第9章 再びNaomiの世界
Naomiがようやく深い眠りから目を覚ました。いつの間にか、車で彼女をホテルにまで送ってくれた男性が、Naomiの部屋にいた。部屋は広く、応接セットさえ配置されていた。その男性は、お茶を入れてくれた。
Milo「よく眠れたようだね。」
Naomi「やっぱり現実なんだ。ここはどこなんですか。一体、私は何をすれば家に帰れるんですか。」
Milo「お腹は空いていないか。」
確かに、お腹が空いていたし、喉も渇いていた。ベッドを出て、ソファーに座り、Miloが入れてくれた紅茶を飲んだ。とにかく、何かしていないと気がおかしくなりそうだった。
Naomi「お腹が空きました。なにか、食べ物と冷たい飲み物をください。」
Milo「そうだな。何か食事を用意しよう。何か食べたいものはあるか。」
Naomi「なんでもいいです。好き嫌いはないので。でも、出来れば和食がいいです。そう、焼き魚とか、茶碗蒸しとか。」
Milo「わかった。すぐに手配しよう。他には、なにか必要か。」
Naomi「着替えたいです。新しい下着も欲しい。服も何か、もっと楽に着られるものが欲しい。」
Milo「わかった。他には。」
Naomi「とりあえず、そんなところです。とにかく、何か食べたいです。」
Milo「すぐに用意する。」
Miloは室内にあった電話で、どこかに電話をし、すばやく用件を伝えたようだった。ただ、Naomiには彼が何を言っているのかわからなかった。そもそも、ここで自分が希望したような食事が手配できるのだろうか。しばらく、Naomiは黙ったまま、ソファーに座っていた。
Milo「聞きたいことがたくさんあるんじゃないか。」
Naomi「あります。何から聞けばいいのかわからないくらい。それに、ものすごく腹がたっています。一体、なんで私がこんな目にあう必要があるのか、全く納得できません。私が誰に何をしたと言うんですか。これは、一体何の罰なんですか。いい加減にしてください。食事が終わったら、私を元に戻してください。」
Naomiは泣いていた。泣きながら、Miloに訴えた。変な気分だった。親友のKynoと全く見た目が同じ人間に、意味の分からないところに連れてこられて、自分がいた世界と隔離されてしまっている。一体、何が起きているのか、さっぱりわからなかった。抑えていた気持ちが一気に吹きだしたようだった。怒り、悲しみ。なんとも、やりきれない気持ちだった。本当なら、新しい学期を迎え、いつものように学校で友達に囲まれて、楽しい学校生活を再開させる予定だったのである。それが、全く理解を超えた、意味の分からないトラブルに巻き込まれ、しかも突然あらわれた親友にそっくりの男性から、意味のわからないことを説明されているのである。Naomiは心の底から、怒りがこみあげてきた。そして、その怒りをぶつけられるのは、目の前にいるMiloだけだった。
Milo「君の言っていることは、全くもって正しい。君はこんな目に合うようなことは何もしていない。君の怒りももっともだ。本当に君には謝罪したいと思う。」
Miloはしばらく黙ってから、言葉を続けた。
Milo「君の助けが必要なんだ。君の助けがないと、大勢の人たちが酷い争いごとに巻き込まれ、多数の犠牲者が出ることになる。とにかく、ことの詳細は今は言えない。われわれを助けて欲しい。」
Naomi「私には誰かを助ける力なんてありません。それに、一体誰を助けろって言うんですか。仮に、誰か助けが必要な人たちがいるとしても、なぜ私なんですか。他にもっと上手くやれる人はたくさんいるんじゃないですか。私じゃなきゃダメなんですか。全く、理解できません。」
Milo「そう、君じゃないと無理なんだ。君にしかできないことなんだ。」
会話の途中で、食事が運ばれてきた。部屋の中のダイニングテーブルに食事が配置された。Naomiが想定していた以上に、まともな和食に見えた。少なくとも見た目は、ちゃんとした和食だった。焼き魚、ご飯、味噌汁、茶碗蒸し、お漬物、だし巻き卵が、テーブルに並べられた。ちゃんと、お醤油もあり、ご飯も小さなおひつに入っていた。とにかくKynoの家で食べたピザ以降、何も食べていなかったのである。焼き魚は普通に美味しかったし、ご飯もちょうどよい炊き加減だった。味噌汁はあさりの味噌汁で、しっかりと出汁の味もきいていた。濃くもなく、薄くもない、ちょうどよい味だった。茶碗蒸しも、ちゃんと銀杏の実も入っており、味も食感もちょうど良い具合だった。Miloがここは元の世界とは別の世界とか言っていたが、少なくとも食事に関しては、それほど大きな違いがないようである。とにかく、今はちゃんと食べて、体力を温存しなければいけないと思った。次は、いつまともな食事ができるか、予想さえもできない状態である。
食事を終え、しばらくしてから、デザートが運ばれてきた。ココナッツアイスクリームとチョコケーキが運ばれてきた。それら二つとも食べきったあと、温かいお茶を飲んで、食事を終えた。なんか、この境遇でも、温かい食事をとったあとは、少しは心が和んだ。
Milo「今から、2時間後にここを出る。ここに着替えを用意してある。服も何が良いかわからなかったから、何種類か用意しておいた。好きな服を着ればよい。また、2時間経ったら、迎えに来る。」
Miloはそう言うと、そのまま部屋を出て行った。Naomiはシャワールームを探した。シャワールームには、大きな浴槽があり、そこにお湯をたっぷりと溜めた。とにかく、ゆっくりと温かいお湯につかりたかった。食事もそうだが、お風呂にもこの次いつ入れるのかわからなかった。湯船につかりながら、いろいろと考えてみた。私にしかできないこと。争いごと。誰かを助ける。彼は一体何を言っていたのか、さっぱりわからなかった。一体誰を助けると言うのだろうか。一体、争いごとというのは何なんだろうか。Naomiには考えれば考えるほど意味がわからなかった。何か、あの寒々しい戦争の映像が何か関係あるのだろうか。それとも、あの火星のような世界に関係あるのだろうか。Kynoはそこに何か関与してくるのだろうか。いろいろなことが頭の中をめぐっていたが、何も答えにたどり着かなかった。ゆっくりと湯船につかり、体と髪の毛を洗い、ふわふわのバスタオルで体を拭いたあと、真新しい下着を着け、髪の毛をドライヤーで乾かした。とりあえず、アメニティーグッズは過不足なく揃っていたので、それらを使った。最後に歯を磨き、ベッドのある部屋に戻った。まだ出発まで時間があった。冷蔵庫からガラス瓶の水を取り出し、栓抜きで栓を開けて一気に飲んだ。体の中に、冷たい一筋の水がゆっくりと胃に降りていくのが感じ取れた。やっぱり、この感覚は夢ではないと強く思った。これは夢ではなく、現実なんだと実感した。
Miloが部屋を出てから、ぴったり2時間後に彼は部屋に入ってきた。先ほどと全く同じ服装だったが、全く同じ服に着替えたようだった。
Milo「さあ、もう出かけよう。」
Naomiはもう何をしても、彼の指示に従うしかないと開き直っていた。一体、どこで何をすれば良いのかさっぱり想像もできなかったが、行くしかなかった。やるべきことをやれば、元の世界に戻してもらえる。とにかく、前に進むしか道はなかった。Miloに続いて、Naomiも部屋を出た。ホテルに来る前に着ていた服はそのまま部屋に置いてきた。新しく用意されていた黒のパンツと黒のシャツに着替えた。靴も新品の白のスニーカーに変えた。そして、黒のベースボールキャップをかぶった。ホテルのロビーを通り、外に出た。すでに車が用意されていたので、後ろの座席に乗り込んだ。MiloもNaomiに並んで、後部座席に乗り込んできた。ベルボーイが車のドアを閉めたと同時に、車は発進した。黒塗りのリムジンだった。確か、ここに来るときも同じ車に乗った気がするが、あの時はそこまで冷静に車の形まで見ることができなかった。
車は、来た時とは別の道を通って、市街地に入っていった。それほど大きな町ではないようだった。元居た世界にそっくりの町並みだった。そして、木がうっそうとはえている、ある場所の前に停まった。MiloはNaomiに車から降りるように目くばせした。
Naomi「あなたは、車から降りないの。」
Milo「私は降りない。ここから先は、君がひとりで行くんだ。」
Naomi「ここは、私が行こうとしていた神社。」
Milo「そう、君が私と会う前に、行こうとしていた神社だ。」
Naomi「それで、どうすればいいんですか。」
Milo「あの神社にある石灯篭にある印が刻まれている。君も知っている印だ。目を閉じて、その印に手をかざせ。すると、しかるべき時と場所に君は移動する。ちょうど、数時間前にいくつかのバックドアが開いた。」
Naomi「どこに行かされるんですか。」
Milo「そこから先は、私にはわからない。だが、非常に重要な仕事が君を待っている。君とKynoがなすべき仕事だ。Jayもいろいろとサポートしてくれるだろう。」
Naomi「KynoとJayのことを知っているの。Kynoとあなたは、同じ人に見えるけど、どういう関係なの。」
Miloは黙って、後部座席の窓を閉めた。車は、そのまま発進した。Naomiはひとり取り残された。なぜか、あの出来事以来、この神社には行かなければならないと感じていた。なぜかは彼女にもわからなかった。だが、ここに来れば何かがわかるという直観みたいなものがあった。神社の鳥居の前で、一礼をした。そして鳥居の端を歩いて通り、境内に入った。神社の中の空気は、外の世界と違って凛としており、静寂に包まれていた。いつものように、ほとんど人気はなく、時々風に揺れる木の葉の音が聞こえるだけだった。神社本殿に続く参道の脇に並ぶ石灯籠を見てみた。確かにMiloが言っていたように、三角形をふたつ上下に重ねた印が、石灯籠の六面全てに刻まれていた。そんな印が刻まれていたなんて、彼女もその時初めて知った。あの、幻想のように目の前に現れた、白人の男女が身につけていた服にも、全く同じ印があった。なぜ同じ印が、ここ遠く離れた日本にもあるのだろうか。彼女には、全くその過去のいきさつはわからなかった。なにか理由があって、同じ印があるのか、それとも単なる偶然なのか。彼女にはわからなかった。そういえば、Jayが以前第2次世界大戦の歴史書などから得た知識をNaomiとKynoに話していたことを思い出した。三角形をふたつ重ねた印はいわゆるユダヤ人の印で、それによく似た印が日本のいくつかの神社で見られるということだった。厳密に言うと、全く同じではないが、2つの印は非常に酷似しているということだった。Naomiからしたら、なんかこじつけみたいで、あまり興味がそそられる話でもなかったが、なにやらその出来事に関与させられるような気がしていた。
でももう何十年も昔の、しかも欧州での出来事に、なぜ日本人である自分が、どうやって関与するのかさえわからなかった。ただ、なんとなくこの出来事の流れを考えると、またどこか別の世界に行かされそうな気がした。戦争中の冬の欧州の風景を考えると、気が滅入ってきた。だが、前に進むしか、元の世界に戻れる手段は無さそうだった。Naomiは思い切って、目の前にある石灯籠の三角形を重ね合わせた印に手をかざし、目を閉じた。そして、あの体が浮遊している感覚にふたたび襲われた。どんどん体がさっきまで居た場所から遠ざかっていくのがわかった。このまま、元の世界に戻れればいいのにと心から願った。かなり長時間そのままの状態で浮遊していたような気がしたが、実際の時間はわからなかった。数十秒だったかもしれない、数日だったかもしれない。
気がついたら、ものすごく大きな建物の中にいた。なんか、巨大ホテルのロビーのような場所だったが、人の気配がしなかった。まわりの外壁の部分のかなりの部分はガラス張りになっていて、外の景色が見えた。赤茶けた空、赤茶けた大地、ほとんど生命体の気配の感じられない、不毛の大地という感じだった。植物さえも見当たらなかった。あるのは、ごつごつとした岩と砂と茶褐色の土だったが、水らしきものは一切見えなかった。遥か遠方に、同じような茶褐色の巨大な建物が見えた。それ以外は、人工物らしきものは一切見えなかった。ここはどこだろうと思ったが、確かにこの場所には見覚えがあった。見覚えがあったが、こんな場所に来たことはなかった。でも、かすかに記憶にこの風景が刻まれていた。しばらく考えてから、ようやく思い出した。ここは、8月31日の夜に自宅の玄関から別の世界に移動しているときに、目の前に広がったあの風景だった。確かここには、3人の男性がおり、自分の気配に気が付き、物凄い目線でにらみつけてきた場所だった。そのうち、正面にあったドアが自動的に開いた。どうやら、そのドアに入れという意味のようだった。もう、ここまで来たら、なんとでもなるという思いしかなかった。ドアは実は巨大なエレベーターのドアだった。エレベーターは上に上がると勝手に思ったのだが、実際は地下に下って行った。よくかわらなかったが、かなりの速度で地下に下っているようだった。そして、数分後、徐々に減速してエレベーターは止まった。先ほど入ってきた方向の同じドアが開き、エレベーターの外に出た。無機質なエレベーターホールに出た後、右に進むと、左右に幅3メートルほどの通路が延びていた。
通路を右に行くように、誰かがNaomiの頭の中に話しかけた。あの例の3人の男性のうちの一人だった。そして、ある部屋の前で止まれと言われた。すぐ近くのドアが開き、Naomiはそのままその部屋に入った。中には、窓一つもなく、照明も薄暗い少し広めの部屋があった。壁面には、よくわからない計器類が設置されており、デジタルな数字が微妙に上がったり下がったりしていた。一体何の数値なのかは、彼女には知る由もなかった。家具は、無機質な椅子が2脚と、テーブルが一つだけあった。そこは、普通に呼吸はできるのだが、何か違和感のある空気で、いかにも工業的に混合した人工的な空気のような感じがした。とにかく、いろんな角度から人の目線を感じたが、どこからどのように見られているのかわからなかった。声を出して、その目線を向けている人物と意思疎通を図ろうとした。
Naomi「誰か、誰かいますか。ここはどこですか。何か返事してください。」
その場所で、日本語が通じるかさえもわからなかったが、それ以外にコミュニケーションをとる方法を彼女は知らなかった。
Naomi「誰かいますよね。わかってますよ。私をどうしたいのですか。」
何も返事はなかった。数分待ってみたが、部屋の中は静まりかえっていた。Naomiは部屋の中にあった椅子に腰かけて反応を待った。もう返事が無いものと諦めそうになった時に、部屋のどこかからか男性の声が響いた。
Ren「落ち着いてください。われわれは、あなたを傷つける意思はありません。ただ、まずはあなたが病原菌の類を持ち込んでいないか、検査をさせてください。検査は自動的に終わります。検査で問題がなければ、あなたとお話がしたい。」
Naomi「わかりました。まずはここでしばらく大人しくしてろということですね。」
Xin「ええ、しばらくはそこで我慢してください。何か必要なものはありますか。水、食料、なんでも必要があれば、言ってください。」
Naomi「水をいただけますか。それと、できれば何か甘いものを。」
Xin「わかりました。すぐにお持ちします。」
間もなく、部屋の壁にあった小さな扉が開き、ボトルに入った水と、ガラスの容器に盛られたアイスクリームがそこには入っていた。Naomiはそれらを取り出し、テーブルの上に運んだ。アイスクリームをゆっくりと食べてみた。普通のバニラアイスにチョコがかかったものだった。なぜか、世界が変わっても、食べ物はあまり変わらないのだと思った。水は常温のものだった。別に喉が渇いていたわけではなかったが、とりあえず水さえあれば、数日間は生きながらえられると聞いたことがあった。ボトル1本の水だけなので、単なる気休めに過ぎないと思いつつ、少し気が楽になった。ただ、ここまでいろんな想定外のことが立て続けに起きており、かなり精神的に参っていた。両親に会いたいと思った。友達にも会いたい。あの元の平和な世界に戻りたいと強く思った。いろいろと考えているうちに、また目から涙があふれてきた。悲しみと怒りに心がつぶされそうだった。私は何も悪いことなんてしていないのに、なぜこんな酷い目に遭わなければいけないのか、全く納得がいかなかった。ここは本当に火星なのか。なんか、酷い夢をずっと見ているのではないだろうか。いや、私が実際に属している世界は、今のこの世界で、あの両親と過ごしていたお寺での生活のほうが夢だったのかもしれない。私は、ずっと素晴らしい夢を見ていて、今ようやく目が覚めて現実を見ているのかもしれないと思えてきた。それにしても、ひどい現実だと思った。誰も知り合いもいない。何もない部屋に隔離されて、自由さえもない。自分の意思では、何もこの状況を変えられない。自分がいかに非力であるかを思い知らされていた。




