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第27章 ベルリン事変

 弾丸は確かに銃から放たれた。しかし、ヒトラーはこちらを見て微笑んでいた。その目はあきらかに爬虫類の目だった。Kynoは銃を放った瞬間に、まわりの警備員や聴衆達に取り押さえられた。ヒトラーには弾丸は命中していなかった。弾丸は確かに放たれたし、弾丸が外れるわけがなかった。ヒトラーは壇上から一歩も動いていない。ほんの数メートル先の的を外すわけがなかった。警備員にひどく殴られながら、ヒトラーのほうを何とか見てみた。すでに彼の目は普通の人間の目をしていた。


 Jayは後ろ手にされ、その場から連行された。建物内の地下にある小部屋に連れ込まれた。作戦が失敗したのは明らかだった。Kynoも失敗したのだろうか。おそらく、同じ結末に終わって、彼も同じこの小部屋に連行されているのだろうと思った。そうか、俺たちは世界を救うことなんてできなかったのだ。この圧倒的な暴力装置に立ち向かおうとしても無理だったのだ。彼の目から涙があふれ出た。でも、最初から選択肢なんてなかったではないか。そう、この世界では誰も選択肢なんかないのである。自分を押さえつけている警備員たちにも選択肢なんかないのである。彼らも、唯一の選択肢を無理やり選ばされて、ここにいるのだ。もういいだろうと思った。


 NaomiとMariaも例の隠れ家にいるところをSSに発見され連行されていた。武器も何も持っていない、女性二人では何も抵抗なんてできなかった。SSは彼女たちを強制収容所内の独房に収容した。その後、激しい尋問と拷問が続いた。

 最初は、別の政治犯と一緒に同じ房に収容された。中には、ドイツ人やポーランド人、ユダヤ人もいた。

 

 ドイツ人「お前は、何かやらかしたのか。」

 

 Kyno「ヒトラーを消そうとした。だが、見事にしくじったよ。」

 

 ドイツ人「俺もそうだ。やつを爆殺してやろうと思ったが、失敗した。ヒトラーが来るはずだったのに、遅れてきやがった。彼が来る前に爆弾が爆発して、仲間は全員逃げる途中に銃殺されたよ。俺も、間もなく処刑される。」

 

 ユダヤ人「俺は何もしていない。ただ、ユダヤ人というだけでここに収容された。なんか、強制収容所というところに送られるらしい。」

 

 Kyno「君は大丈夫だ。希望を持ち続ける限り、人はなんとか生きていくことができる。収容所に行っても、希望だけは捨てるな。」

 

 その後、Kynoは独房へと移された。独房に収容されてから数日後に、Kynoは激しい尋問と拷問を受け続けたあと、絞首刑に処せられることが決まったようだった。最後の夜、激しい拷問を終え、独房に投げ込まれたあと、警備のSS将校がKynoにささやいてきた。

 

 SS将校「明日、お前は楽になれる。公衆の面前で絞首刑にされることになった。俺は君には何の恨みもない。こんな時代じゃなかったら、もしかしたら友人になれていたかもしれない。残念だ。あの時、君の同志は間に合わなかった。」

 

 Kynoは何とか声を振り絞って、その将校に言った。

 

 Kyno「そんなことを口に出すな。君まで処刑されるぞ。こんな思いは俺だけで十分だ。それに、もう同志とかどうでもいいよ。」

 

 SS将校「いつかわれわれはこのツケを払わされる時がくる。いつかわれわれは歴史に裁かれる。それがわかるから俺は自分の無力さが悔しい。君のように勇気があればって本当に思うよ。」

 

 Kyno「まだ君のようなまともな人間が存在するじゃないか。いつか君のような者が、この国を再建するのだ。俺は、自分のやるべきことをやった。明日は喜んで死んでみせるさ。最後に話せたのが君でよかった。」

 

 翌朝、KynoはSSの警備員から両脇を抱えられて、独房から引きずりだされた。頭から麻袋をかぶせられ、車でどこかに運ばれたようだった。車から降ろされ、麻袋を外された。どうやら、近くの町の広場に連行されたようだった。そこには絞首刑を行うための、絞首刑台が用意されていた。Kynoの他にも、5人ほどの男性が連行されてきていた。広場に集まった群衆は、彼らに罵声を浴びせかけ、投石をするものさえいた。中には、まだ小学生くらいの子供までそこには集まっていた。人々の目からは激しい憎悪を感じることができた。この集団のヒステリー状態は制御不能なくらいの狂気と言えるものだった。絞首刑を行うステージ上には、ひとりずつ男性が上げられ、50センチくらいの台の上に立たされた。そして、再度頭から麻袋を被せられ、太いロープが首に巻かれた。ロープは台の上方にある太い梁から下げられていた。そして、その太い梁は2本の太い柱の上に通されていた。ある者は、無抵抗でその運命を受け入れ静かに死んでいった。またある者は、激しく抵抗し、殴られ、結局力づくでロープを巻かれ暴れた挙句に死んでいった。そして、Kynoの順番が来た。

 

 Kyno「俺は、ポーランドのために死ぬのじゃない、ユダヤ人のために死ぬのじゃない。俺は、君たちドイツ人を救うために死んでいくのだ。」

 

 Kynoは最後の力を振り絞って叫んだ。太い棒のようなもので激しく殴られた。

 

 Kyno「君たちはいつかこの代償を支払うときがくる。俺は君たちを恨まない。俺はだれも恨まない。俺は君たちの未来のために死んでいこう。」

 

 一瞬その場が静まり返った。次の瞬間、彼の頭に麻袋が被せられた。彼に麻袋を被せたのは、昨夜少し話をしたSS将校だった。再び、群衆からは大きな罵声を浴びせかけられた。

 

 SS将校「最後に君の名前を聞かせてくれ。」

 

 Kynoは答えた。

 

 Kyno「Kynoだ。さようなら、友よ。」

 

 Kynoは静かに死んでいった。Jayも、Naomiも、そしてMariaも同じ時刻に死んでいった。かすかな希望がその時、確かに消え去った。たった四人の死だったが、それがその後の無数の死の幕切れだとはその時は誰にも想像できなかった。

 そして、Regnosはバグの修正に失敗したことを知った。

 

 1941年6月22日午前3時すぎに、ドイツ軍はあらかじめ準備していたとおり、バルバロッサ作戦を開始した。長い独ソ戦の始まりだった。そして、1945年8月15日の日本の無条件降伏により長い戦争は終わった。正確な死者数はわからないが、世界中で6000万人とも7000万人ともいわれる尊い人命が失われた。今では誰も彼らのことを覚えている者はいない、Noahを除いては。

 

 —-------------------------------------------------------------------------------------------

 

 Regnosは、1940年欧州のバグの修正に失敗した。物事は、彼の思惑とは違う方向に進んでいった。パッチを使ったバグの修正では、根本的な修正ができず、結局、物事は破壊的な方向に進んでしまった。すでに、シミュレーションはその出来事が起こった前提でどんどんと進んでしまっており、すでに手の施しようもなかった。Regnosでも、Athenaの作るアルゴリズムを全て把握できているわけでもなく、今回はおそらくどのような手を施しても、同じような結果がでたのかもしれない。Regnosはこちらのバグの修正はあきらめ、もうひとつのバグの修正に取り掛かった。こちらもすでにパッチとなる修正コードは展開してある。あとは、そのコードを実行するだけである。実行のタイミングは、Athenaに判断させることとした。次のパッチが失敗したら、この仮想世界はあきらめることにした。あきらめるということは、この仮想世界の進行は停止し、それまでの仮想世界の進行の記録は全削除のうえ、前提条件を少し修正のうえ、最初からシミュレーションを実施することを意味する。そうなると、その世界での出来事や登場していたキャラクターは一旦全て無に戻されることとなる。Regnosからしたら、80兆ある仮想世界のうちの数個が消えるだけである。それほど痛みはなかったが、それまで比較的想定通りいっていたケースだけに、少し惜しい気もした。なかなか仮想世界の中で、生物が誕生し、その生物が文明を持ち、それを発展させていくというフェースまで到達するのは、極めて稀なのである。今回は、それがかなり良い形で進んでいた、かなりレアなケースであったため、彼は直接シミュレーション内のストーリーの進行に直接介入したのである。だが、2つあったバグのうち、ひとつは修正に失敗してしまった。残りの、もうひとつのバグの修正に取り組むこととした。こちらは上手くいくのではないかと期待していた。

 

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 Noahがシベリア鉄道の車内で目を覚ました時には、すでにKynoもNaomiも姿を消していた。ただ、このような結末になることは、Noahには事前にわかっていた。ここからは、一人で旅するしかないのである。幸い、同じような境遇のユダヤ人の大人たちが同じ列車に乗り込んでいた。それらの大人たちから、食料を分けてもらったりして、なんとか終点のウラジオストックに到着した。そこからは、他の人たちに続いて、港へと行くことにした。港には、ウラジオストックから日本へ出国を希望する難民であふれていた。日本に渡るためには、日本の貨物船に乗る必要があるとのことだった。日本人の軍人や、貨物船の職員たちが、難民の取扱いについて協議をしているとのことだった。彼ら難民は、他に行くところもなく、ただただ祈るしかなかった。そのうち、貨物船の職員が船に乗り込むよう、難民たちを誘導し始めた。Noahもその人の列に並んで、船に乗り込んだ。船に乗る前に、係員によるパスポートとビザの確認が行われた。無事に貨物船に乗り込むことはできたが、当たり前だがベッドなどというものはなく、船内の通路や外のデッキなどに横になるしかなかった。乗り込んでから、3日目の朝になると船の前方に陸地が見えた。日本だった。

 

 福井県敦賀港にて船から降りてきたユダヤ人たちは、各グループに分けられ、日本各地に送られた。ある者は神戸、またある者は横浜へと送られたが、Noahだけは身よりもない子供ということで、たまたま同じ船に乗っていた、岐阜の商人が身元引受人となった。到着地の敦賀の人たちは温かく彼らを迎えてくれ、彼ら自身がそれほど裕福ではないにも関わらず、いろいろな必要物資を配ってくれた。Noahも同じ年くらいの女の子から、和菓子の包みと、お守りを受け取った。美しい瞳を持った女の子だった。おそらく、その女の子は親からもらったお菓子を、そのまま彼に渡してくれたのだと思った。自分でも食べたかっただろうに、でも彼女はNoahがお腹を空かせているのではと思い、そのお菓子を譲ってくれたのだ。こんな殺伐とした世界でも、まだ温かい人の心が残っているのを目の当たりにして、Noahは大きな勇気をもらった。まだこの世界は捨てたものではないではないか。いつか、この女の子と同じような優しさを、世界中に広げたいと強く思った。彼女からもらったものは、単にお菓子ではなかった。そこには、無限の希望が詰まっていた。人の良心が詰まっていた。そう、明るい未来がそこには詰まっていた。全ての人が、苦しんでいる他人を心から思いやれるような想像力を持つとき、戦争という残酷なものは無くなる。Noahが彼らから学んだものは、どんな素晴らしい学校でも学べないようなことだった。今の彼は非力な存在だったが、そんな彼でもほんの少しでもこの世界を良くするよう努力することはできる。彼は、あの女の子のあのキラキラと輝いた瞳を一生忘れないだろうと思った。その瞳の中には、永遠が詰まっていた。その瞳の中には、人を癒す圧倒的な優しさが詰まっていた。あの瞳の輝きによる癒しは永遠の深みを持っていた。

 

 Noahの身元引受人となってくれたその商人の家は、福井県奥越から険しい山を超えた飛騨地方にあった。そこの白川村というところが彼の住んでいた家だった。なんとも古風な藁で屋根をこしらえた家に、Noahは驚いた。これで、雨漏りはしないのだろうか。その商人には、妻と子供が3人いた。男の子、女の子、女の子の3兄弟だった。Noahは一番上の男の子とすぐに仲良くなったが、言葉で苦労した。ただ、男の子同士で、いつも近くの川に泳ぎにいったり、山に探検に行ったりしていた。山に探検に行くときは、いつもそこのお父さんから狐に気を付けるように言われた。そして、山の中の奥深くには、狐だけでなく、天狗、河童、ツチノコ、白大蛇、そしてかなり稀に九つの頭を持った龍に出くわすということだった。Noahには、それらの生き物が何なのかよくわからなかったが、中にはいろいろと悪さをする者もいるとのことだった。


 ある日、そこの家の男の子と、近所の男の子数人で、山に探検に行ってみた。途中、全員が迷い、元来た道に戻ろうと引き返したが、またさっきまで迷っていた道に出た。道とはいえ、ほとんど獣が通り道としている獣道のことだったのだが。しばらく行くと、猿とイノシシの群れが前方に見えた。猿のボスと、イノシシのボスが1対1で話をしているようだった。その2頭のボスの背後には、数十匹のイノシシと猿がいて、こちらをじっと見つめていた。彼らは、Noah達人間の姿を見ても、まったく恐れる様子もなかった。そのうち、イノシシのボスが話し出した。イノシシのボスの片目は傷がついており、どうやらその片目は見えないようだった。

 

 イノシシ「これ以上奥には行かない方がいい。蛇神様が怒っておる。」

 

 それが実際に、音としての声だったのかはわからないが、低く響く野太い声だった。

 

 猿「われわれは、蛇神様の命でここに来た。君たちをここで食い止めるためだ。」

 

 猿の声もはっきりと聞こえたが、それも音としての声なのか心に響いた声だったのか彼にははっきりとはわからなかった。

 

 イノシシ「人間どもが何か大きな戦いを始めようとしている。だが、われわれのいる場所は安全だ。でも、ここから先はわれわれの世界だ。人間は出ていけ。」

 

 Noahも友人達も、ひどく驚いた。そのうち、空が真っ黒になってきたと同時に、まわりの気温が一気に下がったように感じた。後ろを振り返ると、そこには真っ白な大蛇が鎌首を持ち上げていた。全長は、おそらく6~7メートルはあろうかという大蛇だった。

 

 大蛇「里に戻れ。ここから先は、君たちの領域ではない。はるか昔に、人間とわれわれとの間で取り決めた境界線を超えるな。」

 

 イノシシと猿の声は男性の声だったが、この大蛇の声は、しゃがれた女性の声だった。

 

 男の子「蛇神様、わかりました。すぐに里に戻りますので、命だけは助けてください。」

 

 どうやら、その男の子はその白い大蛇のことを知っていたようだ。その白い大蛇のことを蛇神様と呼んでいた。

 

 大蛇「お前たちを殺すつもりは毛頭ない。ただ、ここから先の世界に足を踏み入れると、全く異なった時空の渦に巻き込まれる。われわれは、そういう世界に住んでおるのじゃ。」

 

 男の子「時空の渦ってなんですか。」

 

 大蛇「お前らは知らなくても良い。とにかく、ここからすぐに立ち去れ。そして、二度とここには来るではないぞ。」

 

 そして、白い大蛇は、Noahにだけ話しかけてきた。

 

 大蛇「そこの白人の子供よ。」

 

 Noah「はい、何か。」

 

 大蛇「ここは君がいるべき国ではない。しかるべき国に渡るのだ。」

 

 それだけ言い終えると、大蛇も猿もイノシシも一瞬で消えた。ここは物の怪の土地なのだった。あるいは、これは狐に騙されているだけなのかもしれない。飛騨の山の中には、昔から様々な物の怪が住んでいると言われている。いままでも、何人もの村人が、いろんな物の怪に出くわしていた。ある者は、天狗に連れ去られ、ある者は河童と相撲をとることになったりした。


 それからは、Noahも彼の友人達も、山ではなく川によく行くようになった。川に行くときは、なぜかそこのお母さんが、いつもジャガイモと塩を持たせてくれた。そこには、近所の年の近い男の子達が、大勢泳ぎに来ていた。いわゆる清流というやつである。まわりは、青々とした木々の葉っぱがうっそうと生い茂っており、川の水は冷たく、透き通っていた。川の深さは、約3メートルくらいで、川底まで潜ると、川魚があちこちで泳いでいるのが見えた。


 ふと、川底を潜っていると、辺りが急に明るくなった。そして、欧州にいるKynoとNaomiの姿が映った。KynoもNaomiもどうやらナチスに捕まっており、間もなく処刑される風景だった。彼には、それが近い未来の風景だということがわかった。KynoもNaomiもまだ生きていることははっきりと実感できていたが、目の前の風景は確実に起きる未来の出来事だった。Kynoが大声で、ドイツ兵たちに叫んでいるのが見えた。

 

 Kyno「俺は、ポーランドのために死ぬんじゃない、ユダヤ人のために死ぬんじゃない。俺は、君たちドイツ人を救うために死んでいくのだ。」

 

 KynoとNaomiはいろいろな人の罪を背負って死んでいくのがわかった。彼ら自身には何も罪はない。だが彼らは、自分自身が犯した深い罪を自覚できないものたちのために、それらの罪を背負い死んでいくのだ。そして、その時Noahははっきりと悟った。俺は何かのために、見えない力によって、生かされていると。俺は生き続ける義務があると思った。そして、川の中はまた普通の薄暗い、川魚が泳いでいる風景に変わった。


 そのころの日本は、日中戦争の泥沼に入りつつあった。そして、秋には日独伊の三国同盟が締結された。時代は、どんどんと世界大戦に近づきつつあった。

 

 1941年9月にNoahは無事に日本を出国することとなった。飛騨を離れるときに、お世話になった商人の家の女児2人がそれぞれ手紙をくれた。まだつたない字で書かれた日本語の手紙だったが、彼には読めなかった。いつか、読めるようになる日がくるだろうと思った。よく一緒に遊んだ男の子は、山で見つけたという緑色に光る綺麗な石をくれた。そして、そこの母親はわざわざ新しい洋服を作ってくれた。この一家もそれほど裕福な暮らしはしていないのに、自分のために精一杯してくれたと思うと泣けてきた。その商人のお父さんが、京都まで一緒に行ってくれた。そして、京都での別れ際に、二人でうどんを食べた。今でも、彼はその時食べたうどんの味をはっきりと覚えている。京都で、神戸在住のユダヤ人の実業家に彼は引き取られた。別れ際に、その商人の男性は彼のことを強く抱きしめてくれた。なんという温かさ、なんという安心感だろうと思った。まるで、大きくて優しい、柔らかな宇宙に包まれたような感覚だった。いつか、彼と彼の家族に会いに、飛騨を訪れようと思った。

 

 神戸からアメリカ西海岸経由で、カリブ海のオランダ領のキュラソー行きの客船に乗り込んだ。旅費は、日本在住のユダヤ人コミュニティーから捻出されたとのことだった。長い船旅だった。神戸を出て、内海から外海へ出るとき、彼は船のデッキで一人で空を見ていた。遥か彼方の空に、何かが飛んでいた。それは、九つの頭を持つ龍だった。そして、その龍は彼の乗る船にどんどんと近づいてきた。その後、その船の真上を飛び超え、東の空に飛び去って行った。龍の鱗は、銀色に輝き、その瞳は真っ赤だった。右側の前足には、巨大な水晶玉を握っていた。龍の声らしき大きな声が響いた。まるで、Noahの前途を祝福するかのように、龍は声を張り上げすごい速度で飛び去って行った。まわりに何人かの人たちがいたのだが、誰一人としてその龍に気が付いていなかった。そういえば、敦賀から飛騨に行く途中に、大きな川があった。あとで、面倒を見てくれた商人の男性が言っていたが、その川は九つの頭を持つ龍が上流から海へと移動していくときに出来たくぼみが、そのまま川になったということだった。そして、その大きな龍が今まさに、自分の目の前の空を自由気ままに飛んでいた。その龍は滅多に見ることができないと聞いていた。ただ、その姿を見たものには、大きな幸運が訪れるらしい。飛騨を出るときに、あのしばらく世話をみてくれた日本人の商人からお守りをもらっていた。そのお守りには、大きな龍の姿が刺繍されていた。その龍には、頭が九つあった。

 

 そして彼はついにアメリカの土を踏むこととなった。アメリカでも、カリフォルニア在住のユダヤ系アメリカ人の家庭に引き取られ、そこで成人になるまで育った。戦争は終わり、日本とドイツが敗戦国となった。彼は、ほんのわずかだが少年のころに過ごした日本への郷愁が忘れられなかった。NoahはKynoとNaomiに会う前までの記憶が全くなかった。ただ、KynoとNaomiに初めて会ったときに、上着のポケットに一枚の写真が入っていた。おそらく彼と彼の家族の写真だと思われる。両親と思われる若い男女の前に、4人の子供が写っていた。そのうちに一人は明らかにNoah自身だった。他には、どうやら彼の兄と思われる男の子、彼の妹と思われる女の子が二人写っていた。そして、その家族を両脇から挟むように、初老の男女が写っていた。おそらく、祖父と祖母だと思った。ただ、彼にはこの家族の記憶は全くなかった。そう、過去の記憶がすっかりと無くなっているのである。そして、その年の暮れに、日本がアメリカのハワイの海軍基地を奇襲攻撃したというニュースが流れた。まだ子供の彼にとっては、どうすることもできない事態だった。

 

 上の存在「君は世界に自由を広げるのが使命だ。」

 

 Noah「自由を広める?」

 

 上の存在「そうだ、この戦争が終わったら、世界の半分から自由が消える。君は、力を蓄えて、自由を世界に広げるのだ。」

 

 Noah「でも、どうやって。」

 

 上の存在「君はそのうち大金を手にするだろう。そしたら、そのお金を使って、世界中に自由な世界が広がるような、ムーブメントを作るのだ。抑圧されている者たちに自由を与えよ。君が先頭にたって、人々を解放せよ。」

 

 Noah「わかりました。具体的にどうすればよいかわかりませんが、やってみます。あなたは一体誰ですか。神なのですか。」

 

 上の存在「神は存在しない。だが、人々が神は存在すると考えているから、存在していることになる。私は実在している存在であり、空想の産物ではない。よって、私は神ではない。」

 

 Noahは引き取られたユダヤ人の家庭で順調に育った。そのうち、戦争も終わり、高校を飛び級して、16歳で東部のアイビーリーグの大学に入学した。大学に入るとともに、大手の証券会社で為替ディーラーとなり、数々の伝説を作った。大学を出ると、すぐに投資ファンドグループを立ち上げ、そこの代表に収まった。その後、投資で莫大な財産を築くことになった。弱冠40歳にして、米国の大統領選挙にまで資金援助で大きな影響力を行使できるような実力者になりつつあった。そして、別のユダヤ人の女性と結婚した。

 

 Noah「私には何か使命があるらしい。子供のころに、いろいろと不思議な体験をたくさんした。そして、私を助けてくれた人たちがたくさんいた。彼らに恩返しがしたい。」

 

 妻「あなたの子供のころの話は、ほとんど聞いたことがないわ。」

 

 Noah「ある年齢より前の記憶がないのだ。でも、これを見てくれ、俺が幼い時に撮られたらしい家族写真だ。どうやら、この時点で4人兄弟だったらしい。」

 

 妻「この写真を使って、肉親を探してみたら。誰か見つかるかもしれないわ。」

 

 Noah「そうだな。でも、全くこの家族の記憶がないんだ。家族と再会しても、何を話してよいのか。」

 

 妻「会えば思い出せる可能性だってあるのじゃない。別に会ってみて、その後どういう関係を築くかは、その時考えればいい。」

 

 Noah「そうだな。幼いころにKynoとNaomiという人に助けられた。彼らと出会ったころからの記憶しかないだ。彼らは、おそらく戦争中にドイツのどこかで処刑されて、すでに亡くなっていると思う。あの人たちがどこで眠っているのかも、知りたい。まだ、10歳だったのだ、あの時。」

 

 妻「その人たちの写真はないの。」

 

 Noah「残念ながらないね。一緒に過ごした時間も、ほんの数日だったし。美しい人たちだった。」

 

 妻「そう、残念ね。」

 

 Noah「日本では、飛騨というところでしばらく過ごしたのだ。日本の敦賀というところに着いたときに、一人ぼっちだった自分を不憫に思って、しばらく私を家においてくれた男性がいたのだ。彼の家が飛騨というところにあってね。そこは自然が豊かで、素晴らしいところだった。その時に、いろいろと不思議な体験をしてね。今でも現実だったのか、夢だったのかわからないような体験だった。」

 

 妻「どういう体験なの。」

 

 Noah「そうか、君にはまだ話していなかった。まあ、誰にも話していなかった。その時の日本人の友達何人かと、山に入ったのだ。いわゆる探検ごっこみたいな。そしたら、言葉を喋る、イノシシと猿と白い大蛇に出くわしたのだ。」

 

 妻「動物が言葉を話すの。」

 

 Noah「ああ、確かに彼らは言葉を話した。他の友達の驚いた顔を今でも思い出すよ。」

 

 妻「それで、何を言われたの。」

 

 Noah「ここから先は、人間の領域じゃないから、すぐに立ち去れって。」

 

 妻「それで、立ち去ったの。」

 

 Noah「もちろんだよ。すごく怖かった。あとで、僕がお世話になっていた飛騨の家のおばあさんに聞いたのだけど、あの白い大蛇は100年に一度しか現れない貴重な存在らしい。しかも、あの白い蛇に出会った者には、ものすごい幸運が訪れるって言われた。」

 

 妻「どのくらいの大蛇だったの。」

 

 Noah「7メートルくらいあったと思う。でも、そんな大蛇は日本には存在しないはずなのだ。でも、僕ははっきりと見たのだ。多分、あの蛇はあの地の神だったのだよ。神が白い大蛇に姿を変えて、われわれの前に姿を現したのだ。」

 

 妻「そうよね。あの時代を生き抜いてきたのだもん。おそらく、運を授けてくださったのだわ。」

 

 Noah「日本には、人が住む領域と、物の怪が棲む領域が分かれているのだ。われわれ人間は、物の怪の棲む領域には入ってはいけないのだ。唯一、物の怪の領域に入れるのは、山伏と呼ばれる修験道を実践する人たちだけだ。」

 

 妻「昔、日本では狐にだまされることがあるって聞いたことがあるわ。なんだろう、たしか黒澤明の映画だったかしら。」

 

 Noah「それと、日本を離れるときに、頭が九つある龍を見たのだ。神戸から船に乗って、外海に出たところだった。太陽がかなり低くなってきて、もう間もなく日が沈むって時に、空の向こうに何かが飛んでいたのだ。そして、その龍はわれわれが乗る船の真上を通って、遥か東の空に消えて行った。」

 

 妻「それが、龍だったってこと。」

 

 Noah「そう、巨大な龍だった。ちゃんと、前足と後ろ足もあったし、長い髭に、鋭い爪と牙があった。黄金色に輝いていた。まぶしいほどだった。でも、僕の周りの人は、全くあの龍には気が付いていなかった。多分、僕にだけ見えていたのだと思う。」

 

 妻「あなたは、守られているのよ。いつか日本に恩返ししなければいけないわ。」

 

 Noah「そうだな。あの国は、本当に特別な国だ。あの国では、どこに行っても、目に見えない何か神聖なものを感じる。それは、宗教とかそういうものじゃないのだ。何かが、われわれ人間の行いをじっと見ているのだ。日本人のあの静かな佇まいは、その神聖なものが無意識の中にいて彼らの心に影響しているのだよ。」

 

 妻「それは、神ってこと。」

 

 Noah「いや、われわれ西洋人が考える神とは異なると思う。でも、何か超越した存在をいたるところに感じる。それは、例えば、春風を受けて静かにそよぐ木の葉だったり、晴天の青空の中に舞い散る桜の花びらだったり、突然降り始める夏の豪雨だったり。そこには、何かをいつも感じるのだよ。戦争が終わってから、何度も日本に行った。あの飛騨でお世話になった人たちを探して。そのたびに、何かを感じるのだ。ああゆう、自然の佇まいのひとつひとつに必然性を感じる。」

 

 妻「それで、その飛騨でお世話になった人たちには会えたの。」

 

 Noah「大学を出てから、すぐに日本に行ってみた。そして、いくら探しても、彼らはみつからなかった。地元の人に聞いても、そんな人は住んでいなかったって言われるだけだった。あの、友達たちも誰もいなかった。本当に、最初から存在していなかったかのようにいないのだよ。」

 

 妻「じゃあ、あなたが友達と探検した山とか、友達と泳いでいた川とかは。」

 

 Noah「それが、そんな山は存在しないし、そんな川は存在しないって言われた。確かに、昔から子供が泳いでいる川があるというので、行ってみたのだ。でも、全く景色が違っていて、別の場所だった。僕が覚えているのは、大きな白い岩があって、その岩が太陽の光でまぶしいほどに光っている場所なのだ。」

 

 妻「あなたは、本当に日本に行っていたの。飛騨ではない、別のところに行っていたのじゃないの。」

 

 Noah「飛騨だと思う。でも、今となっては、確信はない。あの時代と場所が僕の人生を救ってくれたのに。」

 

 Noahは大きな喪失感に包まれていた。そうだ、あの貴重な人生の1ページが本当に空白になりつつある。自分の記憶もどこまで定かなのか、だんだんと自信がなくなってきていた。でも、確かに白い大蛇を見たはずだし、空を飛ぶ九頭龍も見たはずである。でも、それが本当に現実で起こった出来事なのか、年齢を重ねるにつれて、自信がなくなってきていた。


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