第一章 辺境都市の雑用係(一)
夜明け前の森は、静かだ。
露が下草を重くしている。
鳥は、まだ寝ている。
世界がいちばん平和なこの時間に、俺の仕事は始まる。開演前の舞台袖、と言えば聞こえはいいだろう。客入れの前に道具の位置を直し、床の危ない釘を抜いておく係だ。芝居がはねて拍手をもらうのは役者であって、釘を抜いた人間の名前は幕が下りても呼ばれない。それでいい、という話を、これからしばらくすることになる。
辺境都市モトリーの平和は、俺の早起きで出来ている。
我ながら誇大広告じみた宣言であることは認めるにやぶさかでないが、広告と事実が一致してしまった場合、それはもう広告ではなくただの報告だ。なお、この宣言を聞いた人間は世界に一人もいない。宣言とは聞かせる相手がいて初めて宣言と呼ばれるものだから、正確には夜明け前の独り言である。
王国暦五百十二年、種月十日、晴れ。カルタ大森林の見回り業務、これより開始する。
工程は三つ。見回り、間引き、偽装。この順番を崩さないことが肝要である。本日の案件は二件と偽装一式。繁忙期に比べればずいぶん軽い。
まず見回り。森の外周を歩き、夜のうちに増えたもの、減ったもの、引っ越してきたものを確認する。歩く速さは急がない。急ぐと見落とすし、そもそも急ぐ理由がない。三年も続けていると、夜明けの方が俺の歩幅に合わせて待ってくれる——ような錯覚をする程度には、手順が体に馴染んでいる。
案件一。灰狼の群れ、北の沢。先週まで九頭だったのが、今朝は十三頭に増えていた。狼の群れは十頭を超えると気が大きくなる。気が大きくなった群れは森の鹿では満足せず、街道に出て隊商の馬を狙い始める。七頭なら森の中で腹が満ちる。つまり本日の業務は引き算だった。十三引く六は七。
仕事の中身は、書くほどのことでもない。沢の水音が一度途切れて、群れの頭数が適正になった。残った七頭がじっとこちらを見ていたので、寝ろ、と手で伝えておいた。伝わったかどうかは知らない。
案件二。岩場の大蜘蛛。繁殖期が来る前に駆除する。卵嚢が割れてからでは、討伐依頼が「大蜘蛛一体」から「小蜘蛛四百体」に化けるからだ。四百枚の依頼書を書かされる受付嬢の右手と、それを受けるC級諸君の胃袋を思えば、朝のうちに一体で済ませるのが行政というものだろう。俺は行政ではないが。
最後に、偽装。ここが一番手間だ。
魔物同士の縄張り争いでは、勝った側が負けた側の骸を岩場まで引きずる習性がある。だから引きずり跡をつける。爪痕は喧嘩の格に合わせて深さを変える。三年もやっていると、魔物の喧嘩の跡には様式美というものがあると分かってくる。分かってきてどうする、という指摘は受け付けていない。美術の時間は日の出までと決めている。
これで本日の下ごしらえは完了。森は今日も「たまたま」平和で、モトリーの冒険者たちは今日も「実力相応」の獲物にありつく。舞台袖から見る限り、今日の舞台も仕上がりは上々だ。俺は朝飯前にひと仕事終えた勤勉な雑用屋として、東門から堂々と帰還する。
「よう、雑用屋。朝帰りかい」
「散歩だ。健全な」
「けっこうなことで。いやあ、近頃は森も平和なもんだねえ」
東門の爺さんは欠伸まじりにそう言って、槍を杖代わりに伸びをした。
誰のおかげだ、とは言わない。
言わないと決めている台詞は、言いたい台詞のだいたい三倍ある。三倍あるうちの筆頭がこれだ。俺には力を隠して暮らしている事情というものがある。事情は三つほどあるが、朝飯前に語るような軽い話でもないので、いずれ然るべき湿度の夜にでも譲る。
「今日も雑用かい」
「今日も雑用だ。世界は雑用で回ってる」
「違いねえ。勇者様の剣より、井戸のつるべの方が毎日世話になるってな」
「爺さん、たまにいいことを言うな」
「たまにが余計だよ」
冒険者ギルド・モトリー支部の朝は、市場に似ている。
競りにかけられるのは魚ではなく依頼書で、競り落とすのは景気のいい声ではなく早い者勝ちの腕だ。掲示板の前に人だかりができ、誰かが薬草採取の紙を剥がし、誰かが下水路掃除の紙に舌打ちする。舌打ちするくらいなら剥がさなければいいのに、と毎朝思うが、下水路は報酬がいい。人は舌打ちしながら生きていける生き物である。
殺到する背中を眺めながら、俺はいつも通り、争奪戦とは無縁の精算窓口へ向かう。奪い合うほどのものが人生に少ないというのは、あまり自慢にはならないが、平和の別名ではあると思う。
「おはようございます。サイキ様」
窓口のミエル・ルシードさんは、俺の顔を見る前に台帳をめくっていた。
「昨日付、薬草十束。乾燥不良が二束ありましたので減額。西通りポルタ雑貨店の雨漏り修理、完了確認済み。街道の魔物よけの鈴、三十基の点検、同じく完了。合計、銅貨四十二枚です」
「四十五じゃなかったか」
「乾燥不良が二束。台帳的には、正直な数字だけが残ります」
「二束で三枚も引くのか」
「引きます。干し方の資料、窓口にございます」
「読んだら三枚戻るのか」
「戻りません。次回に活きます」
ぐうの音も出ない。ぐう、とだけ言って俺は銅貨を受け取った。
「それと、街道の鈴ですが。三十基のうち二基、新品に替わっていました」
「へえ。親切な誰かがいたんだな」
「点検料は、替えた方にお支払いするのが筋では?」
「世の中には、名乗らない親切ってものがあるんだよ」
「……帳簿泣かせの町です、ここは」
ミエルさんは眉ひとつ動かさずにそう締めくくった。
「本日は春の更新測定日です。あちらの列にお並びください」
更新測定。年に一度、冒険者の能力を測り直してランクを見直す、ギルドの恒例行事である。ギルドはこれを「恒例行事」と呼び、冒険者は「査定」と呼び、受付は「棚卸し」と呼んでいる。同じ行事に三つの呼び名がつくとき、その行事で得をしている人間はだいたい一人もいない。
列の先頭では、水晶玉に拳を打ちつけたC級の大男が吠えていた。
「四百六!? 昨日より二も落ちてる! 酒だ、酒のせいだ!」
「昨日の非公式測定は台帳に載りません。はい、次の方」
「なあ受付さんよ、誤差だよな? 俺の実力はこんなもんじゃ――」
「数値がすべてを語ります。次の方」
大男は肩を落として列を離れ、すれ違いざま、俺の肩をばんと叩いた。
「兄弟、酒はほどほどにしとけよ」
「肝に銘じる」
「いい返事だ。……で、あんた誰だっけ」
「さあな」
面識はない。ないが、敗者は敗者に優しいのだった。
俺の前に並んでいた新人が、緊張のあまり水晶ではなく台座を殴った。
「測定不能です。もう一度どうぞ」
「は、はいっ。すみません!」
「謝罪も台帳には載りません」
列は事務的に進んでいく。測定水晶というのは打撃の強さを光の数字に変える魔道具で、当然ながら誤差がある。人間の調子には波があるからだ。波があるのが正常なのだ。
F級の平均打撃値は、八十二前後。俺は毎年、そこへ合わせて拳を振る。
ちなみに、狙った数字を毎年寸分違わず出せる人間がいたとしたら、その正確さこそ何よりの異常値なのだが、幸いこの三年、誰からもその指摘を受けていない。受けずに済んでいる、と現在形で言えるうちが花かもしれない。
俺の番が来た。
こつん。
「……八十二・〇〇」
ミエルさんが読み上げ、台帳をめくり、手を止めた。
「五百十年、八十二・〇〇。五百十一年、八十二・〇〇。本年、八十二・〇〇」
紙をめくる音が、三回。
「サイキ様」
「なんだ」
「三年連続、小数点第二位まで同じ数値ですね?」
「機械が優秀なんだろ」
「較正記録も三年分確認しました。優秀なのは認めます」
彼女は台帳から顔を上げ、初めて俺の目を見た。ミエル・ルシードという受付嬢について俺が知っていることは三つある。敬語が崩れないこと。数字を三年分覚えていること。笑っていない時の目が、帳簿の罫線みたいにまっすぐなこと。
「F級、更新です。おめでとうございます」
「それはめでたいのか」
「三年間ランクが動かない方は、当支部ではサイキ様おひとりですので、記念すべきことかと。それと明日の分ですが、井戸さらいと、東の畑の案山子の修理が出ています」
「案山子も冒険者の仕事なのか」
「サイキ様枠です」
「なんだその枠は」
「帳簿の上では『その他』と表記します」
その他。二年かけて築いた俺の社会的地位である。
「参考までに、ひとつ伺いますが」
彼女は測定水晶を、病人をいたわるように撫でた。
「――この機械、壊れてます?」




