6-12 変身
ヴェンツェルは今にも弾けそうな怒りに打ち震えながらも、それを抑えこみ、ディルが構えるのを待っていた。
眉間に深く皺を寄せ、凄まじい形相を見せている。イクリプスの構えをとれば、即座に剣撃を放ってくるだろう。
はは、凄えプライド……。完全に自己満足の世界じゃねえか。
ディルは、そんなヴェンツェルを上目で睨みつけながら、あえてゆっくりとシミターを持ち上げ剣先を真下に向けると、視界の中のヴェンツェルに重ねるようにシミターの刀身を縦に置いた。そして、足を肩幅まで開く。
それで形はイクリプスの構えとなった。
だが、先と違いシミターを持つ右手がまるで安定してくれなかった。
まずいな……。
ディルの意志とは関係なく、ゆらゆら、ゆらゆら、とシミターが絶え間なく揺れる。敵の攻撃を報せるための道標となるはずの刀身が、これではただの視界の邪魔にしかならない。
くそ……。
右手に力を込めるが、当然とばかりに腕が痛みを訴え、シミターの揺れは一向に収まる気配を見せなかった。
集中しようと揺れる刀身を見つめていると、はあはあ、と風の音でも耳にするかのように、いつまでも鳴りやまない自身の呼吸音が頭の中に響き、それを邪魔してくる。
うるせえな。
左半身が熱く、そして重い。それは肩から何か熱された鉄塊でもぶら下げられているのかと思うほどで、そのせいなのか、無傷のはずの足すら同様に鈍重に感じた。
それらに気づいてしまうと、もう身体中が悲鳴を上げているのだという事実が唐突に突きつけられ、ディルは思わず、よろめき倒れそうになる不安を覚えた。
そんな中、ヴェンツェルが、剣を構えぬままに足を踏みだす。
倒れずに踏みとどまるのが精一杯のディルは、接近するヴェンツェルに対してほとんど反応できずにいた。
数歩進んだ後、一気に踏みこんでくると、ヴェンツェルは軽く持ち上げた剣を、右、左と素早く振った。
連なる金属音が耳をつんざき、衝撃がディルの右手と身体を襲う。シミターをロングソードが左右から打ったのだ。
力任せで雑なその攻撃は、明らかに曲刀のみを狙ったものだった。
左からの衝撃に揺らぐ身体を、反対からの衝撃がそれを起こす形で、ディルは辛うじて体勢を保っていたが、もはや曲刀から手を離すまいとすること以外何もできなかった。
「違うだろうがあッ!」
怒号。
今の連撃にディルを斬る意志などなく、ヴェンツェルはふらふらとおぼつかないイクリプスの構えに対して、ただ喝を入れる心積もりで剣を打っただけだった。
だが、今はその程度でも効く。曲刀から右腕を通して染みこんできた衝撃に身体を押されたディルは、無意識によろよろと後退してしまう。
仰向けに倒れそうになるのを必死で堪えると、今度は反対に、前向きに身体が傾いた。
「ぐ……おぉぉ……」
歯を食いしばり、咄嗟にシミターの柄を持ち替えると、それを地面に突き立て、なんとか身体を支える。
それでも闘う意志を示そうと上目で睨みつけるが、そんなディルを、ヴェンツェルが冷ややかな視線で見下ろしていた。
「構えろと言っている……。できぬのなら、今すぐに屠ってやろう」
だが、ディルは顔を上げることすらままならなかった。
いつの間にかヴェンツェルの顔から怒りの形相は消え、それが侮蔑の表情へと変わっていた。
眼前の敵の姿はボロボロであまりに弱々しく、自身が怒りをぶつける価値も期待も何もないという事実を、あらためて認識したからだ。
「……ふん。私としたことが、何を昂ってしまったのか」
そう呟きながらも、先の一合で味わった屈辱は消えていなかったが、もう目の前のディルは満足に構えることすらできない。あれがただの偶然だったにしても到底納得できるものではないが、とはいえ、この感情をぶつける相手は、本来ディスカイス・ムーンライトであるべきなのだ。
「動けぬのならそのままでいろ。ここまで持ちこたえたことは誉めてやろう。一撃で楽にしてやる――」
そう言うと、ヴェンツェルはゆっくりと剣を掲げていく。
こいつは、相討ちも難しいかな……。
その剣の動きを目だけで追いながら、ディルは胸の下にあるシミターの柄を、逆手で強く握りこむ。
ヴェンツェルの剣が、ぴたりと頂点で止まる。ここから、おそらくはディルの首を狙って一気に振り下ろされてくるのだろう。
さっさと殺せよ。……けど、最低でも脚の一本ぐらいは貰ってやるからな。
そう、覚悟した瞬間だった。
ディルの頭を。いや、存在を。その声が貫いた――。
「――イメージしなさいッ!」
透き通ったその声の、言葉の意味を考えることもできなかった。
ただ、その言葉に込められた意志が、ディルの脳内に侵入して駆け巡り、急激に何かを発生させていく。
「貴方が目指す場所をッ! 貴方が目指す者をッ! 貴方が目指す剣をッ!」
声を発しているのは、フィオリトゥーラだった。
彼女はザリと対峙したまま叫んでいた。ザリに向けられていたはずの碧い瞳が、今はディルの姿をそこに映している。
しっかりと考えて口にしたわけではなかった。突然の天啓を受けたかのように、自身の中に湧きあがった衝動が、彼女を突き動かしていた。
「相手は剣位です! ならば、不足はないでしょうッ!」
フィオリトゥーラの声がひとつひとつ流れこんでくるたびに、ディルの頭の中が激しくざわめき、その中で音が反響すると、無数の物質が一斉に蠢き始める。
ヴェンツェルが動きを止め、叫んだフィオリトゥーラの方を訝しげに見つめた。
そんなヴェンツェルのロングソードを捉えていたディルの視界が、眩い光に覆われるように、白く、真っ白く塗りつぶされていく……。
なんだよ、これ……?
やがて、視界の全てが白く覆われて何も見えなくなると、その時にはもう音すら何も聞こえなくなっていた。
それどころか、視覚や聴覚に続いて、様々な感覚が希薄になっていく。
自分が立っているのか倒れているのか、起きているのか眠っているのか、それすらもわからなくなるほど、白い世界に全てが溶けていく。
そして、残されたわずかな意識すら消えていくかと思われたその瞬間――。
サーッと、音が聞こえた。
絶え間なく続くその音は、次第に大きく輪郭をともなっていき、ディルの鼓膜を震わせる。
気がつけば、空間全てを震動させる音の波がディルを包みこんでいた。
歓声だ――。
それは、何百、何千という人の声が集合した、巨大なうねりだった。
そう思った時、今、この目に映っている物が何かをディルは理解した。
白。一切の継ぎ目のない白い石。その巨大な石が作る舞台。自分は今その上に立っている。
ディルは顔を上げると、その光景を仰いだ。
広々とした円形のこの舞台の全方位を巨大なスタンドが囲んでいる。一見城壁のようにも見えるその表面を埋め尽くし彩っているのは、万を超える観衆の姿だ。中央の観覧席には、色鮮やかできらびやかな王族や貴族たちが並ぶ。
ここからではよく見えないが、円形の舞台とスタンドの間は、深く透き通った青緑色の水で満たされて区切られているはずだった。
この大闘技場は、円形の小さな湖の上に浮かんでいるのだ。
闘技場のスタンド越しには、群青色の雲ひとつない空が果てしなく広がり、その一部を恐ろしく巨大な白い円柱が縦に割っている。
信じられないほど大きく、信じられないほど天高く空を貫くそれは、大教会の四隅に配置された尖塔のひとつだ。
そう。ここは唯一にして最上位の闘技場。皆がガーデンと呼ぶ、剣闘士たちが夢見る聖地の最高峰たる終着点――。
ディルは一度目を細めた後、目の前に立つ男の姿を眺めた。
ヴェンツェルが、信じられないようなものを見る目でこちらを見ていた。
「な……」
ヴェンツェルはその変貌を前に、思わず一歩後退りしていた。
息も絶え絶えで身体を動かすこともできなかったはずのディルが、剣で支えていた身体を起こし、何事もなかったかのように平然と動き始めたのだ。
乱れていた呼吸も落ちつき、ぼんやりと不思議そうに周囲を見渡している。
だが、それだけならば、構わずロングソードを振り下ろし、首を斬り落としていただろう。
異常なのは、その見目の変化だった。
ディルの銀髪が、全て逆立っている。
先までは、油か何かでぴたりと撫でつけられてあった銀色の髪が、ざわり、と何かに触れられたように蠢くと、一斉に逆立ったのだ。
手も触れずに髪が動く異様なさまを目の当たりにしつつ、だが、それだけでなく見えない何かも同時にそこにあると感じた。
ヴェンツェルは驚きを隠せずにいた。
「貴様、何者だ……?」
呟くように問うが、ディルは答えない。
逆手で持っていたシミターをくるりと返すと、ディルはそれを軽々と右肩に担いだ。
どうなってんだ、これ……。
自分を見るヴェンツェルの様子を不思議に思いながら、ディルはそれ以上に、自身の身体に訪れた異変に驚いていた。
先までこの身体を蹂躙していたはずの、痛みや疲労といったものが、綺麗にどこかへ消え去ってしまっていた。負傷した箇所からの激しい脈動も今は感じられず、おそらくはもう出血すらしていない。
もう一度、周囲を見回してみる。
突然現れたガーデンの風景や自分を包む歓声の音は、いつまで経っても消えることはなかった。
俺は、幻覚でも見てんのか……?
だが、それでも目の前にヴェンツェルは存在している。
訳が分からずとも、今、身体が自由に動くのならば、すべきことに変わりはない。
構えを――。
そう思った瞬間、命じるより先に身体が動きだしていた。
肩幅近くまで足を開くと、右足をわずかに前に出し、直立姿勢のまま少しだけ右肩を相手に向ける。
ディルはシミターを肩から降ろすと、それをそのまま前に差しだし、垂直に立てた。
順手の握り。剣先は、下ではなく真上を向いている。
肘を伸ばしきらず、身体から少し離れた位置で構えられたシミターの刀身は、ディルの視界の中で、ヴェンツェルの姿を中央から縦に割っていた。
イクリプスと比較すると無理のない姿勢だが、曲刀をただ前に出しただけのあまりに自然なその様子は、構えと呼んでいいのかどうかすらわからなかった。
ほとんど無意識に動いた自らの身体を不思議に思いながらも、シミターがぴたりと動きを止めた時、ディルは理解した。
ここから何をすればいいのか。どう動けばいいのか――。
もうヴェンツェルにあからさまな動揺は見られなかったが、少し見開いたままの目でディルを凝視するさまは、まだこの状況をのみこめずにいる証だった。
そんなヴェンツェルの姿を見て、ディルがその顔に笑みを浮かべる。
「来ないなら、こっちから行くぜ」




