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千の剣の物語 ~ 約束の剣 ~  作者: 鈴木しゅら
終章 闘いの舞台へ
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8-3 試合開始

 無数の雨粒が試合場の石畳を叩いている。

 試合場を楕円形にぐるりと囲むスタンド席の観客たちは、前の試合の余韻、あるいはこれから始まるセミファイナルへの期待など、それらにそれぞれが会話を弾ませ、やまない雨音の中に喧騒を忍ばせていた。

 先導する神官に続いて、ディルが一歩足を踏みだす。隣では、同様にフォルトンが動きだした。

 並んだ二人の姿を見つけた満員の観衆は、一斉にその雨音をかき消す大音量の歓声を上げる。

 Bランクを無敗で駆けあがる若い剣闘士同士の試合は、本来ならば今日のファイナルに相当する価値があることを皆が理解しているのだ。

 試合場に出ると、降りそそぐ雨が神官と二人を容赦なく濡らした。

 ディルは直前まで服を濡らすことを嫌い、今はフード付きのマントを被っている。試合用の厚手のチュニックは、大量に水を吸ってしまうとそれなりの重量物となり動きを阻害してしまう。

 フォルトンはというと、上半身は革と金属のハイブリッドの鎧で固めているためか、気にした様子もなく試合時の装備そのままで雨を浴びていた。

 必要な部位だけを選択しているが、色彩やデザインが統一されたその鎧は、まるでどこかの国の上級正規兵の装備のように小綺麗で整然としている。

 試合場の中央で足を止めると、ディルはフードを脱ぎ、空を仰ぐ。

 西の空には雲の切れ間が覗いているが、少なくともこの試合の間は、雨はこのままだろう。

 いつもならばこういった会場のコンディションの変化を好まないディルだが、今日だけは少し違った。

 色々と誤魔化すには、このぐらいで丁度いいかもな……。

 この試合の審判を務める神官の合図で二人が正面の観覧席に向いて並ぶと、歓声が一旦収まる。

 単独の闘技場では定番となる選手紹介を神官が始めると、その野太い大きな声を耳にしながら、ディルは満員のスタンド席を見渡した。

 千五百人ほどが埋めるスタジアムの景色は、初めてでなくともなかなかに心地よいものだったが、ヴェンツェルとの闘いの中で見たガーデンの光景を覚えている今では、それが以前より少し色褪せて映った。

 正面に位置するS席を見れば、上等な身なりの観衆が並ぶ中、最前列付近には色鮮やかな服装に身を包んだ貴族や富豪の姿が見られ、さらにその中には多くのAランク剣闘士を支援していることで有名な貴族の顔などもある。それらが悠然と、あるいは胸壁から身を乗りだすようにしてこちらを眺めていた。

 そんなS席スタンドの脇、立ち見となっている関係者スペースに視線を移すと、そこには見慣れた姿が並んでいた。

 アルシェルを前に、その背後にガルディア、クローディア、そしてマントとフードに身を包んだフィオリトゥーラが並んでいる。

 神官の選手紹介がフォルトンに移ると、その名が呼ばれた瞬間、スタンド席の一部に固まっていた女性客の一団から黄色い歓声が上がった。

 そこに向けて、フォルトンが爽やかな笑顔とともに手を振る。

 はッ、望みどおり楽しい見世物にしてやるよ。

 その横顔を横目で覗きながら、ディルは冷たく笑った。

「――これより第十五試合を開始するッ!」

 神官の声を皮切りに、再び会場全体で歓声が渦を巻いた。

 試合場の端と端に分けられたディルとフォルトンがそれぞれ小さく礼をする。正方形の試合場から少し離れた四隅には、何かあった時のための人員として、審判とは別の四人の神官が配置されていた。

「剣闘士ディルエンド! エディ・フォルトン! 前へッ!」

 ディルはマントを脱ぎ捨て、開始線まで歩を進める。

 その姿を見て、一部の観客がざわめいた。その変化に着目するあたり、ディルの試合をこれまでに何度も見たことがある者たちなのだろう。

「へーえ」

 ディル同様に開始線まで進んだフォルトンが、ディルの装備を見てニヤリと笑う。事前に仕入れていた情報と異なる点がいくつも見られた。

 まず、鎧。両腕につけられたリストバンドのようなショートサイズの金属製籠手は聞いていたとおりだが、左肩に革製のショルダーガードを装着している。機動性重視で鎧を装備せず、肩や肘といった可動部にはセパレートの小さな装備ですらつけないという話だったはずだ。

 続いて武器。まず目についたのが、左腰の短剣だった。

 これまたCランクの途中からはシミターのみで闘っているという事前情報と異なり、今日はサブ武器を装備している。右腰に下がっているシミターの鞘と見比べると、色やデザインは完璧に揃っていて、昨日今日慌てて用意した装備というわけではないようにも見えるが、使い慣れた物であるかは未知数だ。

 そして、最後にフォルトンが注視したのは、その右手に携えられた抜き身のシミターだった。マント下に隠されてわからなかったが、入場前からシミターを抜いたままでいたらしい。

 試合開始までシミターを抜かず、ともすれば開始直後ですら鞘に収めたまま動きだす。しかし、いざ抜くとなればその動きは速く、その点を優位に考えない方がいい――。

 フォルトンは、自分が聞いていた話と目の前のディルの相違点に思考を巡らせる。

 シミターを先に抜いていることは、右腕の負傷と関連していると見てほぼ間違いなく、おそらくは抜く動作に自信がないためそれを省略したのだろう。ただ、そうなると、わざわざ空の鞘を右腰にぶら下げているのは意味不明だが、直前で考えたのならばそれでも納得はいく。

 フォルトンは、あらためて左腰の短剣に目をやった。

 もっとも、試合中に鞘にシミターを納める必要があると考えている可能性もなくはない。

 その時、ディルがゆっくりとかがみだす。

 左膝をつけた片膝の低い姿勢となり、剣先を地につけたシミターを右肩に立てかける。続いて顔の前に両手を掲げると、その甲をこちらへと向けた。

 まあいいか。ようは奇策に走るほど苦しいってわけだろう?

 最後にフォルトンは、ディルの左肩をちらりと覗くが、肩鎧は単純な負傷箇所の保護と見る。ただしこれも、左肩の方が右腕より重傷だと見せる陽動の可能性は捨てずにおく。

 ディルと違い直立したままで、フォルトンがゆっくりと左手を盾ごと持ち上げた。

 手の甲から肘近くまでを覆う円形のバックラー(小型盾)は、内側のベルトに手首を通しグリップ部分を手で握って固定するタイプの物だが、フォルトンはくるりと盾を回すと、その握った手の部分が見えるように肩の辺りまで手を掲げていた。

 本来の規則通りならば、顔の前に空の手を掲げるのが通常だが、「盾持ち」はなんらかの形で左手に武器を所持していないことさえ示せば、大抵は「開始姿勢」として認められる。

 続いて空の右手を顔の前に掲げ、そちらは手の甲をディルへと向けた。フォルトンのロングソードは、まだ左腰の鞘に収められたままだ。

 五メートルほど離れた二人の間で、神官が順に互いの姿を確認する。

「双方準備よしッ!」

 気がつけば、歓声はやみ雨音だけが残っていた。

「始めッ!」

 合図とともに神官が下がると、試合開始の鐘が鳴り響く。



 静かな始まりだった。

 バックラーで右手を隠しながら、フォルトンが左腰からロングソードを抜いた。間合いを詰めようとする気配はまだない。

 ディルはシミターを逆手で掴むと、ゆっくりと立ち上がりながら、それをくるりと返して順手に持ち替える。

 距離を詰めぬまま、互いがその場で構え始めた。

 直径三十センチ程度の小さなバックラーを柄に添えるようにしながら、フォルトンがロングソードを右肩の上でコンパクトに掲げる。

 対してディルは、シミターを下げて下段に開いて構えた。

 ……来いよ。先手をとるのが得意なんだろ?

 ディルが視線で訴えかけると、それに応えるかのようにフォルトンが動きだした。

 一歩踏みだすと止まり、少し様子を見てはまた一歩踏みだす。

 ディルは横に回ることもせず、じっと待ち構えた。

 四回目の動作で、フォルトンのロングソードの間合いに十分入るだろう。

 フォルトンが動くたびに、前に出した鎧の左肩部分がカチャカチャと音を立てる。

 小振りな肩当から縦長のプレートがいくつもぶら下がった肩鎧は、最初に見た時こそデザイン重視の物かと思えたが、最低限の防御力を維持しつつ肩周りの動きを阻害しないという意味では、なかなかに悪くないのかもしれない。

 四歩目の途中。

 そこで、フォルトンが後ろの右足を蹴って、大きく間合いを詰めてきた。

 身体をわずかにひねった予備動作から、ロングソードを振りかぶる。バックラーは変わらず右手に追従し、剣の持ち手と頭部を守ったままだ。

 盾越しに覗くフォルトンの左眼が、ディルを睨みつける。

 それじゃ、下まで見えてねえだろッ。

 ディルは身体を沈めながら右に移動し、シミターだけをそこに置いていくかのようにして真横に寝かせると、低く、照準を相手の左足に合わせる。

 相手の接近に合わせて引いて斬るつもりだった。

 だが、それを予測していたのか、フォルトンは再度右足で地面を蹴ると、小さく宙に跳んだ。

 歓声が沸き起こる。

 真横に引くつもりだったシミターの狙いを上方に変えるのは困難で、ディルは諦めて、そのまま右に回りこむようにして身体を逃がした。

「ハァッ!」

 掛け声ともにフォルトンが振ったのは、剣ではなく盾の方だった。押しだされ迫るバックラーが、ディルの顔面を薙ぎ払いに来る。

 ディルは、それを退かずに軽々と鼻先で躱すと、次の攻撃に備えた。

 予想どおり、斜めの軌道でロングソードが間髪入れずに襲いかかってきた。

 回避は余裕。さらに攻撃の軌道の左に入ることができれば、決定的な好機を得られるが、流石にそれを許さない絶妙な角度でロングソードは入ってくる。

 仕方なく身体をひねって剣をやり過ごすと、ディルは背後に回したシミターをわずかに持ち上げる。

 フォルトンが次の動作に移るため一瞬動きを止めるか、あるいはロングソードの返しでも入れようと考えたならば、その腕にシミターを叩きこむつもりだった。

 しかし、フォルトンは止まらなかった。

 バックラーを持つ左腕をたたむと、剣を振った勢いそのままに身体を回転させる。ディルのシミターの間合いの中で、大胆にも背中を見せてきた。

 一瞬躊躇したものの、ディルはすかさずフォルトンの背中めがけてシミターを振り下ろす。そこに、振り返るフォルトンのバックラーが滑りこんできた。

 鎧に刃先が当たるわずかな感触を得たと思った瞬間、シミターはバックラーの縁で腹を叩かれていた。

 右上腕に、うずくような痛みが一瞬だけ走る。

 ガン、と音を鳴らし弾かれたシミターは、ディルの予想以上に大きく揺れた。

 マジかッ⁉

 自重のあるこの特注のシミターならば、バックラー程度にあっさり打ち負けるはずはなかった。それがこうまで振られるのは、どう考えても自分の腕の問題だった。

 ディルは、右に流れていくシミターと右手を追いかけるように、低く跳躍する。

「あっぶねえ!」

 フォルトンが叫び、素早く足を動かし数歩後退した。

 再び間合いを離した両者は、構えを直し、互いの姿を上目で見据える。

「結構やるじゃねえの」

 歓声と雨音に混じり、フォルトンの呟きが届いた。

 ディルはなるべく表情に出さないよう注意しながらも、自分の右腕の状態に失望していた。

 この闘いの中、必要なら怪我をしている演技をしようとも考えていたのだが、その必要がまるでなかった。むしろ、気を抜けば、ちょっとしたことでシミターを取り落としてしまうかもしれない。

 そして、わずかな攻防だったが、フォルトンからは噂どおりの「巧さ」を感じた。

 だが、決して速くはない。少なくとも、ゲインやヴェンツェルとはまるで比較にならない。

 しかし、自分もまたあの時とは違った。

 左肩や右腕の怪我といったコンディション不良の面を差し引いても、研ぎ澄まされた集中力や、そこから生まれたあのレベルの動体視力や判断力を、今の自分からは感じない。

 だが、不調というわけでもない。

 これが元々の自分、ディルエンドの力量なのだ。

 それでも今フォルトンの動きがしっかりと「視える」ように感じるのは、あの晩に体感したものとのギャップがそんな錯覚を引き起こさせているだけなのだろうか。

 視えているが、それに相応しい意識や動作に繋がらない感覚がもどかしかった。

 巧いが速くはないフォルトンと、視えているが、それ以外では怪我により本来の速度や力も発揮できないディル。

 ディルは漠然と、ここから先は実戦速度で行われる「模擬戦」のような、互いの手を読み合い思考する闘いになるだろうと予想した。

 ただし、仮にそれで互角の攻防になるとすれば、追いこまれていくのは間違いなく自分の方だ。使える可能性を見ていた右腕の状態は、それほどまでに悪かった。

 わずかに眉をひそめた瞬間、額から垂れた雨水が目に入り、フォルトンの姿がぼやけた。瞬きをして、すぐに視界を戻す。

 本来ならば嫌な雨だが、やはり悪くないと思う。

 やるしかねえな。冷静に、大胆に、狡猾に……。

 ディルは下げていたシミターをゆっくりと持ち上げて、右肩に担ぐ。

 曲刀野郎が。やる気か……?

 フォルトンは、持ち上げたバックラーの脇からディルの顔を凝視した。

 敵は構えを変えたものの、踏みだす気配を見せない。フォルトン自身の構えは最初と同じで、剣を右肩の上に掲げ、小さな盾で手と顔半分を隠している。

 想像していたより、この曲刀使いは回避が巧く、さらには反撃も速かった。

 だが、さっきのシミターの弾かれ方は明らかにおかしいと、フォルトンはそこを見逃していなかった。

 あの咄嗟の跳躍は、回避行動ではなく右手の動きを誤魔化すためのものに思えた。

 顔に出さないようにしたつもりか? 隠せてねえぞ。

 フォルトンは、バックラーで隠した口元に笑みを浮かべながら、通路で声をかけた後にした、あえて差しだした左手での握手を思いだす。

 本調子じゃないにしても、普通に動かすぐらいはできるのか……?

 自然とその視線がディルの左腰に向いた。これまでの試合で使ってこなかったサブ武器の存在は、到底無視できるものではない。

「せーの、フォルトンさまあー」

 周囲の歓声と雨音に負けじと、声を揃えた黄色い声援が届いた。

 よし……。

 ディルの背後、楕円形のスタンド席の中で闘技場から遠い位置にあるB席の一団に向けて、フォルトンは盾を大きく掲げて、爽やかな笑顔でアピールする。

 そんな対応に歓喜し、さらに声援の音量が増した。

 瞬間、視界の端で踏みだすディルの姿が見えた。

 試合中に馬鹿が、って思ってんだろ? 馬鹿がッ――。

 接近してくるディルに向けて、バックラーを元の位置に戻したフォルトンは、すかさず負けじと前進する。

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