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第14章 火星政府庁舎

 火星政府の庁舎にいきなり日本人の若い女性が現れた。あのCheng兄弟を遠隔透視していた3人のうちの一人に間違いなかった。まだ、未成年のようだった。かなり若い女性だったが、いきなり庁舎の入り口ロビーに現れたようである。いくら、セキュリティーカメラの録画を見ても、彼女が外から入ってきたようには見えなかった。そう、いきなりカメラのコマ送りのあるコマから次のコマの間に、彼女はいきなり出現したような感じだった。不審者侵入時のプロトコルが決められているため、最下階の滅菌室に彼女を自動案内で隔離した。そこには、様々な検出器が設置されており、別の星から持ち込まれる可能性のある、ウイルスや菌などの検出が可能であった。また、それらのウイルスなどが発見された場合のプロトコルも定められており、最悪の場合、その場でその人間ごと焼却する機能も備えている。変な病原菌を外から持ち込まれて、火星人類が全滅ということにならないように、万全の準備をしているのである。

 

 Amit「この女性が君たちを遠隔透視をしていた3人のうちのひとりですか。」

 

 部屋の様子を映したモニターを見ながら、彼は話し始めた。

 

 Xin「ええ、間違いありません。」

 

 Amit「彼女の様子はどうですか。」

 

 医師「怪我もありませんし、ウイルス・病原菌検査などでも特に異常は見られません。ただ、かなり精神的に混乱しているようです。一度、精神科の医師にも診てもらったほうが良いかと。」

 

 Amit「そうですか。まあ、まずは体力が回復してから、精神科の医師に診てもらいましょう。しかし、彼女はいったいどうやってここにたどり着いたのかが気になります。この建屋のことは、地球側の連中は知らないはずです。」

 

 医師「まあ、2~3日すれば回復すると思いますので、尋問はそれからで良いかと思います。」

 

 4日後までには、彼女は食欲も戻り、かなり精神的にも安定してきた。ずっと遠隔で面倒を診てくれている看護師から、午後に面談を行うことを告げられた。ようやく、火星圏外からやってきた者全員に課せられる、3日間の隔離期間が終わろうとしていた。Naomiからは何も面談で話せるようなことはなかった。彼女自身、なぜここにいるのかわからなかったし、どうやってここに来たのかさえわからなかった。いったい、ここはどこなのだろうか。昼食を終え、看護師が迎えに来た。看護師に続いて、建物内の廊下を進み、エレベーターに乗って上の階に行っているようだった。その後、また長い廊下をしばらく歩き、ある一室に案内された。中には、ソファーセットが設置されており、奥には大きなディスプレイがあった。ソファには、男性が6人腰かけていた。コの字型に設置されたソファのうち、ひとつだけ誰も座っておらず、そこに腰かけるように指示された。何を聞かれるのか、どきどきしたが、知っていることを正直に答えるしかなかった。

 

 Amit「もう体調は大丈夫ですか。どこか調子の悪いところはありませんか。」

 

 Naomi「ええ、ありがとうございます。今は体調面は大丈夫です。ここはいったいどこですか。」

 

 精神科医師「ここがどこかわかりませんか。あんたはここに来る前はどこにいたのですか。ここに、どうやって来たのか、わかる範囲で結構ですので、われわれにお話いただけませんか。」

 

 Naomi「すいません。ここがどこなのか、さっぱりわかりません。ただ、そちらにいらっしゃる3人の方は以前夢で見たことがあります。」

 

 Ren「ええ、あれは夢ではありません。あなたの意識をはっきりと感じました。あなたを認識した同じ時に、もうひとりあなたと同じくらいの年齢の男性の意識も感じました。彼のことはご存じですよね。」

 

 Naomi「ええ、私も彼の気配は感じました。Kynoという私の親友です。」

 

 Lun「そのKyno氏は、いまどこにいるのですか。」

 

 Naomi「元々私がいた世界に彼はいるはずです。」

 

 Ren「あなたがいた世界のことはおおよそわかっております。今から250年前の日本です。あなたは、日本人ですね。」

 

 Naomi「250年前?一体、どういうことですか。私はタイムマシーンか何かに乗ってやってきたとでも言いたいのでしょうか。そもそも、ここはどこですか。」

 

 Amit「ここは火星です。われわれは、火星政府の職員です。どうやら、本当にあなたは何も知らないようですね。」

 

 Naomi「何もわかりません。ここが火星だなんて信じられません。しかも、250年前の日本ってどういうことですか。」

 

 Ren「まあ、落ち着いてください。われわれの歴史から話さざるを得ないですね。」

 

 彼らは火星開拓の歴史、現在の火星政府と地球連合軍との確執、そして別世界を巻き込んだ惑星間戦争の危機についてわかりやすく説明をした。

 

 Naomi「なんか、信じられないような話ばかりです。でも、私は何かしらの役割を与えられて、ここに送り込まれたと言われています。それは一体なんでしょうか。」

 

 Amit「それは誰に言われたのですか。」

 

 Naomi「私の友人のKynoにそっくりな人と出会いました。ただし、彼と出会った世界は、私が存在していた世界とは別の世界でした。私にはいくつかやるべき仕事があると彼は言っていました。」

 

 Xin「250年前の日本でも、すでに別世界の存在がわかっていたということですか。少なくとも、われわれが知っている歴史にはそのような記載はないですが。」

 

 Naomi「いえ、誰も別世界のことなんか知らないと思います。一部の人たちがオカルト話で、半分遊びのような感覚でそのような話をしていますが、本当に別世界があるなんて思っている人はごくわずかだと思います。そんな別世界みたいな世界の存在を証明できた人はいません。」

 

 Lun「では、上の存在については、何かご存じですか。」

 

 Naomi「わかりません。初めて聞きました。上の存在っていったい何者ですか。」

 

 Xin「実は、われわれにも詳しいことはわかっておりません。ただ、時折われわれの世界の動きに干渉してくる存在です。今までのわれわれの歴史の中でも、いろいろな形で干渉してきたことが判明しております。ただ、どこまでが上の存在の干渉で、どこまでが本当の歴史の成り行きなのか判別が難しい。」

 

 Naomi「なぜ、そのような存在のことがわかったのですか。」

 

 Ren「実は、歴史のなかで、いったん起きそうになった出来事が一瞬止まったあと、大惨事になる直前で回避されたことが複数回記録されております。ほとんどの人はそのような時が止まったことに気が付いておりませんが、そういう事態を回避するために働いた人たちからは、上の存在からの働きかけがあったという証言がとれております。」

 

 Naomi「わたしは、そのような存在については、何も知りません。ただ、先ほど言いましたが、私の親友にそっくりな人から、重要な役割があると言われただけです。」

 

 Amit「そうですか。まあ、あなたが嘘をついているとは思えませんし、嘘をつく理由もないようです。われわれは、あなたに危害を及ぼすつもりは全くありません。ただ、先ほども説明させていただきましたが、現在地球連合軍とは実質的に交戦状態にあります。われわれも通常と異なった事象については、非常にナーバスになっております。そこはご理解いただきたい。」

 

 Naomi「すいません。私はいきなりいろいろと不可解なことに巻き込まれて混乱しております。何もお役にたてることはありません。」

 

 精神科医「あの、みなさん、今日はそろそろ切り上げましょう。彼女に過度の負担をかけるべきではありません。」

 

 Naomiの様子をみて、精神科医が面談の進行をさえぎった。

 

 精神科医「Naomiさん、今日は新しい部屋を用意しておりますので、そちらでくつろいでください。外の景色も見られるもっと広い部屋です。食事も、看護師に運ばせます。何か必要なものがあれば、その看護師に指示してください。」

 

 Amit「そうですな。あまり一気に話をしても、彼女にも負担でしょうし。今日はゆっくりとお休みください。明日は、昼食後に再度お話を聞かせていただきます。」

 

 Naomiは少しほっとした。どうやら、彼らは自分に危害を加える意思はないということがおわった。ただ、彼らは自分が何者なのか、どこから来たのかを知りたいだけなのだ。考えてみれば、当たり前のことである。Naomiが彼らの立場になったら、全く同じことを考えていただろう。突然、250年前の地球から火星にいきなり現れた人がいたら、普通は驚くのが自然な感情である。

 

 Naomi「お気遣い、ありがとうございます。それでは、お言葉にあまえさせていただきます。何か、気晴らしになるようなものはありますか。一時、時間を忘れられるようなものがあれば。」

 

 Lun「何か、読み物がよいですか。それとも音楽なり、映画なり。250年前の映画とはかなり違いますけど。」

 

 Naomi「映画が違うとはどういうことですか。250年前から何か変わったのですか。」

 

 Lun「今の映画は、平面上のスクリーン上に映し出される映像を見るものではありません。あなたは、その体ごと3Dの世界に入り込みます。そして、あなた自身がその3Dの架空の世界で映画の登場人物の一人になります。心配はしなくてもよいです。危害を加えられることはありません。あくまでも仮想の世界での一人の人物になるだけです。」

 

 Naomi「なんか、上手く想像できないですね。」

 

 Ren「いや、体験してみればわかりますよ。別に難しいことではありません。そして、ストーリーも今のあなたの感情をAIが読み取って、一番あなたが見たいストーリーを即興で作り上げます。」

 

 Naomi「ということは、結末は見てみる、というか経験するまでわからないということですか。」

 

 Ren「おっしゃるとおりです。私にもわからないし、あなたにもわからない。あなたのその時の心の状態次第です。」

 

 Lun「それとも、何か音楽でも、読み物でもなんでもご用意できます。なんなら、ゲームもありますし、この建屋内にはジムもあります。」

 

 Naomi「なにか、読み物があれば。出来れば、この250年間に起きた出来事がわかる歴史書があれば、読んでみたいです。先ほど、おおまかな歴史はご説明いただきましたが、もっと深く知りたいと思いました。」

 

 Ren「わかりました。書籍であれば、あなたの部屋に電子書籍が置いてあります。使い方は簡単です。どんな内容の本でも、読みたい本の名前なり内容なりを電子書籍に言ってもらえれば、推薦図書をいくつか選んでくれます。朗読して欲しかったら、朗読も可能です。」

 

 Naomi「ありがとうございます。それでは、部屋に戻らせていただきます。」

 

 Naomiは部屋に入ってきた看護師の指示に従って、部屋の外に出た。そして、看護師のあとに続いて、長い廊下を移動し、エレベーターで上の階に出た。ガラス張りの外壁に面した廊下からは、そとの様子が見て取ることができた。全くの赤茶けた大地。全く生というものを感じ取ることができない、まるで死の世界。というか、ここには生というものがそもそも存在しない以上、死というものも存在しないのだろう。生と死は常に一体の概念であり、切り離すことができないのである。生が存在しない世界には、死も存在しない。ここは、そういう世界だった。そして、看護師に言われるがまま、ある部屋に入った。たしかに、外壁面のほぼ全面がガラス張りになっており、外の景色を見ることができた。時間の感覚が全くなかった。部屋の内壁には、デジタル表示で火星時間が表示されていた。まだ、午後3時前だった。そう、火星にも昼夜があるようだった。看護師に言われたことだが、火星の一日は地球よりも少し長く、24時間40分程度だということだった。看護師の彼女が言うには、人間の体内時計は約25時間周期なので、火星時間のほうが人間にはしっくりくるということだった。


 まだ、とくに空腹でもなかった。体調はもうすっかり回復していたので、暇を持て余している状態だった。基本的には、何か必要なときは、そこで必要なものを呟けば、何かが出てくるようだった。飲み物は、冷蔵庫に入っていたし、温かい飲み物もすぐにテーブル上のサーバーから出てきた。Naomiは夏休み最後の日の夜からの、一連の奇妙な出来事について、ひとつひとつの出来事を時系列的に整理してみた。あの欧州と思われる場所の恐ろしい光景、夢か何かだと思っていた火星にある建物内のCheng兄弟の視線、そして、自分のいた世界とそっくりな世界とKynoによく似た男性と神社にあったあの印。それと一体、重要な役割とはなんなんだろうか。Naomiには何も思いつかなかった。そもそも、250年後の火星に自分がいるなんて、今でも信じられなかった。本当にここは火星なのだろうか。本当に、ここは250年後の世界なのだろうか。何ひとつとして、きちんと証明できるようなものはなかった。あくまでも、今日面談したあの男性たちからの一方的な情報だけだった。それがどこまで信ぴょう性があるというのだろうか。本当は、ここはどこか遠くに隔離された地球のどこかの場所で、時間も現在なのかもしれない。ここが、250年後の火星であるという証拠は全くないのである。ただ、確かに不可解な説明のつかない出来事がいくつも起こっているため、何ひとつとして真実だと思えることがなかった。あの、彼らが言っていた、上の存在とは何のことだろうか。その、上の存在に会うことが出来れば、何かわかるのかもしれない。ただ、上の存在はどこに存在しているのだろうか。


 Naomiは考えれば、考えるほど、わからないことだらけだった。とにかく、家に帰りたかった。学校に行きたかった。あれから、どのくらいの時が流れたのかさえわからなかった。もし仮にここが250年後の世界だとしたら、もう彼女の家族も友人達も全員この世にはいないことになる。こんな別れ方は嫌だと思った。きっと家族は自分のことを探し回っているに違いないと思うと心が張り裂けそうだった。父も母も兄も弟も自分のことをずっと探して、一生探して、失望のままもう亡くなっているかもしれない。そんなことを考えると、頭がおかしくなりそうだった。絶対に、戻ってやると思った。どんな手段を使ってでも、元の世界に戻ろうと思った。もしかしたら、その重要な役割を終えれば、戻れるのではと思った。そうであるなら、まずはそのやるべきことをやってやろうと思った。そして、その前に、その重要なことがなんなのかを知るべきだと思った。だが、現時点では何も手がかりがない。ここは、待つしかなかった。そう、その役割というのは、おそらく向こうからやってくるはずである。ここは、辛抱して待とうと思った。幸い、ここにいる限りは、彼らが彼女を保護してくれるということはわかった。それであれば、長期戦に備えれば良いと思った。それにしても、一体どのような力が働いて、このようなことになってしまったのだろうか。そして、なぜ自分なのかと思った。なぜ私でなければならないのだろうか。


 その後、3日間ほど、火星政府のいつものメンバーとの面談が実施された。ただ、Naomiは本当に何も知らなかったため、火星政府側も何も特別な情報を得ることが出来なかった。Naomiとしては、このまま毎日何もせずにいるのも苦痛だったため、何か仕事をしたいと申し出た。火星政府側も、彼女の意向に理解をしめし、午前中は専用の指導者のもと、彼女に合わせた学習プログラムを履修するよう提案してきた。そして、午後は食料自給の研究をしているある女性科学者の助手として働くことになった。その女性科学者は、Evieという30代くらいの黒人女性だった。Evieは施設内のいろいろな設備を見せてくれ、その研究課題を彼女に説明したが、Naomiにはかなり難しかった。宇宙服のようなつなぎと、呼吸用のヘルメットとボンベを背負ってから、建屋内のかなり深いところまで、エレベーターで行った。そして、Evieはその場所の説明をしてくれた。そこは、地下にある自然の空洞のような場所で、非常にひろい空間だった。かなり地下深い場所であるため、暑くもなく、寒くもなかった。そして、驚いたことに、そこには大きな地中池があり、そこはいくつかある取水地だということだった。火星の地下にこんなに豊富な水があるとは想像もつかなかった。しかも、この水は地球の淡水と成分はほぼ同じだということだったが、少し炭酸成分が多いとのことだった。火星にも微生物はいるらしく、また、火星特有のウイルスや菌なども存在しているとのことだった。

 

 Evie「驚いたでしょ。火星にもこうやって水資源があるのよ。ここの他にも何箇所か地下水源が見つかっているけど、これは機密事項なの。地球勢力側には絶対に知られてはいけない場所なの。」

 

 Naomi「何か生物は発見されているんですか。」

 

 Evie「微生物だけは見つかっている。菌類やウイルス類も見つかっている。でも、まだいろいろと研究中なの。でも、いわゆる大型生物は見つかっていないし、おそらく存在しないのではと考えている。でも、貝類に似た生物の化石はいくつか見つかっていて、昔は火星にも海があったみたい。」

 

 Naomi「火星の空気はどんな感じなんですか。」

 

 Evie「ほとんど、二酸化炭素よ。でも、非常に薄い大気なの。でもこの洞窟内は地球と同じ環境になるように気体も調整されている。ただ、まだ想定外のウイルスなどがいるといけないから、こんな大袈裟な服を着なければいけない決まりになっているの。」

 

 取水池の近くには、水をくみ上げるためのポンプ室のようなものがあり、そこからろ過装置を経由して、水が建物内各所に供給されているようだった。たしかに、地球で進化した人類が、火星という別の惑星で進化したウイルスや病原菌に触れたら、全く免疫がない分、かなり危険だということは容易に理解できた。それにしても、二酸化炭素から酸素を取り出すのは容易ではないように思えた。

 

 Naomi「酸素はどうやって取り出すんですか。」

 

 Evie「ほとんどは、植物の光合成の働きを使って精製している。一応、ここにも太陽光は届くしね。あとは、触媒を使って、二酸化炭素を酸素と炭素に分離する技術もある。まあ、こちらは結構コストがかかるけどね。」

 

 それにしても、火星にも昔は海があったというのは驚いた。

 

 Naomi「火星人とかはみつかっていないんですか。」

 

 Evie「みつかっていないね。いるかどうかはわからない。まだ、われわれが知っている火星は、火星の表面積の2%以下なの。まだ未知なことだらけ。でも、もう火星政府は木星の衛星にも拠点を作ろうとしている。」

 

 Naomi「でも燃料はどうしているんですか。ここには化石燃料とかはないですよね。」

 

 Evie「そう、化石燃料がとれるほど、この星の古代に生物が豊富にいたわけじゃないからね。今は、核融合で電力を得ている。」

 

 Naomi「なんか、難しい話ですね。私には、何が何やら。」

 

 Evie「そうね、午前中の学習プログラムでそのうち習うよ。」

 

 Evieとの研究は、毎日が新しいものとの出会いで、Naomiには刺激的だった。もともと、理数系が好きだったため、楽しい時間だったし、EvieもNaomiのことをとても可愛がってくれた。でも、ここが本当に250年後の世界だとしたら、Evieは自分よりも何世代もあとの子孫のひとりということになる。この世界では、全然年上のお姉さんのような存在だが、実際はNaomiのほうが200数十年年長なのである。そうやってあっという間に、毎日が過ぎ去っていったが、Naomiの生活には何も不可解なことは起きなかった。待つしかないと心を決めてから、すでに数か月間が過ぎていたが、重要な役割のことも、上の存在のことも何もわからないまま保留になっていた。一体、どの世界が現実で、どの世界が夢や幻想なのか、もはや彼女には区別がつかなかった。今見ているこの火星の日々が夢なのではないかとも思えてきた。そして、夢から目が覚めたら、元の世界に戻っているのである。実際、時々就寝中に元の世界の夢を見ることがあったが、本当は夢の世界が現実ではないかとも思えてきた。そして、今こうやってEvieと会話している自分は、夢の中の自分なのかもしれない。

 

 Naomi「火星のこの世界って、お金とかはあるんですか。」

 

 Naomiは火星の社会にも関心があった。もうこの際だから、何でも吸収しようと前向きな気持ちになっていた。そのうち、元の世界に戻れると信じるしかなかった。

 

 Evie「火星にもマーズっていう単位のお金があるわよ。でも、昔みたいな紙幣とか硬貨ではないの。単なる、数字なの。」

 

 Naomi「数字ですか。」

 

 Evie「そう、ここの住民全てが、口座を持っていて、そこに毎月定額のお金が数字として記載されるの。それと、働いている人は、そのお仕事の内容によって、いわゆる給与分の数字が記載される。」

 

 Naomi「それじゃ、お買い物するときはどうするんですか。」

 

 Evie「その口座の数字が減るだけ。もういわゆるお買い物をする店とかは存在しないけどね。全て、どう言ったらいいかな、そう昔で言う通信販売みたいな感じかな。」

 

 Naomi「ということは、支払いはクレジットカードみたいなもので行って、品物は家まで届けてくれるってことですか。」

 

 Evie「そういうことね。」

 

 Naomi「さっき、毎月定額のお金って言っていましたけど、働いていない人もお金がもらえるんですか。」

 

 Evie「そう。最低限の生活に必要なお金分は、数字として口座に記載されるわ。たしか、あなたの口座もすでにあるはずよ。いくらかお金が入っているはず。」

 

 Naomi「え、そうなんですか。知らなかった。」

 

 Evie「あとで、欲しいものの買い方を教えてあげるわ。ところで、神とお金って似ていると思わない。私はずっとこのふたつの概念は似ていると思っていたの。」

 

 Naomi「どういうことですか。」

 

 Evie「神もお金も実体がないじゃない。でも、みんながその存在を信じている。」

 

 Naomi「でも、お金は実際私たちの世界では、紙幣とか硬貨という形で実体がありました。」

 

 Evie「そう、でもね、その紙が、例えば100ドルの紙幣が100ドルの価値があると思う。その紙を食べてもお腹いっぱいにならないじゃない。その紙を燃やしても、なんの燃料にもならない。それをただの紙切れと全員が思った時点で、それはお金じゃなくなる。」

 

 Naomi「確かにそうかもしれないです。」

 

 Evie「もう、この世界では紙幣も硬貨も存在しないの。あるのは、数字だけなの。物やサービスの支払いが生じると、コンピューター上の数字が増減するだけなの。でも、その数字は食べられないし、着ることもできない。世の中の全員が、それに価値を付与しましょうという合意によってのみ、それはお金としての機能を果たせる。要するに、お金の価値というのは、実体のない信用を数字にしただけなのよ。」

 

 Naomi「信用を数字にしただけですか。」

 

 Evie「そうよ。ちょっと難しかったわね。で、神についても同じことが言えると思うの。世の中の全員がその存在を信じているから、神は神として機能するの。」

 

 Naomi「そうか、誰も信じていない神は、もはや神とも言えないですよね。」

 

 Evie「そう。そして、それらが成立するためには、人々が言葉できちんと意思疎通できることが前提なの。神の話を人類全員で共有するには、そこには絶対言葉が必要なの。それは、お金に関しても同じことよ。」

 

 Naomi「言葉ですか。確かに、宗教には教義があり、文明には神話がありますよね。どれも、言葉で語られていて、それを人々は共有している。」

 

 Evie「私の祖先は日本人じゃなないけど、日本にも神話というものが存在するって聞いたことがあるわ。」

 

 Naomi「ええ、古事記とか日本書紀などに、古代の日本の姿が書かれています。」

 

 Evie「でも、その文字を使い始める前の日本については詳しいことはわからないでしょ。」

 

 Naomi「そうです。中国の古文書には日本に関する記述が少しある程度で、詳しいことはわかってませんね。」

 

 Evie「でも、古代の日本が国家として成立するにあたって、絶対に神話というものを国民で共有していたと思うの。その同じ物語を共有することで、同じ国家の国民としての自覚が出てきていたと思う。まあ、あくまで私の想像だけど。」

 

 Naomi「でも、そうかもしれないですね。」

 

 Evie「でもね、信用に基づいたお金の価値というものも、だいたい同じような論理で説明できると思うの。信用が国家にとっての神話であったり、宗教のとっても教義だったりね。まあ、資本主義という経済システムも、ある意味宗教みたいなものだけどね。たしか、マルクスもよく似たことを言っていたような気がするわ。」

 

 Naomi「でも、そんなこと考えたこともなかったです。」

 

 Evie「なんかね。この火星の荒涼とした景色を見ていると、時々神の気配を感じるの。ここには、われわれ人類の知性を超越したものが確かに存在するのよ。そして、なんかいろいろとこんなことを一人で考えてしまうの。」

 

 Naomi「でも、Evieさんのお話はなんかすごく考えさせられるというか、今まで考えたこともないようなことばかりで勉強になります。」

 

 Evieとの毎日は刺激的で、知的興奮も得られたが、時々ふと元の世界のことを考えてしまった。そして、元の世界のことを考えだすと、なんだか頭がおかしくなりそうだった。Naomiはとにかくあまり深く考えすぎないようにすることにした。そう、どちらの世界が現実でも、懸命に目の前にある課題に取り組んでいこうと思った。それ以上のことは自分にはできないと考えることにした。そもそも、彼女がいくらじたばたしたところで、その火星の生活から脱出できるわけではないし。たとえ、なんとかして地球に戻れたとしても、250年後の地球は自分が知っている地球とは違うだろうと思った。そう、今の地球がどうなっているのか、Naomiには想像もできなかった。おそらく、この火星にあるテクノロジーと同等か、それ以上のテクノロジーが実現している世界。映画ひとつをとっても、この火星の世界では自分が知っているあの映画館で見る映画からは、すごく進化しているのである。こんな普通の人が、火星に移住して、そこで作物を育てるなんて、元の世界の彼女には想像もできなかった世界である。そうやって、早くも半年という時間が何事もなく過ぎ去っていった。そして、次の出来事はある日突然彼女の部屋から始まろうとしていた。


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