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第25章 遣いの女

 もうすでに3日間も待っていた。その家に滞在している間、ずっと外は雨だった。100メートル先も見通せないほどの雨が降り続いた。家の周りは、嘘のように静かで、ひたすら雨の音しか聞こえなかった。それでも、3人は警戒しつづけ、夜でも灯りを使わないようにひっそりと息を殺して、家の中に滞在した。こんな世界で、本当に戦争が起きているなんて信じられなかった。Jayは自分を探して、追手が来るのではないかと、常におびえていたし、KynoとNaomiもゲットーを出て、こんなところにいるのを見つかったら、命はないと思っていた。Kynoは、そのうち遣いの女性が来ることを、二人にはすでに伝えてあった。その女性が、いつ、どのような形であらわれるのかは全くわからなかった。ただ、彼らは待つしかなかった。


 4日目にようやく雨が上がった。久しぶりの晴れやかな天気だったが、はしゃいで外に出るわけにはいかなかった。どこから、誰が監視しているかわからないからだ。その家には、ラジオもなかったため、外の世界で一体何が進行しているのか、彼らには知る由もなかった。まるで、全ての世界から、その家のある半径100メートルの範囲が切り取られて、別の世界にポンっと置かれたような感じだった。でも、そんなことがあるわけがなかった。

 

 Jay「遣いの女性って、いつごろ来るとか、何も情報はないのか。例のお前にだけ聞こえた声は何も言っていなかったのか。」

 

 Kyno「ああ、ここで待てということだけだった。」

 

 Naomi「待てと言われたのだから、待ちましょうよ。」

 

 Jay「そのうち戦争なんか消えてしまうかもな。そのほうがいいけど。」

 

 Kyno「そうだな。このまま何もなかったかのように、平和な世界に戻って欲しいよ。」

 

 その日は、かなり暑い日だった。大雨のあとの晴天ということで、非常に蒸し暑い日だった。家の中にあった水がなくなってきたので、仕方なくKynoが裏の井戸に水を汲みに出た。本当は、昼間に外に出るのは気が進まなかったが、仕方がなかった。外も中もうだるような暑さだった。井戸に行き、水汲みを始めて間もなく、背後に人の気配がした。KynoはJayが手伝いに来たのかと思い、後ろを振り返らずに言った。

 

 Kyno「ちょっと、この重労働代わってくれよ。」

 

 Maria「Kynoさん、もうJayさんは出発しましたわ。」

 

 いきなりの女性の声で、Kynoは驚いた。とっさに後ろを振り返ると、そばにあった鍬を構えた。

 

 Maria「Jayさんは、もう前準備のために出ました。」

 

 Kyno「あなたが、遣いの女性ってことですか。」

 

 Maria「ええ、Mariaといいます。」

 

 Kyno「Naomiは、Naomiは無事ですか。」

 

 Maria「Naomiさんには、先ほどご挨拶しました。」

 

 Kyno「そうですか。いきなりなので、びっくりしました。Jayはいったいどこに行ったのですか。」

 

 Maria「ベルリンです。彼には彼の任務がありますので。」

 

 Kyno「でも、彼が僕に何も言わないで去ってしまうなんて、信じられません。何があったんですか。」

 

 Maria「いえ、何もありません。彼は彼の任務のためにここを出発した。それだけです。」

 

 Kyno「わかりました。では、私とNaomiの任務は何でしょうか。われわれはもう準備はできております。」

 

 Maria「Naomiさんには、ここに残ってもらいます。Kynoさんには裏側の世界にいってもらいます。この世界とひと続きになった、裏の世界です。」

 

 Kyno「あの声が言っていたことですか。裏の世界がなんとかって。」

 

 そのことには、Mariaは何も答えなかった。

 

 Maria「この井戸から、裏の世界に行くことができます。」

 

 Kynoは黙って、井戸の底を覗き込んだ。10メートルくらい下に水面が見えた。こんな井戸の底が裏の世界につながっているなんて到底信じられなかった。

 

 Kyno「ここに飛び込めってことですか。」

 

 Mariaは表情を全く変えずに彼に言い放った。

 

 Maria「ええ、そういうことです。今しかバックドアが開いておりません。あと数分で閉まってしまいます。すぐに中に飛び込んでください。」

 

 Kyno「Naomiに一言・・・」と言いかけたところで、Mariaは口を挟んできた。

 

 Maria「早く、もう時間がありません。」

 

 Kynoには意味がわからなかった。でも、もう考えるのはやめた。Mariaの真剣な顔を見る限り、彼女が自分をからかっているとは思えなかった。初対面なのに、なぜか彼女の言葉には、自分を従わせる何かがあった。井戸の側壁に足をかけ、目を閉じて、足から井戸に飛び込んだ。すぐに着水するものと思っていたが、いつまでたっても、水に到達しなかった。それでも、ずっと落ちている感覚はあった。恐る恐る目を開けてみた。そこには、Jayが移動している様子が見えた。彼は列車に乗っていた。おそらく、ベルリンに向かう列車に乗っているのだろう。彼はすでに具体的に何をすればよいのか知っているのだろうか。Kynoは、まだ何をすればよいのか全く知らないまま、この井戸に飛び込んでいた。どうやら、Mariaの言う通り、この井戸はどこかにつながっているようだった。次に、Naomiの様子が見えた。彼女は、懸命に何かを紙に書き留めていた。彼女はいったい何を必死に書いているのだろうか。そのうち、以前見たことがあるような世界が彼のまわりに広がった。そう、あの電話ボックスで見た光景だった。それは、かすかな記憶だった。以前見たことがある記憶で、いつの間にか自分のなかから消されていた記憶。いや、あの時の自分は、今の自分と異なっていた。しかも、あの場所はドイツでもポーランドでもなかった。何か、アジアのような雰囲気の場所だった。でも、それをはっきりとは思い出せなかった。電話ボックス?電話ボックスって何なのだろうか。でも、確かにその言葉が頭の中の一番奥のほうにかすかに記憶されていた。彼は、何かものすごく重要で大きなひと塊の記憶を脳の一番奥深くにしまっているような気がした。でも、どうしても思い出せない。何か大きな力が、彼にその記憶を思い出させないように押し戻しているような感覚だった。そして、それとは別の世界の記憶もあったような気がしていた。それは、また全く別の世界での記憶だった。いくら思い出そうとしても、思い出せない。目の前には、暗黒の世界が広がり、あらゆる物が白い粒子のかたまりとして浮かんでいた。この粒子のかたまりは、絶対にどこかで見たことがあった。そのうち、Mariaの声で起こされた。

 

 Kyno「ここは?」

 

 Maria「裏の世界よ。あなたがさっきまで居た世界の裏側の世界。」

 

 確かに、目の前にさっきまで水を汲んでいた井戸があった。滞在していた家もそのままだった。この天気の良さも、この湿気の高い蒸し暑さも全く同じだった。

 

 Maria「さあ、ベルリンに行きましょう。」

 

 Kyno「ベルリン?一体何をしにベルリンに行くのですか。」

 

 Maria「ヒトラーを消すのよ。」

 

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 Jayは列車に乗って、ひとりベルリンに向かっていた。すでに、やることはわかっていた。ヒトラーを消すのである。他にも、ヒトラーを消すために同志がすでにベルリンに結集しているとのことだった。ヒトラーは明日の夜9時から、ベルリン市内の大学講堂にて演説を行う予定だった。Jayがヒトラーを消すとはいえ、それは殺害を意味するものではなかった。最初から存在しなかったように消すのである。彼の同志が一体誰なのか、彼には知る由もなかった。ただ、Mariaから指示された手順にしたがって、粛々と計画を実行するだけだった。

 ベルリンには、翌日の早朝に到着した。すでに今夜の演説会場はわかっていた。ベルリン市内は、人通りも多く非常に活気があった。町中のいたるところに、カギ十字の旗がはためき、町中の熱気はすさまじいものがあった。駅をあとにして、市内のホテルにチェックインした。すでに、ホテルは別名で予約されていた。彼は、ミュンヘンの富豪の息子で、熱狂的なナチス党員という肩書になっていた。その肩書のためか、ホテルの従業員達も、にこやかに応対してくれた。部屋に入り、シャワーを浴び、ルームサービスの食事を頼んだ。その後、しばらくベッドで眠ることにした。まだ、夜まで時間があった。彼の外見は、金髪に青い目、身長も高く、逆三角形の強靭な肉体をしており、まさにナチスが求める、アーリア人の青年の特徴を全て備えていた。だが、Jayの心の中は、ナチスへの怒りでいっぱいだった。彼は、ふとKynoとNaomiのことを思い出した。いつか、彼らと生きて会えるのだろうか。それでも、彼はこの仕事を成し遂げるためには、自分の命を懸ける覚悟だった。

 

 午後6時になり、計画通り、彼はホテルを出た。演説会場でのヒトラーの近くには、一般のナチス党員が取り囲むように配置される手はずになっていた。Jayもその中のひとりだった。午後7時には、演説会場に入り、あらかじめMariaから受け取っていた招待状を係員に渡した。ヒトラーが後ほど登壇する場所からは、ほんの数メートルの距離だった。会場の壁には、数多くの細長いナチスのカギ十字の旗が上の方から吊られていた。会場の中は、時間が経つにつれて、人がどんどんと入ってきた。もう中は、かなりの熱気だった。午後9時少し前には、ヒトラーの腹心達が演説台の後ろ側に整列していた。外は、SSによる警備がしっかりされており、ネズミ1匹さえも逃さないような警戒体制になっていた。さすがは、ナチスだなとJayは思った。このすさまじい規律、そつのない警備、ち密に計算された会場の雰囲気作り。この待ちわびた大衆の中に、ヒトラーがさっそうと登場して、ドイツの明るい未来を大衆に語りかけるのである。すでに演説が始まる前から、すべてち密に練られたシナリオ通りに事が進んでいるようだった。そして、午後9時を少し回ったころ、そうここに集った民衆の興奮度が最高潮に達したまさにその時に、ヒトラーは民衆の間にできた通路を通り、壇上に登場した。彼の後ろには、ヘス、ゲッペルス、ゲーリングなどの幹部が続いた。

 

 Kynoはこれが本当に裏の世界かと目を疑った。彼が井戸に飛び込む前の世界と全く同じではないか。壇上に搭乗したヒトラーはしばらくその熱狂ぶりを全身で受け止めていた。すぐには演説を始めず、その様子を真剣なまなざしで受け止めていた。ものすごい熱気だった。これほどまでに、ドイツの民衆はこの男に魅了されているのかと思うと、全身から寒気がした。きっと、元の世界では、Jayが同じ景色を見ているのだろう。彼の心の中も、同じような気持ちなのだろうと思えた。そう、彼らは、裏表の同じ世界で、同じ景色を見ていた。まさに、彼らふたりともが、ヒトラーから数メートルの場所で、まさに彼が演説を始めるのを待っていた。それと同時に、彼らはその一瞬の機会を待ちわびていた。これに失敗したら、ドイツは更に東に攻め込み、大勢のユダヤ人が殺害される世界になってしまうのである。ユダヤ人のみならず、彼らに洗脳されているドイツ国民、そして攻撃の対象となっているソ連国民、その他大勢の欧州の罪のない人々が無駄に殺されてしまうのだ。ヒトラーが存在することで、この世界は悲惨な世界になってしまうのである。彼らは絶対に彼の消去を成功させる必要があった。

 

 Mariaが言っていた同志はいったいどこにいるのだろうか。Jayには誰が彼の同志なのかわからなかった。とはいえ、もう同志がここにいるかいないかは、もはや問題ではなかった。Jayにとっての同志は、Kynoだけであり、それは逆も同じだった。Naomiはどこで何をしているのだろうか。いや、もう彼女のことも今は何も考えられなかった。Jayの手の中にも、Kynoの手の中にも、小型の銃が握られていた。それは、あらかじめMariaから渡されていた銃だったが、いわゆる銃弾が飛び出て人を殺害するための銃ではなかった。それは、その銃で撃たれた者が、反対側の世界の同じ人物と結合し、まさに無になってしまう銃だった。以前、上の存在がKynoに話していたことが起きるはずであった。そう、1とマイナス1を結合させると0になり、その人物は無に帰すのである。しかも、その銃で消された人物は、まるで最初からこの世の中に存在しなかったことになってしまうとのことだった。ということは、ここでヒトラーをその銃で撃つと、ヒトラーは一瞬にして消え、ヒトラーが存在しなかった世界が一瞬にして登場することになっていた。Mariaからは、チャンスは1発のみで、JayもKynoも同時にヒトラーを打ち抜くことが必要だと聞かされていた。タイミングは一度切りだった。大衆からの歓声を抑えるように、ヒトラーが両手で少し落ち着くようにジェスチャーをした。そのうち、ざわめいていた大衆の声が、だんだんと静かになっていった。それを見届けたヒトラーは、大きく息を吸い、まずは第一声を放とうとしたその時、JayもKynoも銃を前に掲げ、ヒトラー目掛けて引き金を引いた。距離から言っても、外すはずがないはずだった。その時だった、ヒトラーが彼らの方を見た。ヒトラーの目は人間の目ではなく、瞳は真っ赤で縦長の瞳孔が開いていた。まるで、爬虫類のような目をしていた。弾丸がヒトラー目掛けて放たれた。その瞬間から、KayもKynoも意識が無くなっていた。そう、ものすごく強い衝撃が頭に加えられたようだった。

 


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