第二話 天才の初陣
泥だらけで殴り倒されたあの日から、十日の月日が流れた。
僕、安倍 零に与えられた居場所は、広大な安倍侯爵家の敷地の最果てにある、煤けたボロボロの「離れ」だ。
食事として届けられるのは冷えて固まったご飯と塩気の薄い漬物だけという徹底的な冷遇ぶりである。
だが、前世で天才児と持ち上げられながらも引きこもっていた僕にとってこんな過酷な環境は痛くも痒くもない。
幸いなことにこんな無能の離れには侍女も見張りの兵も寄り付かない。それはつまり、誰の目もはばからずに動ける最高の「フリーエリア」ということだ。
「体づくりには、何よりも栄養と運動が不可欠だ」
僕は離れを抜け出し、敷地に隣接する裏森へと足を運んだ。
前世で得た膨大な図鑑の知識を総動員し、無毒で栄養価の高いキノコや山菜を慎重に選別して採取する。ついでに擦り傷や打撲に効く薬草も摘み取った。
離れにあるボロボロの台所に連日こもり、手に入れた山菜と貴重な米を合わせ、効率よくタンパク質やビタミンを摂れる特製の野草粥やキノコ汁を自炊した。薬草はすり鉢ですり潰し、身体の傷口へ丁寧に塗り込む。
前世の科学的根拠に基づいた栄養管理と、無理のない自重トレーニング。それらを毎日愚直に繰り返した。
そして十日後。
桶の水に自分の顔を映した僕は、思わず息をのんだ。
水面に映っていたのは、以前のような泥だらけの惨めな姿ではない。
無駄な脂肪が削ぎ落とされた綺麗な輪郭、キメの整った肌。ボサボサだった髪を切り揃えたことで露わになったのはゾッとするほど美しく整った、超絶イケメンの顔立ちだった。
(……前世の俺が見たら、嫉妬で狂うレベルだなこれ)
前世ではどれだけ頭が良くても醜い容姿のせいでバカにされ、大人たちにも道具として利用された。
だが今の僕には『令和の天才的頭脳』と『圧倒的な美貌』の両方がある。
僕は鏡の中の自分に向かって不敵に口角を上げると、すっと表情を消した。
そして、どこからどう見てもおとなしくて可憐な『気弱で無能な三男・安倍零』の仮面を完璧に被ってみせる。
「さて、そろそろご挨拶に伺おうか」
僕は静かに離れの扉を開けた。
向かったのは2週間に1度安倍一族の子供たちや親戚のガキどもが集められ、家庭教師から学問や帝王学、陰陽術の基礎を叩き込まれる邸内の「私塾」だ。
ガラリと重厚な引き戸を開けて足を踏み入れると、一瞬で部屋の中の喧騒が静まり返った。
畳敷きの広い部屋には十数人の子供たちが並んでおり、その上座にどっかりと座っていたのは僕をボコボコにした長男の一馬と、次男の二葉だった。
僕の姿を認めると、一馬が不快そうに下品な口元を歪める。
「……おいおい、誰かと思えば零じゃないか。兄上にボコボコにされた傷はもう癒えたのか? ろくに霊力も扱えぬ無能が、よくぬけぬけとこの学習の場へ足を運べたものだな」
一馬が蔑むように鼻で笑うと、周囲の取り巻きたちも調子に乗ってクスクスと嘲笑を漏らし始めた。
飛び交う陰湿な言葉。だが、令和の天才である僕からしてみれば出来の悪い子供が砂場で喚いている程度の戯れに過ぎない。
僕は一切不快感を出さず、むしろ気弱で可憐な笑みを浮かべ、優雅に深々とお辞儀をして見せた。
「……ごきげんよう、一馬兄様、二郎兄様。皆様がお揃いのところ、不躾に失礼いたします」
僕があまりにも堂々としており、しかも以前とは見違えるほど気品に満ちた美貌を湛えていることに毒気を抜かれたのか、周囲の嘲笑が少しずつトーンダウンしていく。
一馬は面白くなさそうに腕を組み、不機嫌そうに吐き捨てた。
「チッ……気安く声をかけるな。お前のような無能に買い与える紙や墨など、この歴史ある安倍侯爵家には一滴たりとも存在しないのだよ。居るだけで場の空気が汚れる。とっととあのボロ離れへ失せろ」
相変わらずの浅薄な暴言だ。
だが僕は怯むどころか、首を優雅に傾げ、純粋無垢な弟の表情を浮かべて問いかけた。
「紙や墨の無駄……でございますか。一馬兄様、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああん? なんだよ」
「先ほど『安倍侯爵家の資産』とおっしゃいましたが……現在このお屋敷の財政を管理し、資材を買い与えておられるのは当主である父上ですよね? 私たちはまだ一文の富も生み出しておらず、ただ父上の庇護のもとで養われているだけの立場。ご自身で一銭も稼いでおられない兄様が、他者のコストを声高に論じられるのは……侯爵家の跡取りとして、少々お戯れが過ぎるのではありませんか?」
「な、何だと……!?」
一馬の顔が、一瞬で朱に染まった。
静まり返る私塾の室内。「一文も稼いでいない」「跡取りとして戯れが過ぎる」という完璧に洗練された正論の前に、周囲のガキどももぐうの音も出ない様子で息をのんでいる。
一馬はブチ切れ、ドシロウト丸出しで机を叩いて立ち上がった。
「こ、コスト?なんだそれは!!屁理屈を捏ねるな!! お前は陰陽師の家に生まれながら霊力が全くない『出来損ない』だろうが!! 式神すら召喚できぬ豚が、いくら言葉を飾ったところでゴミであることに変わりはないのだよ!」
出たよ、この時代特有の『霊力至上主義』。
力がある者が偉く、力がない者はゴミ。思考停止も良いところだ。
僕は心の中で冷たく嘲笑いながら静かに一馬へと距離を詰めた。
「霊力、ですか。確かに僕には皆様のような霊力はありません。ですが兄様、そもそも陰陽師とは『人々をあやかしの脅威から守るための職能』のはず。己の霊力の大きさを誇示して威張るためのものではないでしょう?」
僕は透き通った声で、冷徹に言葉を紡ぐ。
「霊力だけに頼り、何の戦術もなく力任せに突き進むのは、ただの野蛮な暴挙です。これからの時代に求められるのは、あやかしの習性を分析し、構造を解明して最小の力で制する『至高の知略』。時代が移り変わっているというのに、過去の遺物である霊力だけに胡坐をかいていらっしゃるお姿……端的に申し上げれば、少々『時代遅れ』でいらっしゃいますよ?」
「く、くそ生意気な口を叩きおがってぇぇ!!」
完全に論破され、プライドを粉々に砕かれた一馬が、般若のような形相で拳を振りかざして飛びかかってきた。
(はい、大振り〜)
前世で格闘ゲームのフレーム単位の動きを解析していた僕からすれば、感情に任せた子供のパンチなどスローモーションと同じだ。相手の重心がどこにあり、どの軌道で腕が振り抜かれるか、すべて頭の中で計算できている。
僕は半身をすっと引いて一馬の拳を完璧にかわすと前傾姿勢になった一馬の軸足へ、自分の足をチョンと軽く引っ掛けた。
「うわっ!?」
自身の運動エネルギーを殺せなかった一馬の身体が宙を舞い、豪快な音を立てて畳の上へと叩きつけられた。
ドシーンッ!!
「ぐあぁっ!?」
鼻を痛打し、呻き声を上げて悶絶する一馬。
一触も触れられないまま返り討ちにされた兄と、それを呆然と見つめる取り巻きたち。私塾の中は、氷ついたように静まり返った。
僕は倒れた一馬の前にすっと屈み込むと、心底心配そうな、天使のような微笑みを浮かべて手を差し伸べた。
「お怪我はありませんか、一馬兄様? 足元がお狂いになっておられたようですが……お気の毒に」
声はどこまでも優しい『健気で可憐な弟』。
だが、差し出された僕の手の影で、僕の瞳は氷のように冷たく「愚か者が」と一馬を見下ろしていた。
一馬はその視線に気づいてヒッと息を呑むと、恐怖のあまり僕の手を激しく弾き飛ばした。
「ひっ……!! お、お前……!!」
怯えきった兄を見下ろしながら、僕は心の中でニヤリと笑った。
(よし、第一段階クリアだな)
僕は立ち上がり、引きつった顔でこちらを見つめる子供たちに、完璧で優雅なお辞儀をして見せた。
(見てろよ安倍侯爵家。僕をゴミ扱いしてきた愚か者ども。僕の反撃と下克上は、まだ始まったばかりだ!)




