表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/68

6-14 剣位

「はーい、参戦しまーす」

 間の抜けた声がすると、フィオリトゥーラの頭上の夜空に、ふわりと黄金色の髪が広がった。

 笛の音を合図にどこから落ちてきたのか、フィオリトゥーラとザリの丁度中間のその場所に、それは舞い降りた。

 音もなく着地すると、細い脚が綺麗に折りたたまれ、彼女はその場にかがみこむ。

 華奢な肩に軽やかに長い金髪が被さるのと同時に、彼女は顔を上げた。

 ザリを見る大きな碧い瞳。藍色の服に身を包んだ剣士は、すでに抜き身の剣をその手に携えている。ファラールだった。

 突然の出来事を茫然と眺めるだけのフィオリトゥーラと違い、ザリの対応は早かった。

 ククリを構えたまま素早く後退すると、一気に三メートルほどの距離を離す。

 だが、ファラールはしなかやにその身を伸ばすと、するすると移動し、一瞬でザリへと追いついていた。

「おおッ⁉」

 ザリの眼前に迫ったファラールは、くいとその細い顎を持ち上げる。

 瞬間、彼女の右肩が揺れ、手にしたレイピアが消えたかに見えると、突如宙空に、階段状に三本のレイピアが並んだ――。

 そんな錯覚を起こすほど高速の突きが、三連続で放たれた。

 その鋭い剣先に首から胸元までを縦に三つ貫かれたかに思えたザリだったが、見れば、上体を反らしながら、レイピアの間合い分だけきっちりとその身を逃していた。

「さっすが! 噂の傭兵さん!」

 嬉々とした声。夢中で遊ぶ子供のように目を輝かせながら、ファラールは深く踏みこみながら、さらに下からレイピアをすくい上げる。

 ザリは咄嗟にククリを横にしてそこに合わせるが、衝突すると思われたレイピアはそれをすり抜けていた。ファラールが手首の力を抜き、振り上げながらその剣身を揺らしたのだ。

 そしてそのままレイピアは、刃を煌かせながら、それ自体が意志を持つ生き物かのように、くるりとその剣先をザリの顔面へと向ける。

「があぁッ!」

 ザリは声を上げながら、左足で地面を蹴った。

 切っ先が鼻先に届こうかという寸前、その顔がレイピアが進むのと同方向に間一髪で逃れ、再びザリは大きく間合いを離していく。

 だが、ファラールはゆらりと身体をひとつ揺らしただけで、そんなザリに吸いつくように移動し、またしても軽々とついていった。

「行くよおッ」

 正確に自身の剣の間合いを保ったまま、着地したザリに向かって、レイピアとファラールが躍りだす。

 身体の軸を固定することなく、上下前後にふらふらと、自由気ままにその細い身体と腕が忙しなく動いた。

 優雅なウェーブを描く金髪がふわふわと揺れる中、止まらないレイピアが、刺突と斬撃とを不規則に放ち続ける。

 同じレイピアでありながら、ファラールのそれはクローディアの闘い方とはまるで違った。その奔放なさまは、どちらかといえば双剣を振りまわすゲインに近いものがあった。

 細長い身体を小刻みに揺らして器用にレイピアを避けるザリだが、凌ぎながらもファラールに押され、二人は見る見るうちにフィオリトゥーラから遠ざかっていく。

 倉庫の前を過ぎ、この戦闘の最初にフィオリトゥーラが現れた路地の手前までザリが押し戻された時、そこでファラールは攻撃の手を止めた。

 ククリの反撃はない。ザリは軽い前傾姿勢のままで両腕をだらりと垂らし、ただファラールを待ち構える。

 眉を軽くしかめたその表情は硬い。得体の知れぬ新たな敵の登場を前に、これを脅威と判断したザリは思考する間を欲していた。

 そんなザリを見て、うんうんと満足気にうなずくと、ファラールは胸の前で軽くレイピアを一振りした直後、ふわりとその身体を浮かせる。

 跳んだというより風に舞い上げられたような跳躍で、彼女は一気に両手剣でも届かぬ間合いまで距離を離した。

 すると、ザリは慌ただしく周辺に視線を巡らせる。

 倉庫脇の細い路地、並ぶ建物の屋上。ヴェンツェル、対峙するディル。その二人の向こうに見えるT字路……。

 そこは、ディルとフィオリトゥーラが八番区から倉庫に戻る際に使った道とこの産業路とが繋がっている場所だ。

 それから一旦視線を戻すと、ファラール、さらにはその向こうのフィオリトゥーラを見て、そこからさらに遠く、自分たちが歩いてきた環状路の方へも意識を注ぐ。

 どこにも何も気配は感じられなかった。

 だが、ザリの勘が訴えていた。眼前の剣士の登場は、おそらく何かの前触れに過ぎないと。

 そして、そんな予感に応えるように、唐突にその気配が解放された。



 誰かが打ち鳴らす拍手の音が路上に響きわたる。

 その音に重なりはなく、ただ一人だけが発しているものとわかるが、妙に熱のこもった太い音の拍手だった。

 音とともに溢れでた存在感に意識を奪われ、この場にいる全員が動きを止めてしまっていた。

 ヴェンツェルと対峙するディルの背後、八番区へと繋がる通りから、その男は姿を現した。

「お見事でした」

 拍手の手を止めると、男がよく通る声で言った。

 そのまま広々とした路上の中央まで歩いていくと、彼は悠然と皆の姿を見渡す。

「貴様は……」

 ヴェンツェルがその姿に反応して、思わず声を発していた。

 白とグレーのストライプが彩るゆったりとしたチュニックに、ダークブラウンのホーズ。簡素で部屋着のような緩い服装だが、上質な素材と着こなしのためか、気品ある佇まいを見せていた。

 耳を隠すほどではない適度な長さの、緩やかなウェーブを描く金髪に手をやると、男はゆっくりと、さらに歩きだす。

 松明の明かりがその端正な顔を照らした。

 まだ若い。歳は二十代後半といったところだろう。男は貴公子然とした甘い顔立ちをしているが、その視線、物腰が、そこに似合わぬ妙な貫禄を漂わせていた。

「このようなところで何をしているのですかな……」

 掲げていた剣を下ろし、ヴェンツェルが低く押し殺した声で訊ねる。

「それはこちらの台詞ですよ。ヴァルター・ヴェンツェル殿」

 男は歩みを止めず、ディルの脇をゆっくりと通りすぎていく。その背丈はディルよりも少し高く、身長は百八十センチほどか。

 ディルはまるで動けずにいた。

 男はその手に何も携帯しておらず、腰に剣も下げていない。強いていえば、首から装飾の施された銀色の小さな笛だけを下げていた。

 一見すると、休息していた自室からひょっこり姿を現した若い貴族といった、優雅で穏やかな印象も受けるが、身にまとう雰囲気や風格は、どうしてか、剣律騎士の正装に身を包んだヴェンツェルと比較してもまるで見劣りしていない。

 その背を茫然と見送りながら、ディルは息をのんだ。

 ヴェンツェルだけではなく、ディルもまたこの男を知っていた。

 いや、正確にはどこかの肖像画でその顔を見ただけに過ぎないのだが、いずれは直接目にしたいと、その脳裏に刻みこんであった。かねてより望んでいたものの、実際に彼の試合を観ることはまだかなっていない。

 ヴェンツェルの前まで進むと、男はそこで足を止めた。

「一応、形式張ってやりましょうか」

 柔らかな微笑み。先ほどこの場に現れたファラールと同じ色の碧い瞳が、路上の中央に倒れたままのゲインも含め、この場にいる各人の姿を順に眺めていく。

 戦闘態勢にあったはずの者全員が、今は手にしていた武器を下げて自然と構えを解いていた。ザリですら動きを止め、呆けたように男の姿に目を奪われてしまっている。

 それから彼は、ヴェンツェルへと視線を戻すと、すうう、と息を吸いこむ。

「――我は、ラスタート王国王家直属、デートメルス騎士団所属、エリオス・アール=デイ!」

 ディルは思わず、びくりとその背を震わせた。

 この産業路にどこまでも響いていくような力強く伸びやかな声だった。ただ名乗りを上げただけだというのに、名のある指導者や王族が群衆に向けて言葉を発するさまがすぐに想起された。

 エリオス……、アール=デイ……。

 名乗られずともわかりきっていたその名を頭の中で復唱すると、ディルの全身から急速に力が失われていく……。

 それと同時にディルは、今まで彼を支配していた呪縛のようなものから一気に解放された。

 群青色の空、巨大な尖塔。視界の中から、重なっていたガーデンの風景だけが、徐々に消え落ちていく。

 聴こえていた歓声もまた、どこか遠くへ霧散していった。

 急激に闇の色が増すと、松明と月明りだけが照らす、元の夜の産業路の光景だけがそこに残されていた――。

「……それで、どうしようというのだ?」

 ゆったりとした厳格な口調でヴェンツェルは問うが、その声にはかすかな震えが混じっていた。

 それを受けてエリオスは、親しみ深い笑みを披露する。

「とある怖い方、それから旧知の知人、それぞれからの報せを受けましてね。このような時刻ですが、見過ごすわけにはいくまいと馳せ参じた次第です。まあ、おかげで色々と面白いものを見させていただくことができましたが」

 エリオスの声を耳にしながら、ディルは戻ってきた全ての感覚に身体を押しつぶされようとしていた。

これまでに負ったダメージと蓄積した疲労の全てが一斉に襲いかかり、目にする風景の全ての物がぐらぐらと揺らぎ始めると、急速に意識が朦朧としていく。

 前方にゆらりと傾きかける身体を、再びシミターを杖代わりにして支えた。

 今から起こるだろう出来事をなんとか見届けたいと、ディルは強く唇を噛んで、深い所に落ちそうなそれを繋ぎとめた。

「ほう。見れば剣も持っていないようだが?」

「はは。お恥ずかしいかぎりです。これでも抜けだすのに結構な苦労がありましてね」

 エリオスはそう言って笑うと、再び歩きだす。その視線はヴェンツェルから外れ、立ち尽くすフィオリトゥーラへと向けられていた。

 ディルはうまく定まらない視点を必死に動かして、エリオスが進む先にいる彼女の顔を見た。

 エリオスを見つめるフィオリトゥーラは、最初こそ緊張から解放された安堵の表情を見せていたが、エリオスが近づくにつれ、それが変化していく。

 まずは戸惑いに変わり、それが徐々に曇っていくと、最後には、不安か怯えのためか、その顔が青褪めてしまっていた。

「エリオス……」

 フィオリトゥーラがその名を口にすると、彼女の前で立ち止まったエリオスは、うやうやしく片膝をつき、その頭を垂らす。

 それは、主従関係を明確に示した最上級の礼だった。

 少しの間の後、エリオスは顔だけを上げる。

「よくぞご無事で。そして、感服いたしました。聞き及んではいながら、貴女様が剣を振るわれるなど到底信じられぬ思いでいたところ、まさかここまでとは……」

 晴れやかな笑顔で話すエリオスに対して、フィオリトゥーラはその顔を曇らせたままでいた。

「……私を責めはしないのですか?」

「そういった話はあとにいたしましょう」

 その一言を聞き、フィオリトゥーラはどこか諦めたように吐息をもらすと、それから、その顔を歪めた。

「アルト兄さまが……」

 悲痛な表情とともに思わずもれたその名を耳にして、エリオスはフィオリトゥーラに向けて、しっ、と自らの口に指を当ててみせる。

 それを見て、ハッとしたフィオリトゥーラは慌てて口を噤んだ。それで崩れかけていた彼女の表情も元に戻る。

「あまり軽々しく口にされてはいけません。もちろん、私も存じております。……非常に残念なことでした」

 エリオスが立ち上がる。

「まあ、まずはこの場を収めるとしましょう。剣をお借りできますか?」

 フィオリトゥーラはこくりとうなずくと、カルダ=エルギムの両手剣の柄を持ち上げ、それをエリオスへと差しだした。

 丁重な仕種で受けとると、エリオスはくるりと剣を返し、その剣先を天に向けてから胸元へと引き寄せる。それから、その剣身を見つめた。

「流石、ジルド。相変わらず見事な剣を作るものだ」

 優雅な笑みを浮かべたまま、振り返ったエリオスが一歩前に踏みだす。

「さて……。貴公が持ちだそうとした物が何であるのか、知らずとも罪。知っているのならばさらに重く、極刑に値します」

 ヴェンツェルに向けて声を発した直後、その笑みが一気に冷たいものへと変わっていった。

「もっとも、噂どおりならば、知らぬはずはなさそうですが……」

 呟きながら、エリオスはさらに歩を進める。ヴェンツェルはわずかに顔をうつむけ、その姿を上目で睨みつけた。

「このようなところで、剣位同士が剣を振るうことなど許さるれると思っているのか?」

 ヴェンツェルの言葉を受けて、エリオスがくすりと笑う。

「剣位? 貴方はまだ授与前の身でしたよね? それに言ったでしょう。私は剣の腕を競うつもりなどありませんよ。これは単なる刑の執行です」

「なん……だと」

 ヴェンツェルが目を細め、眉間に深くしわを寄せた。再び訪れる屈辱と怒り。

「剣律騎士団筆頭師範の私を裁くつもりか?」

「〝剣教〟も〝剣律〟も関係ありませんよ。この件の罪は極めて重い。そして何より、この場でのラーシアル様への非礼、到底許せるものでなし!」

「な――ッ!」

 ラーシアル――。

 エリオスが口にしたその名を耳にすると、ヴェンツェルの表情が一変する。

「ラーシアルだとッ⁉ この女が……?」

 驚きを隠せぬまま、ヴェンツェルはその視線をフィオリトゥーラへと移した。白金の髪を持つ黒衣の女剣士は、不安げな眼差しをこちらへと向けている。

 ザリとの闘いを眺めた中でも感じてはいたものの、あらためて見れば、その類まれなる美貌の持ち主は、このような場でも、そうと相応しい溢れる気品を漂わせていた。

 名高きデートメルス騎士団の幹部にして、聖地アルスタルトの剣位、エリオス・アール=デイともあろう者が、迷わず膝をつき頭を垂らすほどの存在……。

 冷静に考えてみれば、それほどの人物がこの世界にどれほどいるというのか。

 だが、到底理解が追いつかなかった。そのような者が、どうしてこのような場所で闘っているのか……。

「ふん、無礼な……。こちらは、やはりご存じなかったようですね。もっとも、どちらも知らぬでは通りませんが」

 エリオスが足を止めた。

「剣を構えなさい。抗う権利ぐらいは認めてあげますよ」

 ヴェンツェルとの距離は五メートルほど。

 何が起きている……?

 ヴェンツェルの混乱は収まらなかった。何か、自身が知らぬ巨大な政治的なものがこの場に介入しているのではという疑念すら浮かぶ。

 しかし、そんなヴェンツェルに構わず、エリオスは剣を構えだす。

 一度剣先を下ろし、直後にふわりと舞い上げると、両手を右肩の前に納め、自身の顔の横、そこでカルダ=エルギムの両手剣を止めた。剣先が天を突く。

 左足を前に足は肩幅ほどまで開かれ。左肩をヴェンツェルに向けた半身のその姿勢。

 垂直に立てられた剣がわずかに前に傾くと、それで構えが完成した。

 それは、フィオリトゥーラが用いる攻撃的な構えと同じものだった。

 そんなエリオスの様子を目の当たりにして、ヴェンツェルの目つきが一気に変わっていく。

 デートメルス? ラスタート? ラーシアル? だから、どうしたというのだ!

 そう。ここは聖地アルスタルトなのだ。聖剣教総本山の膝元で、聖剣教最高の剣たる自身が何をうろたえる必要があるというのか。

 そして、目の前に立つこの男……。

 フィオリトゥーラの剣を見た時に回想した、大闘技場で闘う金髪の剣士の姿がそこにぴたりと重なる。今現在、事実上の剣位筆頭と称される最高峰の剣闘士――。

 否が応にも血が騒ぎだす。

 ヴェンツェルの意識が一点に集中していく。

 もはや、先まで剣を交えていた得体の知れぬ月煌剣の使い手のことさえも、頭の中から消え失せようとしていた。

「……願ってもない。所詮、ムーンライトと順番が入れ替わっただけの話よ」

 ヴェンツェルは左手を前に出しながら、ロングソードを右上段に掲げる。

 剣の位置が決まると、一度握りこんだ左手を柔らかく開き、長く息を吐きながら、外に開いた後ろの右足にわずかに重心を傾けた。

 かがみこみシミターに身を預けながら、ディルは二人の構えを交互に眺めた。

 どちらも、まず自らの剣を振ることを前提とした攻撃的な構えだが、その印象は随分と対照的だった。

 自分と相対した時も同様だったが、ヴェンツェルの構えは凄まじいまでの安定感を見せている。背筋が真っすぐに伸びたその姿勢は揺るぎない軸を持ち、軽く膝を曲げているものの、そこには一切の緩みが感じられない。

 思い返せば、ヴェンツェルはどのような動作の中でも、常にその軸を完璧に保っていた。

 対するエリオスの構えは、一見するとフィオリトゥーラが見せる構えと酷似しているが、あらためて見るとその質がまるで違った。

 フィオリトゥーラのそれは、ヴェンツェルほどではなくとも、そこにしっかりとした軸があり、硬質な印象が強い。

 繰りだされる剣は、極限まで引き絞った弓の弦を解き放つような力強さがあり、あの強烈な剣撃は、あの構えあっての産物なのだろうとも思えた。

 ところが、エリオスの構えにそれはなく、ただ柔らかさと緩みが感じられた。

 姿勢、足の開き、肩の向き、腕の構え。どこを見ても、フィオリトゥーラの構えとそう変わらないというのに、押せば簡単に倒れてしまいそうな、そんな不安定な印象すら受けてしまう。

 不意に、金色の装飾に縁取られたローブの裾が揺れる。地を走る白いブーツの爪先。

 ヴェンツェルが一気に間合いを詰めた。

相変わらず、頭も剣も一切が揺らぐことなく、滑るように一瞬で、エリオスが持つカルダ=エルギムの両手剣の間合いまで到達していた。

 そこで、ヴェンツェルはぴたりと動きを止める。

 対するエリオスに反応はなかった。口元に薄く笑みを浮かべながら、その冷ややかな碧い瞳でヴェンツェルを眺めたままで、まるで意に介していない。

 ヴェンツェルは、前に出した爪先と指先をその間合いにわずかに触れさせたまま、ゆっくりと右に動く。

 エリオスは視線だけを動かし、ヴェンツェルの姿を追った。

 左足を先にその足を交互に二回ずつ動かすと、構えはそのままにヴェンツェルはエリオスの左前方で再び動きを止めた。

 ヴェンツェルの左手がそれをなぞったせいか、ディルの目にも、エリオスの剣の間合いがまるで球形の膜でもできたかのように、うっすらと映っていた。

 両者ともに、そこから動かなかった。

 少しの間を置いた後、ヴェンツェルはごくりと唾を飲みこむと、再び動きだす。

 ハアア、と緩やかに息を吐きながら、やはり左足を先に、今度は左側へと。

 二回目の右足が地面を踏んだ時、ヴェンツェルは丁度エリオスの正面に戻った。

 瞬間、ヴェンツェルは息を吸いこみ、その右足に力を込める。

 だが、目の前でそれよりほんのわずかだけ早く、エリオスが動きだしていた。

 なんの予備動作もなく、無造作に半歩だけ左足が踏みだされていた。

 ヴェンツェルは目を剥き、咄嗟に右足から力を抜いた。

 ところが、エリオスの剣が動くことはなく、構えがそのまま前傾となると、彼はその顔をひょいと差しだしてきた。

 それは丁度、ヴェンツェルが掲げるロングソードが振られた場合の軌道上に置かれた。

 何かを見透かしたかのように、その顔が笑みを深める。

「カアァッ!」

 ヴェンツェルは気合の掛け声とともに、重心をわずかに落とし、再度右足に力を込めた。

 するりと糸を引くような剣の軌跡が一瞬で描かれ、それが斜めにエリオスの顔面を斬り裂いた――。

 そう見えた時には、エリオスはもう、元の場所で元の構えに戻っていた。

 残像を残すほどの速く鋭い動きを終えたばかりとは思えないほど、エリオスは涼やかにヴェンツェルの剣を見送る。

 振り終わりのロングソードに引っ張られるように、ヴェンツェルの身体が前方に泳いでいった。

 その様子を見たディルは、背筋を震わせる。

 常に安定した動きを見せていたヴェンツェルが、あれほどまでに体勢を崩してしまう何がそこにあったというのか……。

 エリオスがゆらりと動いて、ヴェンツェルの脇を抜けていく。

 すれ違うその姿を横目で睨みつけると、ヴェンツェルは左足をドンッ、と地面に叩きつけた。

「セィアッ!」

 地を蹴って強引に反転しながら、剣を手にしている右腕の肘を背後へと突きだす。そして、その肘を支点に一気に力を解放する。

 剣先を下方に向けていたロングソードが、パンッと跳ね上がり、エリオスの背があると思われるその場所を一閃する。

 しかし、ヴェンツェルの手にはなんの感触も返ってこなかった。

 虚しく空を切った自らの剣の先に、金髪の剣士の姿が覗いた。

 まるで鏡で映したかのような、先までと完全に正反対の左脇の構え……。最初からそこで待っていたとでもいわんばかりに、エリオスが両手剣を構え立っていた。

 ゆらりと、その剣先が揺れた。

 シュッ、と何かが擦れた音が聞こえたと思った時には、水平に動いただろう両手剣はすでに振り終わりの位置にあり、その勢いを緩めようとしていた。

 どこから鳴っているのか、リイィィィンと、上質な鈴が鳴らすような硬く澄んだ音色がかすかに響いてやまない。

 そんな中、何かが夜空に向かって、しゅるしゅると勢いよく舞い上がっていく……。

 その剣先を横向きに、エリオスが右手一本でカルダ=エルギムの両手剣をぴたりと止めた時、激しく回転するそれが空中で落下を始めた。

 球状のその物体はやがて地面に落ちると、ゴッと鈍い音を立て、勢いそのままに路上を数メートル転がってから、動きを止めた。

 イィィィィン……。

 音も鳴りやむと、ヴェンツェルが手にしていたロングソードの剣先が、ぐらりと動きだす。

 その剣身の根元に近い部分、そこから先だけが傾き倒れていくと、そのままそれは地面へと落ちて、カランと音を鳴らした。

 折れた剣を手にしたまま立ち尽くすヴェンツェルを見れば、なんとも異様な姿を見せていた。

 失ったのは剣身だけではなく、彼の純白のローブの上にあるはずの頭部も失われていたのだ……。

 切断された首の断面からは、とめどなく水が湧くように濃い色の液体がびゅうびゅうと脈打ち吹きだし、白いローブを見る見るうちに染めていく……。

 この場にいる誰もが、その凄まじい光景に息をのんだ。

 フィオリトゥーラはおそるおそる、地面に転がった物体へと視線を移す。そこでようやく彼女は、それがヴェンツェルの頭部なのだということを理解した。

 なんだよ、それ……。

 ディルは薄れゆく意識の中で、エリオスと変わり果てたヴェンツェルの姿とを交互に眺めた。

 自らの身体から発せられていたものに被さって、強い血の匂いが鼻をつく。

 はは、圧倒的じゃねえかよ……。

 やがて、頭部を失ったヴェンツェルの身体が傾き、それがゆっくりと仰向けに地面に倒れると、見届けたディルの視界は、フッと一段暗い闇の中に落ちた。

 それでも、シミターに触れた手に力が籠もる。

 これで終わったという安堵感はなく、それが本能であるかのように、静かにエリオスへの戦意が湧いていた。

 だが、それも含め、全てが深いところに沈みこんでいく……。

 そして、ディルの身体もまた、ゆっくりと前方に傾いていった。

 フィオリトゥーラが音のした方を見れば、すでにディルは路上にうつ伏せに倒れこんでいた。

「ディルッ!」

 そんな彼女の声と駆け寄る足音を耳にしながら、ディルはその頬を地につけたまま微笑み、これでやっと休めるのかと、全身から力を抜いた。

「おいおい。なんなんだよ、そりゃあよお……」

 離れた場所から闘いを見守っていたザリは、「剣位」という存在の闘いを目の当たりにして、一人激しく戦慄していた。

 帝国に捕らえられたあの時も、たった二人の帝国剣士を前に不利と見て、次の機会を得るべく諦めて捕縛されたものだったが、これはもはやそういった次元からもかけ離れていた。

横目で自分を見るファラールの視線に気がつきながらも、ザリはくるりと身を翻す。

「冗談じゃねえ……」

 唾を地面に吐き捨てると、それからザリはおもむろに駆けだした。

 やがて、街灯が照らす夜の産業路の先にその背中が消えていくと、ファラールはそこに向けて小さく手を振った。




 第六章 完

 七章に続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ