都市の雑用係(二)
昼の鐘が鳴る頃、俺は決まって「鈴鳴り亭」の扉を押す。扉の上には大小七つの鈴が吊るされていて、客が入るたびにちりちりと鳴り、主人に商売の到来を告げる仕組みになっている。開店以来一度も音程が揃ったことがない、というのが常連の間の定説であり、主人に言わせれば「揃ってないのがうちの調律」だそうである。
鈴鳴り亭は旧市街の角にある。うまい煮込みと、安い麦酒と、当てにならない噂話を出す店だ。カウンターの奥の壁には、古びた木の杖が一本だけ飾られている。先端に小さな人形の頭がついた妙な杖で、あれは何かと訊いたことがあるが、「ガラクタさね」の一言で終わった。ガラクタを店で一番いい場所に飾る男の店である。俺は二年前にこの街へ流れ着いた日から常連をやっている。理由は三つほどあるはずなのだが、煮込みがうまい以外の二つを、いまだに思い出せたためしがない。
「おや、雑用屋の坊主。朝帰りの顔だね」
「健全な散歩の顔と言ってくれ」
「へいへい。煮込みでいいかね」
「パンを二つつけてくれ」
カウンターの向こうで鍋をかき回しているのが、店主のバラッドである。年の頃は五十いくつ。頭は半分白く、腹は小ぶりの樽をひとつ抱えたような按配で、昼前だというのに手元の杯には麦酒が入っている。行儀のいい酒飲みというものは水で割った水のようなもので、要するにこの世に存在しない――というのが本人の弁だ。存在しない者の弁にしては、妙に説得力がある。
ほどなく煮込みが来た。何の肉かは聞かない。聞いたら負け、というのが常連の間の不文律であり、負けた人間を俺は二人知っている。二人とも今も元気に店へ通っているのだから、たいした肉ではないのだろう。骨の髄まで煮出された汁は、今日も濁って、うまい。
店の隅では、旅の吟遊詩人が弦をつま弾いていた。広場で歌う前の調弦らしい。曲目は『竜殺しのオルランド』。西方で知らぬ者のない英雄譚である。
「いい曲さね」
鍋をかき回しながら、バラッドが言った。
「ところで坊主、あの歌で、倒した竜を山から運び下ろしたのは誰だと思うね」
「考えたこともない」
「歌ってる詩人も考えたことがないのさ。竜ってのは、馬車二十台ぶんはあるんだがね」
「……英雄が背負ったんじゃないのか」
「英雄はそのとき祝賀の真っ最中さね。歌の九節目から十二節目まで、ずっと乾杯してる」
言われてみれば、そうだった。あの歌で竜はいつの間にか山を下り、いつの間にか王都の広場に飾られている。竜に足でも生えたのでなければ、誰かが運んだのだ。馬車二十台と、たぶん相応の人足と、割れた車軸の修理代で。
「だいたい英雄譚なんてものはね、身も蓋もなく煮詰めれば三行になる。悪いのが来た。倒した。祝った。残りの九十九節は、装備の代金と宿代と婚礼の話さね」
「夢のない要約だな」
「夢ってのは具のことさ。出汁は、いつだって銭と段取りだよ」
隅で調弦していた詩人が、たまりかねたように顔を上げた。
「バラッドさん、営業妨害はよしてくれよ」
「事実確認さね。なんなら『白鳥の姫君』もやるかい。あれは要するに、湖の水利権をめぐる裁判の話だよ」
「よさないか」
「『三人兄弟と魔王』は、末の弟が兄二人の借金を肩代わりする話さね」
「頼むから広場には来ないでくれよ!?」
詩人は弦を抱えて店の反対側へ避難した。芸術と経理は、席を隣にしない方がいい。なお竜の胆の卸値については、後日、詩人の方から聞きに来た。芸術もまた、飯を食うのである。
銭と段取り。今朝がた森で引き算をしてきた身としては、頷く以外の選択肢が見当たらない。
「……運んだ連中の名前は、歌に残らないのか」
「載らないねえ」
バラッドは杯を干して、こともなげに言った。
「英雄譚にゃ、裏方の名前は載らねえのさ」
「そういうものか」
「そういうものさね。――それが不服かね?」
「別に。煮込み、お代わり」
不服かどうかで言えば、湯気の向こうの煮込みの方がよほど重大な議題である。俺は差し出された二杯目に取りかかった。裏方の名前が載らないのは、考えてみれば道理だ。載った瞬間、裏方は裏方でなくなる。舞台袖に照明を当てたら、そこはもう舞台なのだから。
――と、ここまで考えて、自分がずいぶん堂々とした裏方理論を組み上げていることに気づいた。二年も裏方をやっていると、理論武装だけが立派になっていく。武装した理論の出番が来ないことを、切に祈るばかりである。
二杯目が半分になった頃、バラッドが藪から棒に言った。
「ときに坊主、宮廷道化って職を知ってるかね」
「王様の隣で鈴を振ってる奴だろ」
「そう、それさね。あれはこの世でただひとつ、王を笑い者にしても首が飛ばない職なのさ。大臣が同じことを言えば反逆罪で、道化が言えば余興になる。だから利口な王ほど、腕のいい道化を欲しがったもんさね」
「待て。なんの話だ、藪から棒に」
「煮込みを二杯以上食う客には、店主の小噺がつく決まりでね」
「初耳の決まりだ」
「今できた決まりさね」
威張ることか。とはいえ小噺の中身は悪くなかった。首をはねる権利を持つ人間のすぐ隣に、笑わせる義務を持つ人間を置く。王政というのは、案外自分の耳の悪さを自覚していたらしい。
「給金も出たんだぞ、坊主。年によっちゃ大臣より高かったっていうんだから、ふるってるさね」
「笑わせ賃にしては豪勢だな」
「違うね。ありゃ、耳の痛い話を聞くための金さ。世辞なら只で聞けるがね、本当のことってのは、昔から高くつくのさね」
俺は匙を止めて、それは確かに、と思った。本当のことは高くつく。今朝の俺が誰にも請求していない金額を、うっかり暗算しかけてやめた。
「詳しいんだな、宮廷の事情に」
「昔、あたく――」
バラッドは杯を口に運び、ひと呼吸ぶんだけ黙った。
「――俺の古い友達がね、宮廷で働いてたのさ」
「ふうん」
詮索はしない主義だ。詮索されないためには、詮索しないに限る。これは俺の数少ない処世術のひとつで、二年間この街で平穏に暮らせている実績がその有効性を裏づけている。
昼下がりの鈴鳴り亭には、アルカナ札の卓が立つ。二十二枚の絵札を混ぜて引き、役の高さを競う遊びで、賭けるのは銅貨ではなく次の一杯の勘定と相場が決まっている。
「兄さん、一勝負どうだい」
「今日は懐が寒い」
「勝てば温まるよ」
「その理屈で寒くなった奴を、この卓で何人も見てるんだが」
言いつつ席についているのだから世話はない。誘われたら断らないのが常連の作法である。今日の卓の相手は、元石工の隠居と、元船頭の隠居。二人合わせて百四十年ぶんの人生経験が、俺から次の一杯を巻き上げようと手ぐすねを引いている。
「さあ兄さん、切った切った」
「悪いが今日は勝たせてもらう。朝からいい仕事をした日は、札運がいいと決まってるんだ」
「ほう。じゃあ引きな」
引いた。愚者だった。
「……もう一回だ」
引いた。愚者だった。
「兄さん、そりゃもう運命ってやつだよ」
三巡目も愚者だった。二十二枚もあるのにである。
「また愚者かい」
向かいの隠居が煙管を揺らして笑う。
「兄さん、よっぽど好かれてるねえ」
「呪われてる、の間違いだろ」
「そういや、北の方の遊び方だと、愚者は数え札じゃなく切り札だって聞いたがね」
「嘘つけ石屋。愚者が切り札なら、誰も真面目に役を作らなくなっちまうよ」
「だから北は栄えてるんだろうが」
隠居二人の学説が真っ向から対立したため、審議は次の一杯へ持ち越された。学問とは、だいたいそういうものである。
愚者の札。二十二枚のうち、ただ一枚だけ番号を持たない札だ。絵柄は、崖っぷちを歩く旅人である。荷物棒を担いで、空を見上げて笑っていて、足元では小さな白い犬が何かを吠えている。描いた絵師は犬に恨みでもあったのか、旅人の顔は寝ぼけた線の三本描きなのに、犬だけが妙に写実的だ。しかもよく見ると、犬の視線は旅人ではなく、旅人の一歩先の崖の縁を向いている。芸の細かいことである。
そして役としては最弱なので、俺の勘定は今日も俺持ちである。
「笑いなさんな」
カウンターからバラッドが口を挟んだ。
「愚者ってのはね、坊主。一番いい札さね」
「最弱だろう、これ」
「さあて。……ほら、煮込みが冷めるよ」
はぐらかされた、と分かる程度には、俺もこの店の常連だった。




