↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/31

第17章 火星から欧州へ(仮想世界C)

 Naomiはいつものように部屋で目を覚ました。朝かと思ったが、まだ深夜の3時過ぎだった。強烈に喉が渇いていた。いつものように、冷蔵庫からボトルの水を取り出し、喉を鳴らして飲んだ。なんだろうか、異様に喉が渇いていた。そして、部屋の奥に光る印が視界に入った。驚いたことに、あの神社で手をかざした石灯籠がそこには建っていた。そして、あの例の印が青白く不気味に光っていた。Naomiはその時が来たと悟った。そう、あの重要な役割というものを果たすときがきたのである。もうかなり以前から、その時がいつかくることはわかっていた。そして、それがとうとうやってきた。何も慌てる理由もなかった。いずれにせよ、その試練を乗り越えないと、元の世界には戻れないのである。Naomiは以前行ったように、石灯籠の青白く光る印に両手をかざした。そして、ゆっくりと目を閉じた。ゆっくりとだが、体中から徐々に力が抜けてきて、体が中に浮かぶような感覚におそわれた。目を開けようとしたが、目を開けることができなかった。いや、目は開いていたのだが、周りがあまりにも暗すぎて、そのことを認識できなかっただけかもしれない。心を落ち着けるため、心のなかで念仏を唱えた。いつも、父親から言われていたことである。体が浮いたような感覚とともに、ずっと沈んでいくような感覚にも襲われた。互いに相反するような感覚に同時に襲われた。だんだんと温度も音も触感も感じなくなってきた。そうだ、私は次の旅に出るんだと感じた。Evieのことが急に頭に浮かんだ。急に自分が消えたら、絶対にEvieは心配するだろうと思った。Evieのことを考えると、なにか心が痛くなってきた。それに火星政府の人たちにもたくさん世話になったのに、何もお礼も言えなかった。彼らのことを考えると、急に寂しくなってきたが、もう動き出したのである。心を強く持って、前に進むしかないと思った。そう、そのうちKynoやJayにも会えるような気がしてきた。そう考えると、なぜかさっきまで少し弱気だった心が持ち直してきた気がした。

 

 上の存在「時間だ。君を必要としているところに行ってもらう。行き先に着いたら、使命を果たすために働いて欲しい。」

 

 Naomi「使命ってなに?何をすればいいのですか?」

 

 上の存在「行けばわかる。KynoとJayはすでにその場所と時間に行っている。君は、そこに加わればいい。」

 

 Naomi「わかりました。そこで使命を果たさなければ、元の世界に戻れないってことですね。私には何も選択肢がないってことですね。」

 

 上の存在「今は残念ながら、そう言わざるを得ない。君は君の友人達と、あるバグを修正してきてもらう。バグはふたつの異なる世界に別々に存在している。君たちの感覚で言えば、そのふたつの世界は、時代も場所も全く別々のところだ。」

 

 Naomi「ふたつの世界?それらの世界に順番に行って、何か問題を片づけるの?」

 

 上の存在「いや、同時に働いてもらう。君は、移動しているが、移動していない。」

 

 Naomi「どういうことですか。移動しているが、移動していないって?あきらかに移動している感覚があります。」

 

 上の存在「そのうちわかる。」

 

 Naomiの体は、何度も細かい粒子に分解され、またそれが集合して元の体に戻るということを何度も繰り返した。彼女にははっきりとした意識があったが、自分の体が一体どうなっているのか上手く把握できなかった。完全に意識と肉体は分離しており、肉体がどこにあるのか、どのような状態なのか全く知りようがなかった。ただ、ものすごい速度で空間を移動しているような感覚があった。いったい、どこに行かされるのだろうか。Naomiはもう覚悟を決めた。なるようになるだろうと思った。いずれにせよ、この行き先には、KynoもJayもいるはずである。彼らと合流すれば、なんとかなるだろうと思えてきた。そのうち、彼女の意識はすさまじいほどの白い光に包まれたようだった。そして、徐々にだが、彼女のさまざまな感覚が戻りつつあった。


 強烈な寒さが彼女を襲った。そのうちいろんな人の声が聞こえてきた。最初は遠くから聞こえているような声だったが、だんだんとそれらの声は彼女に近づいてきた。激しい怒号と、悲鳴だった。そして、次に襲ってきた感覚は、強烈な空腹感だった。喉も渇いているようだった。気がついたら、男性の手を引っ張って、うっすらと積もった雪の上を走っていた。あの、以前大病を患っていた時に見た夢の風景だった。相手の男性を見た。彼は間違いなく、あの夢で見た男性だったが、彼が姿形を変えたKynoだということがすぐにわかった。Kynoの上着には血がべっとりついており、彼は負傷しているようだった。後ろを振り返ると、数名の兵士が彼らを追ってきていた。殺す意図はなさそうだが、どうやら彼らを生け捕りにしようとしているようだった。自分の身につけている服を見てみたが、胸にはあの印がついていた。Jayの姿は見えなかった。彼も、おそらく日本人の外見とは異なる外見に変わっているはずである。でも、おそらく見ればすぐに彼がJayだということはわかるはずである。とにかく、まずはKynoをなんとかしなければならなかった。傷の深さはわからなかったが、すぐに処置しないととんでもないことになりそうだった。彼ら以外にも、かなり大勢の人たちが逃げているようだった。追っての数もどこからか増援が来たようで、人数が増えているようだった。もう、Kynoの体力は限界だった。

 

 Kyno「いいから、お前だけでも逃げてくれ。」


 やはり、Kynoの手を握っていたのはNaomiだった。やっと会えたというのに、一体ここはどこなんだ。俺たちは何をしているのだ。とにかく、ここは逃げなければならないと自分の本能が叫んでいた。Naomiも必死に逃げようとしている。NaomiはNaomiなのだが、Kynoが知っているNaomiではなかった。そう、あの川底で見たあの欧州と思われる映像に出てきたあの若い白人の女性だった。ということは、自分はあの白人の男性の姿をしているのだろうか。Naomiを見ると、粗末なベージュ色の服を着ていた。胸には、あの三角形をふたつ上下に重ねた印が書かれていた。俺たちは追われているのか。どんどんと、Kynoの頭のなかに、この世界での記憶がよみがえってきた。そうだ、俺たちはワルシャワのゲットーから逃亡しようとしているのだ。ドイツ兵に捕まったら、確実に殺される。逃げなくては。早く、逃げなくては。

 

 Naomi「だめ、もう少し頑張って。」

 

 Kyno「捕まったら、強制収容所行きだぞ。おまえは、絶対に彼らに恥辱されたうえに、殺される。早く俺に構わず、逃げろ。」

 

 兵士①「動くな。両手を頭の上に置いて、うつぶせになれ。」

 

 KynoとNaomiはワルシャワのゲットーから逃亡を企てたが、結局ドイツ兵に捕まることになってしまった。すでに、ポーランドという国は消滅しつつあり、各地でレジスタンスが散発的にドイツ軍との戦闘を行っていた。いずれにせよ、状況は極めて悲観的で、ソ連も西側諸国も支援の手を差し伸べてくれる気配はなかった。ドイツ軍は極めて強力で、ポーランド一国では対抗のしようもなかった。しかも、ポーランドは東からはソ連から攻め込まれ、2つの国に占領、分割されてしまった。そう、あっという間の出来事だった。


 ポーランド国内、特にワルシャワには数多くのユダヤ系市民が暮らしており、ドイツ軍は収容所の建設を終えるまでの期間は、ワルシャワの一区画をゲットーとして、ユダヤ系市民をその区画に閉じ込めていた。彼らは、ダビデの星が右胸に書かれた粗末な上下の服を着させられ、一目でユダヤ人だとわかるようにされていた。よって、ゲットーから逃亡しても、その服を着ている限り、すぐに見つかってしまうのである。そのうち、強制収容所の存在が知れ渡ると、ゲットー内に大きな動揺が広がっていた。KynoもNaomiも、同じ年の幼馴染だった。二人とも、19歳とまだ若く、前途ある若者たちであった。しかし、この最悪の境遇からは、簡単には抜け出せそうになかった。

 

 Kyno「どうやら、彼らはわれわれを根絶やしにするつもりだ。おそらく女性には、不妊手術も施すかもしれない。」

 

 Naomi「ここに居ても、遅かれ早かれ殺されてしまう。なんとか、ここを出る手段を考えようよ。」

 

 Kynoの家族も、Naomiの家族も、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、全員が行方不明になっていた。それほど、ドイツ軍の侵攻は素早く、あっと言う間にワルシャワは占領されてしまった。もはや、西に行っても、東に行っても、彼らは逃げられるところはなかった。遥か遠く離れたアメリカへ行けば、なんとかなるかもしれなかったが、あまりにもアメリカまでの距離は遠かった。

 

 Kyno「でも、ここを出てもどこへ行くって言うんだ。西にはドイツ軍、東にはソ連軍、どこにも逃げ場所はないんだぜ。」

 

 Naomi「それはわかっている。でも、ここにいたら、遅かれ早かれ殺されるのを待つしかないのよ。」

 

 Kynoには、もうひとり幼なじみの友人Jayがいたが、その友人はポーランドに住んでいたドイツ人だった。彼は、数年前に家族とドイツに帰国したが、郵便が機能している間はお互い手紙のやりとりをしていた。Jayからの手紙によると、ドイツでもナチスが台頭しつつあり、どんどん言論の自由さえも失われているようだった。だが、ある時を境に、彼からの手紙は途絶えた。彼はおそらく検閲を恐れているようだった。ナチスには批判的だった彼だったが、時代のこの大きな流れには逆らえなかったのだろう。Kynoにはなぜか、彼の考えていることが手に取るようにわかった。Jayはそのうち、彼らの前に姿を現すと確信していた。

 

 Kyno「わかった、何かプランを考えよう。西に行けば、俺の親友のJayがドイツにいるが、敵の真ん中に飛び込むようなものだ。」

 

 Naomi「でも東に行っても、ソ連がわれわれを保護してくれるとは思えない。どうする。」

 

 Kyno「南はオーストリア、北はデンマーク、どちらもナチの手にすぐ落ちるだろう。」

 

 Naomi「スイスに逃げるのはどうかしら。」

 

 Kyno「スイスか。ドイツはスイスには攻め込まないだろうか。この勢いだと、いくら中立国とはいえ、ドイツが攻め込まない保証はどこにもないな。」

 

 Naomi「スウェーデンはどう。あそこも中立国よ。」

 

 Kyno「むずかしいだろうな。海を越えなければいけないし、デンマーク経由になる。デンマークはすでにドイツの手に落ちているって話だ。」

 

 Naomi「次、逃亡に失敗したら、絶対に殺される。おそらく、次はゲットーに戻される前に、処刑されるわ。」

 

 Kyno「ああ、あの時の何人かは、逃亡途中で殺された。なぜ、俺たちだけ生きてゲットーに戻されたのかわからないが、運がよかったのかもしれない。」

 

 Naomi「腕の傷はどう?」

 

 Kyno「足でなくてよかったよ。まだ傷は痛むけど、腕が負傷していても、走ることはできる。」

 

 すでにワルシャワのゲットー内では、チフスが蔓延しており、ドイツ軍への恐怖とともに、この恐ろしい病気への恐怖も人々に広がっていた。誰の目から見ても、この異常な状態から逃げ出さないと危険だった。これから、欧州はいったいどうなってしまうのだろうか。誰にも予想がつかなかった。時は、1940年の初頭だった。すでにドイツ軍は西部戦線で連戦連勝を続けており、どこからか聞こえてきた噂によると、フランスがすでに降伏したとのことだった。あの大国フランスが、ほとんどまともな戦いもすることなく降伏したということが彼らには信じられなかった。これから、もっと戦線が拡大していくのではと思われると同時に、自分達の運命がどうなるのか、彼らにはわからなかった。イギリスはまだ海の向こうにあるため、強力な海軍力でドイツの侵攻を食い止めていた。だが、西部戦線をイギリス一国だけで持ち応えることができるだろうか。すでに、ソ連はドイツと不可侵条約を結んでいたため、ソ連からの圧力も無いなか、ドイツは周辺の小国を次々と飲み込んでいった。


 ドイツ国内では、ヒトラーの政治手腕と戦争の成果に国中が沸いていた。ほんの数年前まで、第1次世界大戦の敗戦国として、悲惨な経済状況にあったのが、まるで嘘のような勢いだった。ヒトラーが政権についてから、ドイツ政府は積極的に、国内経済に介入を続け、フォルクスワーゲン社の設立による大衆車の普及、アウトバーン建設による国内流通網の整備、各種軍需産業の育成などを成し遂げた。特に、これらの政治・経済的施策による、国内の失業者救済策は大成功し、国内経済は活況を呈していた。そこに加わり、第1次世界大戦で辛酸を舐めさせられたドイツ軍が、各前線で連戦連勝していることにより、ますます国民のヒトラー崇拝が盛り上がりを見せていた。すでに、宿敵フランスを敗戦に追い込み、ヒトラー自らパリ入城を果たしており、世界でも大きなニュースとして報道されていた。オランダ、ベルギー、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、デンマーク、ノルウェーなどが、ナチスの手に陥りつつあった。おまけに、アメリカが欧州の戦争には干渉しないつもりであることは明白だった。となると、ドイツを止めることができる国は、イギリスくらいしか残っていなかった。しかも、イタリアはドイツと同盟を結んでおり、欧州大陸全土がドイツに征服されるのは時間の問題だった。

 

 Kyno「フランスが降伏したらしい。もう、オランダも、ベルギーも、チェコやポーランドも飲み込まれてしまった。このままでは、どこからも助けは来ない。」

 

 Naomi「もうこのゲットーを出て、とにかく遠くへ行きましょう。ここにいても、チフスに殺されるか、飢えで死ぬか、どちらかだし。」

 

 Kyno「Jayになんとか連絡を取れないか、試してみる。」

 

 Jayは今頃、どこで何をしているのだろうか。彼もドイツ軍に入隊してどこかの戦線で戦っているのだろうか。Kynoには、彼に頼りたい気持ちがある一方、彼のことが心配だった。他人を心配している状況ではなかったが、せめてこのまま死に行くのなら、最後に親友の顔を見たかった。でも、まだ彼は諦めていなかった。なんとか、この状況を抜け出す道があるはずである。

 

 Jay「俺はドイツ軍に入隊した。今は、ヒトラーを暗殺するための仲間を集めている。」

 

 Kynoの頭の中に、Jayの声が響いた。いや、気のせいだろうか。でも、たしかに聞こえてきた声はJayの声だった。

 

 Kyno「今、Jayの声が聞こえたが、お前にも聞こえた?」

 

 Naomi「Jayは、ドイツにいるんでしょ。何も聞こえなかったわ。」

 

 たしかに、ドイツ人の彼が、こんなワルシャワのゲットーの中に居るわけがない。彼はドイツ国内にいるはずである。

 

 Jay「とにかく時間をかせげ、時が来たら、お前に合図を送る。それまでは、なんとか生き延びろ。」

 

 やはりJayの声だった。そうか、彼はKynoに声を送っていたのだ。それにしても、不思議な現象だった。遠方にいる友人の声が頭の中の声として聞こえるなんて。そのころには、KynoもNaomiも未来の日本から、虚無の空間を経由してここにやってきたという記憶はすっかりと無くなっていた。彼らは、何かすごく重要な記憶が失われていることは感じていたが、それが一体何なのか全く思い出せなかった。何かが記憶からストンと消えているのである。その違和感は、KynoにもNaomiにもあったが、具体的にそれが何なのかが全くわからなかった。わからないのではなく、思い出せないのである。KynoはNaomiにそのことを伝えてみたが、Naomiも同じような違和感を感じていることがわかった。それは、一体何なんだろうか。いつの間にか、人格が入れ替わったような感覚だった。ほんの数日前まで、別の人生を別の人格で送っていたようなかすかな感じがあった。でも、それが何なのか、具体的に表現できなかった。なにか、すごく遠いところから、このワルシャワのゲットーにやってきたような気がするのだが、それと同時に、ずっと幼いころから、ここポーランドで生まれ育ってきたはっきりとした記憶もあった。世界の東の果てでも、戦争が起きていた。まだ欧州が戦争に巻き込まれる前から、日本は中国と戦争をしていた。そして、なぜか日本という見たこともない、行ったこともない国に強く魅かれるものがあった。なんなんだろうか、この日本に対する強い感情は。しかも、日本は彼らの敵であるドイツの同盟国だった。とにかく、KynoはJayからの合図を待つことにした。時が来れば、Jayから合図がある。それが何の合図なのかわからないが、それを待つべきだと彼は思った。Naomiにもそのことを伝え、しばらくはゲットーの中で目立たないように潜伏することにした。


 ゲットーでの生活がしばらく続いた。KynoとNaomiは相変わらず、Jayから連絡を待ったが、その後は何も合図らしきものはなかった。そのうち、ゲットー内のユダヤ人が毎日数十名〜数百名という単位で、どこかへ移動されていった。いよいよ、噂で聞いている、強制収容所行きなのかもしれなかった。KynoとNaomiはかなり焦ってきた。

 

 Kyno「このままだと、俺たちもやばいことになる。」

 

 Naomi「Jayからの連絡はまだなの。なにか合図を送ってくるって言ってたじゃない。」

 

 Kyno「いや、まだ何も合図はきていない。もう時間がない。ここから、抜け出そう。」

 

 Naomi「どこに行こうと言うの。」

 

 Kyno「東に行こう。西はほぼドイツに占領されている。まだソ連に入って、さらに東に行けばなんとかなるだろう。ソ連国内に、ビロビジャンというユダヤ人の自治州があるって聞いたことがある。」

 

 Naomi「そこはシベリアなの。」

 

 Kyno「シベリアの向こうだ。もう中国との国境沿いにある小さな州だ。」

 

 Naomi「でも、ソ連には入国できないでしょ。」

 

 Kyno「いや、何か策はあるはずだ。とにかく、ここを出よう。」

 

 数日間の間、かれら二人は隠し持っていた衣服、ありったけの現金、途中で金に変えられそうな物をかき集めた。通常は、ゲットー内にはドイツ兵が入ってくることはなかったため、比較的旅立ちの準備は順調に進んだ。問題は、周囲のユダヤ人に怪しまれないように振舞わなければならないことだった。ドイツ人からの監視よりも、ユダヤ人からの監視の方が恐ろしかった。数日間、深夜のゲットー内を見回り、警備が手薄な箇所を何箇所か見つけておいた。そして、いざという時のために、賄賂に使えそうな品物をいくつか小さなカバンに押し込んでおいた。実行日時は、雨の日の深夜を選んだ。すでに準備を整え、数日間雨が降る深夜を待った。ゲットーの外では、あらかじめ知人のポーランド人が車を手配しておいてくれる手はずになっていた。5月のある夜、その日の晩は午後9時過ぎから、激しく雨が降り出した。ここで決行することにした。

 

 Kyno「ゲットーの南側の例の建屋内から外に出る。以前、下見したとおりだ。」

 

 Naomi「わかった。」

 

 その建物は、北面がゲットーに面しているのだが、南面の非常ドアだけが、なぜかゲットー外の道路に通じているため、建屋内を移動し、その非常ドアを出れば、ゲットーの外に出られるのである。

 

 Kyno「あの建物の管理人はすでに買収してある。南側の非常ドアの施錠は外されているはずだ。」

 

 Naomi「わかった。それにしても、激しい雨ね。」

 

 Kyno「音を消すにはちょうどいいよ。」

 

 ゲットー内の移動はそれほど問題はなかった。ユダヤ人の警備員が時々ゲットー内を巡回していたが、彼らの巡回ルートはあらかじめ確認してあった。問題は、外の様子が全くわからないため、外に出た後は、それこそ出たとこ勝負になってしまうのである。偽造パスポートも準備した。これで出来ることは全てやった。

 

 Kyno「さあ、行こうか。目立たないように、少しお互い距離をおいて歩こう。」

 

 Naomi「わかった。」

 

 Kyno「途中で怪しい者があとをつけてきたら、二手に分かれて、元の場所で落ち合う。いいな。」

 

 Naomi「わかった。」

 

 二人は、少し距離を置いて、ゲットーの南側にある建物に向かった。そこまでは、徒歩で10分程度だった。そして、一人ずつ建物の中に入っていった。建物の中は真っ黒で、まるで時間が止まっているような静けさだった。ここは、一体何に使われている建物なのだろうか。Kynoはなるべく足音をたてないように、ゆっくりと静かに廊下の隅を進んでいった。ずっと建物の1階を縦断するように歩き、廊下の正面のドアを静かに開けた。ドアは問題なく開いた。Naomiを呼び寄せ、そのドアを通り、建物の南面にたどり着いた。そこには、南面の非常ドアがあった。ここの管理人に鍵を開けておくよう、あらかじめ彼を買収してあった。緊張した面持ちで、Kynoはドアに手をかけ、ドアノブを回した。鍵はかかっておらず、ドアは静かに開いた。ドアを5センチほど開けて、その隙間から外を見てみた。通りには、人っ子一人おらず、相変わらず激しい雨が降り続いていた。素早く、ドアの外に出て、静かにドアを閉めた。ここまでは、順調だった。その後、車が置いてある通りまで、歩いていくことにした。途中で、何人かの住人とすれ違ったが、特に問題はなかった。5分ほど歩いたところに、予定どおり車が停めてあった。左前タイヤの後ろ側に手を入れると、車のキーが挟んであった。そのキーを取り出し、まずは後部トランクの中を確認した。巧妙に、ウォッカ、タバコなどがいくつか隠してあった。これらは、検問をくぐるために必要なのだった。車のドアを開け、二人で静かに乗り込んだ。念のために、後部座席も確認した。車の中には、タオルと着替え、その他食料が少々積み込まれていた。とにかく、郊外に出ようと考え、早速車を出した。燃料は満タンで入っているようだった。いろいろと慎重に事前準備をしただけあった。ここまでは、かなりスムーズに事が運んだ。問題は、ソ連が占領しているポーランドの東側にどうやって入るかだった。おそらく、ソ連側も、そこを自国の勢力圏ということで、ある程度ドイツのことを警戒しているはずである。偽パスポートはポーランドのパスポートだったが、あえて本籍地をポーランドの東側の小さな村にしておいた。仮にソ連兵に見つかっても、自分の田舎に帰るところだといいわけができると考えたのである。


 静かに車を出し、とにかく東へ向かった。時々検問があったが、持っていたウォッカを渡して、なんとか通過することができた。のどかな田園地帯を走っているうちは、本当に今まさに戦争が起きているなんて思えないほど平和で静かだった。ときどき、草を食む牛の群れも見えた。破壊されている家もほとんどなく、本当にここはソ連に占領されているのだろうかと思えてきた。とはいえ、ここは戦時下の欧州である。あまり気を抜いてもいられなかった。常にふたりとも、周囲に目を凝らし、何か怪しい動きがないか注視しながら移動した。半日ほど走っただろうか、Naomiは疲れているようで、ウトウトとしていた。Kynoがふと後部座席に目をやると、そこにはなぜか8歳くらいの男の子が座っていた。Kynoは心臓が止まるかと思うほど、驚いた。いつの間に、車に乗り込んだのだろうか。いや、車に乗り込む前は、後部座席も確認したし、後ろのトランクの中も確認したはずだった。そっとNaomiを起こし、後ろの座席を見るように目で合図をした。Naomiも大きく目を見開いて、驚いているようだった。しばらく走りながら、その少年の様子を見ていたが、特に暴れるでもなく、声を出すでもなく、大人しくじっと座っていた。このまま彼のことを何もわからないまま乗せておくのも気味が悪かったため、車を路肩に停めて、とりあえずその子供に事情を聞くことにした。子供の名前は、Noahといい、年齢は10歳だということだった。どうみても、10歳には見えなかったが、やはり栄養が行き届いていないため、あまり成長できていないようだった。

 

 Kyno「君はどうやってこの車に乗り込んで来たんだい。われわれが車に乗る前から、車内に隠れていたのか。」

 

 Noah「わからない。」

 

 Naomi「どうやって車に乗ってきたのか、覚えていないの。」

 

 Noah「わからない。」

 

 何を聞いても、わからないを繰り返すだけだった。名前と年齢だけはすぐに答えたのだが、その他のことは全く聞き出せなかった。

 

 Kyno「どこか連れて行って欲しいところがあるのか。」

 

 Noah「ある。」

 

 どうやら、目的地はあるようだった。

 

 Kyno「わかった。どこに行きたいんだ。もし可能なら、僕たちが連れて行ってあげる。」

 

 Noah「カウナス」

 

 Kyno「カウナス?あのリトアニアのカウナスか?」

 

 Noah「そう、カウナス。」

 

 Naomi「パスポートは持っているの?」

 

 Noah「ある。」

 

 彼はポーランドのパスポートを持っていたが、名前から推測するに、彼もまたポーランドに住んでいるユダヤ人のようだった。それにしても、一体カウナスに何があるというのだろうか。この子の親族でも住んでいるのだろうか。ただ、バルト三国も近いうちにソ連の手に落ちるのは間違いなかった。すでにソ連はポーランドの東半分を占領しており、バルト三国の運命は風前の灯火のような事態だった。ただ、ソ連に直接行くよりも、リトアニアに行く方が、まだ生き延びるチャンスは大きいかもしれないと思えてきた。

 

 Kyno「あの子がカウナスに行きたいと言っている。何かしら伝手でもあるのかもしれない。直接ソ連に行くよりも、一時的にカウナスに滞在して情報収集するのも悪くないと思うのだが。」

 

 Naomi「そうね。カウナスなら、いくつかの国の領事館があるだろうから、上手くいけばビザを入手できるかもしれない。」

 

 Kyno「これも何かの導きなのかもしれない。とりあえず、カウナスに行ってみよう。」

 

 ポーランドからリトアニアまではそれほど遠くはなかった。彼らがポーランドとリトアニアの国境に着いたときは、すでにソ連兵が国境に配備されていた。パスポートを見せ、またもやウォッカとタバコでなんとか国境を越えることが出来た。そして、カウナス市内に到着した。町の中には、ポーランドから逃げてきた他のユダヤ人が大勢いた。そして、彼らからの情報によると、どうやらソ連領内のシベリア鉄道でウラジオストックまで行き、そこから日本の敦賀まで船で行けば、そこからオランダ領のキュラソーというカリブ海の島へ船で行けるらしい。ただ、障害となっているのは、日本領事館から日本の通過ビザを取得しなければならないことだった。おまけに、日本はドイツの同盟国である。そんな国がビザを出してくれるとは到底思えなかった。そのうち、ソ連がリトアニアに侵攻し、あっという間に占領してしまった。ソ連政府から各国政府に、すぐに旧リトアニア国内にある大使館、領事館から撤収するよう通達が下った。日本国領事館も例外ではなかった。KynoとNaomiは焦った。すぐに、3人分のパスポートを持って、日本領事館へ行ったが、ビザを求める人たちでごった返していた。当初、ビザの発行に慎重だった日本国領事だったが、そのうち人道的な観点からか、ビザを発給するようになってきた。ただ、ビザを求める群衆が多すぎて、Kyno達3人のビザの発給はまだなされていなかった。事態は切迫していた。いくら、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいるとはいえ、ドイツにとってすでに西部戦線が片付いた今、次は東に侵攻してくる可能性は十分考えられた。そのうち、日本国領事館の担当者が避難民のパスポートを集めだした。3日後にビザを記載したパスポートを返却するとのことだった。Kynoはなんとか3人分のパスポートをその担当者に預けることに成功した。あとは、運を天に任せるしかなかった。

 

 3日後に日本の通過ビザが記載されたパスポートが返却されてきた。これで、彼らはここを抜け出せそうだった。彼らは、3人分のシベリア鉄道の切符をなんとか入手し、まずはモスクワに向けて列車でカウナスを後にした。モスクワで、ウラジオストク行きのシベリア鉄道に無事乗車し、東へと出発した。彼らは幸運だった。結局、ビザをもらえなかった者も数多くいたということだった。暗い時代だった。KynoはNaomiとNoahを連れて、なんとか東へ向かうことができた。ここからは、約7日間の旅であった。

 

 上の存在「君たちは、まだ仕事を終えていない。」

 

 深夜の車内は静まりかえり、列車の走る音だけが聞こえていた。外は漆黒の闇に包まれており、まるで長いトンネルを走り抜けているようだった。空は曇っているのか、月も星も全く見えなかった。Kynoは寝苦しいなかで、誰かの声を聞いた。心の一番底にかすかに記憶している、あの男性の声である。最後に彼の声を聞いたのが、いつだったのか、どこで聞いたのか、その時何を言われたのか、全く彼には思い出せなかった。でも、確かに彼の声だ。

 

 Kyno「仕事ってなんだ。」

 

 上の存在「君たちには、ふたつの大きな戦いを止めるという仕事が残っている。」

 

 Naomiが目を覚ましたようだった。ただ、彼には目が覚めているのか、夢のなかでその声と会話しているのか、わからなかった。Naomiに関しても、Naomiが実際に目を覚ましているのか、Kynoの夢のなかで、目を覚ましたNaomiを見ているのか、どちらかわからなかった。

 

 上の存在「その子供をここまで連れてきてくれて、ありがとう。彼は重要人物なのだ。まずは、ひとつの使命を君たちは果たした。次は、Jayと連携して、この戦争を止めるのだ。」

 

 Kyno「この戦争を止める?たった3人の力で?それで、この子はどうするんですか。」

 

 上の存在「この子は、このまま日本を経由してアメリカに行ってもらう。」

 

 Naomi「私たちふたりはどうなるんですか。」

 

 上の存在「ふたつの異なった場所に行ってもらう。もう機は熟した。Jayはすでに、行くべきところに行って、君たちを待っている。」

 

 ようやく人生最大の危機から逃れられると思ったのに、戦争を止めろとの声が聞こえてくる。それも、夢なのか現実なのかわからない世界で、この声を聞いている。Kynoの記憶が正しければ、彼ら3人はロシアの原野を走るシベリア鉄道の中にいる。時は、1940年夏のはずである。

 

 Kyno「それでは、そこにはどうやって行けばいいのですか。」

 

 上の存在「そのままその列車内におれば良い。私が、君たちをふたつの戦いの場所に移動させる。そのまま眠っておれば良い。」

 

 その後、彼の声は消えた。そして、目を覚ますと、KynoとNaomiは同じ部屋で目を覚ました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。