第三話
鏡台から立ち上がると、グレイシアは静かに弟に近づいた。
「薬が何? 完成したと?」
「いいえ。まだ」
「そう。そうでしょうね。一粒の薬で心の病が癒えるなど……ありえないことかもしれません」
不意に昏い瞳になって呟くグレイシアに、男爵は驚いて声を上げた。
「姉上、どうされたのです? そんな弱気なことを。確かに前途多難な研究ではありますが、長年の研究の積み重ねは無駄ではありません」
そうだ、無駄なものか。
どれほどの犠牲を払ってきたと思っているのだ。
歯ぎしりするほどに苛立つ男爵の気持ちを察してか、グレイシアは不意に優しく微笑んで言った。
「判っていますよ、ロバート。お前の苦悩は。ただ、思うのです。心の病が癒えるということは、自分の犯した罪が消えるということに等しい。そんな魔法のような薬をこの世に作り出すことが本当にできるのか……」
罪。
その言葉に男爵は、はっとして改めて姉の美しい顔をみつめた。
そのことこそ、彼が今聞きたかったことと繋がっている。
「姉上、罪とは……何のことでしょうか?」
「……深い意味はないわ」
つと視線を避けるように顔を背けたグレイシアに男爵は更に言葉を重ねた。
「私はずっと気にかけておりました。姉上は……まだあの薬を服用されているのではありませんか」
「……何のこと?」
「エメリアさま亡き後もあの薬を」
「ロバート」
静かだが強い声でグレイシアが言った。
「おやめなさい。くだらないことよ」
「私が気付いていないとでも? 研究所に保管している薬が少しづつ無くなっています。研究員か屋敷の者を買収して盗み出させているのでは?」
「……ロバート」
「答えてください、姉上。あの薬は姉上もご存知の通り、研究途上のものです。それを長期間、服用されるなど、危険だということは」
「私を見なさい、ロバート」
「はい?」
すっと顔を上げると、グレイシアは弟の前にまっすぐに立った。
「私にどこか薬による異変が起きていると思いますか」
「あ、いえ……外見は何も……しかし外見だけでは判らないこともありますから」
困惑する弟に口元だけで微笑むと、グレイシアは静かに言った。
「私を研究材料の一つにすればよい。それで研究が進むなら、血を抜くなり、解剖するなり、好きになさい」
「な、何を仰います! そんなこと出来るわけが……!」
「出来ない? 本当に?」
探るように見つめられて、男爵は思わず口ごもった。その様子をしばらく眺めた後、グレイシアは言った。
「その話はもうよい。お前は今まで通り、研究を続ければいいのです」
「……それは……そうですが、しかし」
「薬の完成には例の樹海の水が必要、とでも?」
「ああ、そうですね。もし、あの水が手元にあれば……」
「そう。本当に全ての病も怪我もたちどころに治してしまうそんな便利な水があるのなら、薬どころか、不老不死も思いのままね」
グレイシアはそう言うと面白い冗談でも聞いたように陽気に声を立てて笑った。
「お前は樹海の水が存在すると本当に思っているの? 第一部隊が持ち帰ったと?」
「はい」
迷いなく男爵は返事をした。
「おそらく、第一部隊の連中が隠し持っているだろうと」
「ほう」
目を眇めてしばらく考えた後、グレイシアは言った。
「何か確信があるようですね。……まあ、いいでしょう。そのことは後です。裁判が終わればシアーレン公不在の第一部隊などさっさと解体してしまい、もし本当に水を隠し持っているのならじっくりとあぶりだせばよいこと。……さあ、そろそろ始めましょう。すべてを終わりにするために」
終わりに?
聞き返したかったが、何も言えなかった。
ただ黙って恭しく頭を垂れながら、コリックス男爵は不吉な予感を感じずにはいられなかった。




