6-13 佳境
夜空に浮かぶ月だけが照らす暗闇に近い路地を、ガルディアがゆっくりと歩いていく。その右手には、彼の身の丈ほどもある黒いケースが携えられていた。
デロルトとの闘いの中であちこちに手傷を負っていたが、こうして歩く程度ではなんの問題もない。
だが、その少年のような顔には、何かを思い詰めたような硬い表情がずっと貼りついていた。
自身が逃走に選んだ十二番区の道を遡っていく中、これから先で待っているだろうことへの複雑な思いが、胸の中で静かに渦巻く。
ガルディアは、この与えられた時間の中で、先までの出来事を自然と思い返した。
――優雅な長い金髪が、最後にもう一度、ふわりと目の前で揺れた。
「私は、ファラール。〝アール=デイ〟の従士長を任されているわ」
立ち止まると、彼女はふっくらとした小さな唇を動かして、やはり歌うような軽やかな調べで、そう名乗った。
真っすぐにこちらを覗く大きな碧い瞳。嬉しくて仕方がないといった子供のような無邪気な表情を隠そうともせず、彼女はガルディアを見て、満足そうに微笑む。
突然の出来事に戸惑うガルディアは言葉を返せずにいたが、彼女はそれを気にした風もなく、おもむろにそのほっそりとした右手を夜空へとかざした。
それを合図に、再び何かが舞い降りた。
二つの人影。それらは彼女がそうした時と同様に、音もなく路上へと着地すると、彼女の少し後ろ、その両脇に控えた。
彼女と同色の藍色の服をまとった二人の男。その顔のほとんどは布で隠されよくわからなかった。
「周辺の制圧は完了しました。もっとも、事前の情報通り敵は四名のみのようでしたが」
男の一人が告げると、ファラールは右手を口元に当てる。私は考えていますよ、とわかりやすくそんな素振りを見せた後、彼女は再びガルディアへと視線を戻した。
「あなたがガルディアね。お疲れさま」
それから、すっと腕を横に伸ばすと、彼女は建物の壁際に置かれたままの黒いケースを指差す。
「あなたが奪い、守った物でしょう? 自分の手で、あの御方のもとに届けてあげて」
そう言うと、彼女はその折れそうな細い腰の左右に両手を当て、ついと尖った顎を軽く持ち上げた。
「私は戻るわ。向こうは大丈夫だから、二人はここで待機。全員揃った後に撤収しなさい」
彼女が命じると二人の男は小さくうなずき、それから二手に分かれ歩きだすと、それぞれがガルディアとファラールから数メートル離れた通りの前後で足を止めた。
彼らは、待機しつつこの場所を監視するつもりらしかった。
「ファラールさん、戻るって……?」
ガルディアが口にすると、ファラールは再び微笑む。
「ゆっくりで構わないわ。そうすれば、あなたが到着する頃にはもう終わっているだろうし」
告げた後、彼女はくるりと横を向くと、ガルディアが来た路地の方に向かって歩いていく。
建物の隙間の路地に一歩足を踏み入れると、彼女は夜空を仰いだ。
それから、無造作に地面を蹴ると、ファラールは小さく跳躍し、宙に浮いた状態で、左足の裏を建物の壁にぴたりとくっつける。
すると、そこから空いた右足で壁を蹴って、上昇する身体を反転させながら、今度は向かいの建物の壁に、やはり左足だけで貼りついた。
再び右足が壁を蹴り、空中で反転。まるで階段を上るような気軽さで、あっという間に彼女は、建物の屋上へとその姿を消していった。
そっか……。みんな、屋根に上るとか普通なんだ。
ファラールの身軽さを目の当たりにして、ガルディアは驚くより先に呆れてしまっていた。
そして今更ながら、デロルトも同様に建物の屋上に上り、そこを駆けて自分を追ってきたのだということを理解した。
迂闊だったなあ、とため息をつくと、ガルディアは肩を落とし、ひどく疲れたように壁際に置かれたままのケースのもとへと近づいていった――。
それからここまで、ファラールに言われたとおり、ゆっくりと十二番区の街中を移動してきたのだ。
別段、彼女の言いつけを守るつもりもなかったが、張り詰めた糸が切れてしまったように、気力の根本的な部分が失われてしまっていた。
「はーあ」
声に出して、露骨にため息をついてみる。
アール=デイ。
ファラールが口にしたその名を、ガルディアは知っていた。いや、聖地の中において、その名を知らぬ者などいないだろう。
これは不安なのだろうか。それとも、期待なのか。今ある感情をガルディア自身が理解できずにいた。
ただ、ひとつわかるのは、ひどく憂鬱だということだけだ。
垂直に立てたシミターを、ただ右手で身体の前に差しだしただけの構え。
その構えのまま、ディルが動きだした。
小さな歩幅で素早く左右の足を交互に動かす。無造作な動きだが、それで姿勢が乱れることはなく、ディルは地面の上を滑るように移動し、ヴェンツェルへと近づいていく。
「く……」
迷いのない接近に何か不穏なものを感じ、ヴェンツェルは咄嗟に同じ分だけ間合いを外していた。
相変わらずその足捌きは見事なもので、素早く移動しても、右上段に掲げたままのロングソードはまるで揺れない。
ディルが足を止めると、ヴェンツェルも同様に止まった。
何が起きている……。
身にまとう空気が違った。
怪我や疲労が回復しているかどうかといったそんな程度の話ではなく、目の前で相対している男は、先までと別人にしか思えなかった。
何を退いているのだ。私は、剣位を受ける身だろうが!
前に出した左手を一度強く握ると、それを柔らかく開きなおし、ヴェンツェルはすうっと細く息を吐きだす。
ディルが見せる今の構えは、あまりに無造作でおよそ構えと呼べるものではなかった。
だが、そこに何か覚えのある脅威が潜んでいる気がしてならなかった。
視線は下げず、ヴェンツェルは意識だけでディルの右足爪先に注意を払いながら、その正体を探る。
理屈で考えるのではなく、ただ、少し先の未来の映像を覗くように。
クレセント――。
ヴェンツェルは目を細める。なぜ、それが浮かんだのか。
それは、ディスカイス・ムーンライトが使う月煌剣における迎撃の剣の名だった。
イクリプスから呼びこんだ相手に見舞うゼロ距離での斬撃。まるで、その身に三日月型の刃をまとわせるかのごとき技は、触れた敵を一瞬で斬り裂く。
ムーンライトとの闘いに照準を合わせてきたヴェンツェルだからこそ、そのイメージに到達できたのだが、正体が見えたからこそ、それはより一層不可解だった。
構えも月煌剣のそれではなく、しかも、ディルは自ら距離を詰めようとしたのだ。本家のムーンライトは、クレセントを自ら接近して放つことはないというのに。
それでも、その動きの先には、確かにクレセントのイメージが浮かんだ。
私が知らぬ異なる〝月煌剣〟だとでもいうのか……。
そこまで考えて、ヴェンツェルはそれをすぐに否定する。そんなものが存在するのならば聞き及んでいるはずだ、と。ムーンライトに関しては、これまで自身の力の及ぶかぎりで多くの情報を集めさせてきたのだ。
そんなヴェンツェルを見て、ディルが再び笑う。
しかし、そう見えた口は、ただその端を少し吊りあげただけに過ぎなかった。笑っていたのは、その眼の方だった。
嬉々とした輝きを放つ瞳はどこか異様で、凶々しいものを想起させた。
逆立った銀髪も、心なしかゆらゆらと蠢いてみえる。
どうであれ、この地に相応しくない異物よ……。
ヴェンツェルは我に返り、己を恥じた。目の前に得体の知れぬものが現れ、それに気圧されてしまっている自身に気がついたからだ。
その顔から表情が消え、瞳から急速に温度が失われていく。
ヴェンツェルはついと顎を上げると、汚い物でも見るようにディルを見下げた。
「よかろう。元より、異端の剣を断罪すべくこの高みまで上ってきたのだ。まずは貴様から、斬る――」
ヴェンツェルが言い終えた途端、二人は全くの同時に動きだした。
接近していく速度もほぼ変わらない。
元よりシミターより間合いの広いロングソードだが、互いの構えの形からその差はさらに広がり、先に剣の間合いを得るのはヴェンツェルと見えた。
だがヴェンツェルは、攻撃可能な間合いに入っても剣を振らなかった。
仮に、本当にディルが自ら接近してのクレセントを狙っていた場合、至近距離まで近づいてくるはずだが、それを妨げようと先に剣を振れば、それこそ本来の月煌剣のセオリーである、呼びこんでからの迎撃を許す形となるかもしれない。
しかし、敵の先手を許すつもりも毛頭なかった。
我が剣は制圧の剣、先手はとらせぬ!
ロングソードが届くだろう目に見えぬ境界線を抜けると同時に、ヴェンツェルは膝を曲げ、頭ひとつ分腰を落とす。
互いに剣を振らぬまま、二つの身体が衝突しようと一点に吸いよせられていく。
その間、およそ一メートル。通常の振りならばシミターも届くその距離まで二人が到達した瞬間、ヴェンツェルは前に出した左足を強く踏みこんだ。
ヴェンツェルが把握しているとおりならば、クレセントの間合いは二十センチ程度までで、それこそ剣の闘いにおいてならば触れるほどの距離だ。ディスカイス・ムーンライトが放つクレセントも直に二回見ている。
ヴェンツェルが、掲げていた右腕に力を込めた。
「ムンッ!」
踏みこんだ左足で身体の勢いを一気に止め、ロングソードを解き放つ。
クレセントの間合いよりも十センチほど遠いその距離。通常ならば、今からロングソードが振れる距離ではなかった。
だが、ヴェンツェルのロングソードは、最初からそこにあったかのように一瞬で肩の上まで移動すると、そこからディルの左胸めがけて、一直線に滑り降りてくる。
腕よりも早く剣が動いたような錯覚を覚える剣だった。
ディルの目がかすかに見開かれる。
本来の間合いと異なり、クレセントのタイミングよりもほんの一瞬だけ早く繰りだされたその一撃を、予測できるはずもなかった。
それでもディルの身体は、瞬時に反応し動きだしていた。
余計な思考はせず、ただ、構えたシミターが割る視界の中で動いたそれに応じるだけ。
ディルは、軽く曲げていた右肘を伸ばし、シミターを前方へと押しだす。
刃と刃が触れ合い、シャアンッと音を鳴らしながら、シミターの上をロングソードの剣身が滑っていく。
その中で腕を巧みに動かし、シミターだけをその場に残したまま、くるりと身体を回転させると、ディルは背を向けながらヴェンツェルの脇へと入っていく。
「逃すかあッ」
ヴェンツェルは手首の力だけでパンッとシミターを弾くと、背後へ抜けようとするディルを追いかけて、同様に反転した。
しかし、振り向いた瞬間にヴェンツェルは目撃する。
弾いたつもりのシミターが、予想より早く先に動いていた。
それもまた、月煌剣の剣技のひとつだった――。
離れていくディルの身体の動きとまるで無関係に、シミターが下方で、すでに半円を描いている。
使い手の体勢や重心に関係なくどこからでも繰りだされる、まるで曲刀が一人勝手に宙を舞うかのごとき、真円の一撃。
――フルムーンかッ!
「洒落臭いわッ!」
綺麗な円の軌跡を描きながら真上から襲いかかるシミターに怯まず、ヴェンツェルは下からのロングソードでそれを迎え撃つ。
上下逆に同様の軌道を描いた二つの剣が、一瞬で重なりすれ違うと、二人は同時にその場から飛び退っていた。
距離をとると、二人は再びそれぞれの構えへと戻る。
ディルの右の目尻から頬までがざっくりと切れていた。脈動が血を押しだし、太い筋が垂れて顎先まで伝った。
ヴェンツェルも同様だった。右のこめかみから頬までが切れ、血が滴り落ちている。
ディルはまだ鳴りやまない歓声を耳にしていた。見上げれば群青色の空も広がっている。
ここがどこで自分が今なんのために闘っているかをはっきりと理解していながらも、見ている景色が、体感している空間が、現実のものと乖離したままだった。
いや、よく見れば、全てが重なっていた。
ガーデンと夜の路上。目を凝らせば、どちらの光景も目に映っている。
だが、それが不思議と融和していた。そして、その奇妙な融和が、今自分をこうして動かしているのだろうと思った。
「おいおい、気でも触れちまったかあ?」
ザリが、唐突に叫びだしたフィオリトゥーラに向けて言った。ただ、それは彼女が言葉を発してから、少し経ってからのことだった。
フィオリトゥーラは答えず、思いだしたようにザリへと視線を戻す。
銀色の髪を逆立たせながら平然と動きだしただけではなく、異様な雰囲気をその身にまとわせているディルに、二人ともがしばらく目を奪われてしまっていたのだ。
ザリを見つめながら、彼女は考える。
自分はなぜ、あんなことを口走ったのか――。
あの時フィオリトゥーラには、ディルの姿がひどく霞んで朧ろげに見えた。今にも崩れ落ちそうなその姿は、あの暗闇に覆われてかき消えてしまいそうだった。
ゆえに、もがいたのだ。
どうしたら未来を獲得できるのかと――。
そして今、ディルは再びヴェンツェルと対峙している。彼の身に何が起きたのかはわからない。
ただ、それを見たフィオリトゥーラは、訳も分からず激しく高揚していた。
闘いの最中で、こうも晴々とした気分を迎えたことが不思議でならなかった。
二つの碧い瞳が、新たな力を宿しその輝きを増していた。
左肩を一瞬震わせ、黒いスカートの裾をわずかに揺らした後、それをきっかけに、ククリに牽制され止めていた足を、フィオリトゥーラが再び動かし始める。
両手剣は右脇に構えたまま、ゆっくりと、ゆっくりと。
ザリは、ククリを握る右手にほんの少しだけ力を込めながら、いくつかのことへ意識を向け思考した。
狙うならばどこか。身体の部位のどれかを無力化する投擲を放つか、それとも一時的に両手剣の動きを奪うことを狙うべきか。いや、そもそも、このままゆっくりと接近してくるつもりならば、投擲に頼る必要もない。
また、自身の右脚の感覚が次第に回復してきていることも感じていた。
あえて膝を地につけたまま不自由を装った方がよいだろうが、痺れ薬をその身で受けた彼女がそこに気がついている可能性も十分に考えられる。
さあて、どうしたもんかねえ……。
「……ザリ、貴方には感謝しています」
フィオリトゥーラが不意に口を開いた。その歩みは止まらないが、まだザリとの距離は十分にある。
「ああん?」
ザリは、わざとらしく眉をしかめてみせた。ただ、その中で、彼女の表情や視線を注意深く読みとろうと集中する。
フィオリトゥーラはさらに続けた。
「貴方のおかげで、私は闘いというものを少しだけ理解できた気がします」
声を発し、緩やかな接近を続けながら、無謀にも彼女はその目を閉じる。
だが、ザリは動けなかった。それを見たいと思ってしまった。
「朧ろげながらですが、この地で歩む私の姿を見つけることができました」
目蓋が開かれ、再び覗いたその瞳と目が合った。
松明の炎と月明りが入り混じって、照らされる白い顔。あらためて見るその美貌は、この場に似つかわしくなく、ひどく浮世離れしていた。
なんだよ、その眼はよお……。
随分と遠くを見るような、それでいて眼前のザリをしっかりと捉えて離さない、そんな碧い瞳の中に、自身の姿が閉じこめられているのだと、ザリは悟った。
冷たい静寂を帯びながらも、それと相反する燃えるような攻撃性が伝わってくる。
この闘いの中で、その様子を刻々と変化させてきた彼女だが、ザリは今の彼女の眼を見て、初めてこの敵そのものに「怖さ」を感じた。
こいつは……。
諦めたように右膝を地面から離し、ザリがゆっくりと立ち上がった。
面長の顔の中で、端の尖った両の目がきゅっと細くなり、それにともなって大きな口の端が歪む。
肩に担いでいたククリを降ろすと、ザリは両腕を広げ、大きく構えた。
背筋がぶるりと震えた。恐怖ではない。これは、歓喜だ。
楽しめそうじゃねえかよおお……。
その剣先が天を指したまま、ゆっくりと移動してくるカルダ=エルギムの両手剣がわずかに動き、煌めいた。
両手剣の間合いまで、あと三歩、二歩……。
ザリの頬を汗の筋が伝い落ちた、その瞬間だった。
不意に、ひゅういいいいいぃ、と細い線を思わせる甲高い音色が頭上に伸びた。
この長い夜の終焉を報せる笛の音が、唐突に夜空を走り抜けた。




