6-10 彼女の求める勝利
ダークの刃先が軽く触れ、チュニックの袖が小さく切り裂かれる。
少し切られた。あとでまた血が滲むだろう。
ガルディアから間合いを外すと、デロルトはやはり無理に追ってこない。
完全に翻弄されていた。
呼吸が乱れつつあるガルディアと違い、デロルトは息ひとつ切らせていない。
両手にダークと呼ばれるシンプルな短剣を握ったデロルトは、それを顔の横に掲げ左右対称に構えながら、その場で小刻みにステップを踏んでいる。
ガルディアは警戒しながらも、ショートソードの剣先を少し下げ、低く構えた。
どうせ、すぐには仕掛けてこないんでしょ……。
呆れるように頭の中で呟きながらも、それとは反対に、この相手の戦闘能力に驚嘆していた。
ガルディアの服は、そのあちこちが大小様々に切り裂かれていた。その中で腕や脚、左右合わせて十ヶ所ほどに血が滲んでいる。
動きに影響するような大きな傷こそ負っていないが、無傷のデロルトとの差は明白だった。
大きな形勢の傾きこそ見られないものの、ここに観戦者がいたならば、この闘いの勝敗を容易に予想するだろう。
ここに至るまでの戦闘は、ただ同じことの繰り返しだった。
ガルディアが仕掛ければ、デロルトがそれを凌ぎ、反撃する。速く手数の多い短剣の攻撃を前に、ガルディアはやがて後退する。
反対にガルディアが様子を見ようとすれば、まるで時間でも計っているかのように、一定の間の後、デロルトから動きだす。そしてやはり手数で押され、ガルディアは後退を余儀なくされる。
だが、その攻撃の手数とは裏腹に、デロルトは決して深く踏みこんではこない。
ガルディアは歯噛みした。
長期戦をよしとする。リスクを負わない。その上で、少しずつ相手を削っていく。
デロルトの狙いはあまりに露骨だというのに、それを実行する彼の能力が別格だった。今のままで有利になる材料など何ひとつないと分かっていながらも、抗う術が思い浮かばなかった。
局面を打開しようにも、大した策もなく下手に動けば、ただ自身の不利が加速していくだけとなるのは目に見えている。
ガルディアは一瞬だけ視線を動かして、建物の壁際に置かれたままの黒いケースを確認する。
この敵を前に、再びケースを抱えて、あらためて逃げることなど到底できるはずもない。
いっそ、ケースを置いて逃げる振りでもしてみるか――。
そんなことを考えた途端、ふと別の思考が脳裏をよぎった。
本当に、本気でケースを捨てて逃げたらどうなるのだろうか……? デロルトは、それでも追ってくるだろうか?
そもそも、自分がここで倒れてしまえば、剣を奪取するという目的は果たされない。
仮にどうあっても失敗に終わるとするならば、自身がここに命を懸ける意味はあるのか……。
ガルディアの思考が、今自分が置かれている状況の根本的な部分に触れようとした時、不意に、それらが浮かんだ。
――澄んだ碧い瞳の中に、小さく燭台の火が揺れている。
ああ。フィオさん、またそんな眼で見るんだ。
大して何も考えていないくせに、全てを見透かしたかのような視線、鏡のごときその瞳……。
続いて、声が聞こえた。
――我ながら呆れるが、半分イラついて、たぶん残り半分では、それを羨ましく思ってる。まあ、結局はただの気まぐれってやつか?
ディルが小さく苦笑してみせる。油で撫でつけられ、いつもと違う見慣れないその銀髪。
そのままにしてるけど、似合ってないし、それ……。
ああ。ほんと、面倒くさ……。
デロルトが音もなく踏みこんでくる。
ガルディアは半歩後ろに退がりながら、しっかりとショートソードを構えなおした。
いいよ。足掻いてあげるよ――。
素早く振られた左右のダークを躱し、その軌跡を目で追いながら、次の動きを予測した。
デロルトは曲げた両肘のうちの右肘だけを伸ばしながら、その右腕を、ひょいと持ち上げる。
右手のダークがふわりと浮いて、その刃がガルディアの顎の先を狙った。
速いが、まるで力の入っていない攻撃。とはいえ、刃が触れればその場所は当然切られてしまう。
しかし、ガルディアは退がらない。結局のところ、これまではデロルト同様に自分もリスクを嫌っていた。
空の左手を持ち上げると、ダークの刃が顎に触れるその瞬間、ガルディアはその手で刃を横から叩いた。
そんな手打ちじゃ、殺せないから。
ダークを左手で押しのけながら、ガルディアが前に足を踏みこませる。同時に、右に構えた小剣の剣先をデロルトの胸元へと突きだす。
その身体が後方へと傾きながら沈むと、デロルトは、しなやかな跳躍で大きく飛び退っていた。
チッ、とガルディアが小さく舌打ちする。
ガルディアは、突ききらずにショートソードを途中で止めていた。
デロルトは着地した後、そこからさらに数歩後退する。
この闘いの中で初めて、二人の距離が大きく離れた。
「相討ち狙いか……」
デロルトが呟く。
実際、今のガルディアの攻撃は、それまでと比較すれば隙だらけだった。デロルトが武器を操る速度からすれば、ショートソードの剣先が届くより先に、その腕か胸元にダークを突き刺すことも十分に可能だっただろう。
だが、デロルトはそれをしなかった。
「勘がいいよね。でも、ちょっと違うかな」
ガルディアがにこりと笑う。彼らしい明るい笑みだったが、その口の端だけが、かすかに引きつっている。
もし、先の突きにデロルトが攻撃を合わせてきたのなら、そこからさらに踏みこんで、剣を一気に加速させて深く突き入れるつもりだった。その際、ダークの刃がこちらの身体のどこかに当たることなど構わずに……。
「ダークとショート(小剣)、まともに当たったら、どっちが痛いかな?」
ガルディアは、ショートソードの剣先を持ち上げる。
反対の左手の指がちくりと痛んだ。ダークの刃を叩いた時に、わずかに切れたのだろう。
そう。相討ちではないのだ。少しの痛みに堪えて、それで相手を仕留めることができるのならば、それは十分に悪くない取引なのだから。
「闘い方、ちょっと似てるなって思ってさ。で、僕は嫌いなんだよね。そういうの露骨に狙ってくる相手って」
デロルトは言葉を返さず、ゆっくり右手を掲げると、いつでも投擲可能な位置にダークを構える。
ガルディアが、ここまであからさまに自身の狙いを告げたのは、牽制の意味合いが強かった。形勢不利の彼からすれば、何かしら相手に考えさせることは悪い要素ではない。
とはいえ、口にしたことは決して偽りなどではなく、ガルディアは、デロルトが「相討ち狙い」と見たその行為を狙うと、覚悟を決めていた。
ダークの攻撃は速く多彩だが、正確に急所を狙われるか、深く突き入られるでもしなければ、一撃で致命傷を負うとは考えにくい。対してショートソードは、短くとも剣としての攻撃力を十分に有している。
これを単純な戦力の差と捉え、それを有効に使う手段を咄嗟に考えた結果が、防御を捨てるという選択だった。
肉を切らせて骨を断つ、だっけ? あー、やだやだ。
デロルトはまだ動かない。ガルディアを見つめるその視線に変化はなく、焦りも動揺も見られない。
右手のダークを警戒しながら、ガルディアはほんの少しだけ前に出した左足を滑らせる。
さあ、どうする?
自ら仕掛けるべきか否かを悩みながらも、今度は同じ分だけ右足を引き寄せ、それからさらに左足を前に進めた。
と、その時だった――。
構えるデロルトの背後。その頭上の夜空に、ふわりと、月明りを受けた鮮やかな黄金色の髪が大きく広がった。
え……?
ガルディアは呆気にとられ、視線は自然とそこに吸い寄せられていく。
それは、確かにデロルトの背後へと降り立ったはずだというのに、まるでその気配を感じさせなかった。
見ていてすら、そこに本当に何かが現れたのか疑わしく感じてしまう。
柔らかな一枚の羽根が、人知れず地面に舞い落ちたような、そんな印象だった。デロルトが着地した際も見事なものだったが、それすら比較にならない。
現に、すぐ背後に現れたはずのその存在に、デロルトはまだ気づいていない。
しかし彼は、ガルディアの目線の変化から、わずかに遅れて異変を察知する。
ガルディアに顔を向けたままで左、ガルディアから見た右側へと、デロルトが移動を開始した。
安易に目の前の敵から視線を外したりせず、それでも新たな脅威の可能性を考えたその対応に、賢明な判断だなとガルディアは感心するが、デロルトの背後についたそれは、まるで彼とひとつの塊であるかのように、ぴたりとくっついて離れなかった。
ふわりと再び金髪が揺れるが、その姿はまだデロルトに隠れてはっきりとは見えない。
そして、デロルトが足を止めた刹那――。
布でも擦ったかのような小さな音とともに、彼の胸元から突然何かが飛びだした。
デロルトの黒いチュニックから突きだしたそれは、細く鋭い刃だった。
ああ、レイピアだ……。
ガルディアは眺め、ぼんやりとそんなことを考える。昨晩、クローディアの剣をディルが見ていたせいか、すぐにそれとわかった。
綺麗に肋骨の間を抜けたのか、剣はほとんど音も立てずに、デロルトの胸の中心近くを貫いていた。その剣身にはほとんど血もついていない。
自らの胸元から突きでた細い剣先を、デロルトが不思議な物を見つめるように凝視していた。
やがて、すっと、音もなく刃がその姿を消す。背後へと引き抜かれたのだ。
「な……」
デロルトは慌てて振り向こうとするが、その時にはもう、彼は身体の自由を失いつつあった。
反転した直後、両膝が力なく折れ、吊っていた糸を一斉に切られた操り人形のように、その身体は、ぺしゃりと地面の上に崩れ落ちてしまった。
少し遅れて、倒れ伏した身体の下から血の染みが這いでてくると、それが地面に広がっていく。
デロルトは、もう動かなかった。
倒れたデロルトの向こう、ガルディアの視界の中、月明りを受けたその姿が浮かび上がる。
腰までもありそうな緩やかなウェーブを描く長い金髪は、軽やかながらもボリュームがあり、その華奢な肩の外までも優雅に広がっている。
針金のような細い体躯。髪と腰の辺りのシルエットから女性と判別できるが、背もガルディアより明らかに低く、その姿は一見少年のようにも思えた。
「邪魔しちゃった? ごめんなさいね」
細く高いが柔らかな声。歌うような軽やかさで彼女は話す。
鮮やかな手つきで、たった今デロルトの命を奪ったばかりのレイピアを左腰の鞘へと納めると、彼女は歩きだし、倒れたデロルトの足の辺りをひょいと小さく飛び越えてから、そのままガルディアへと近づいてきた。
長い金髪と膝上の短いスカートが、彼女の一歩一歩に合わせて、ゆらゆらと左右に揺れた。
一見全てが黒く見える彼女の服だが、よく見ればそうではなく、近づくにつれそれが深い藍色をしているのだとわかる。
その色合い、模様、生地感、ドレス調のシルエット。それらに見覚えがあるような気がしながらも、ガルディアはこの乱入者を強く警戒し、小剣をしっかりと構えなおした。
「――逃げろッ。逃げちまえば、おまえの勝ちだッ!」
その声を聞き、フィオリトゥーラはディルの顔を見た。
ディルは、視線をヴェンツェルから逸らさずにいる。この状況と今の一言で、彼女ならば察して動きだせると信じているからだ。
だが、当のフィオリトゥーラは、目を見開き、その場で固まっていた。
目を合わさずとも、その横顔を見るだけで伝わってくる。
ディルの覚悟と決意が――。
ダーツの毒で片脚の自由を奪われたザリからならば、確かに逃げることができるかもしれない。仮にあの巨大なナイフを投げられたとしても、一度でも凌げば、その後は距離を離せる。
その上で、ガルディアが無事逃げきれていれば、あの剣はこの手に戻ってくるのだ。
ただし、それはもうひとつの結末も意味する。ここに残される者の末路は、容易に想像することができた……。
フィオリトゥーラは両手剣の構えを解くと、その視線をディルにでもザリにでもなく、何もない空間へと向け、力強く睨みつける。
「申し訳ありませんが、それには応じられません」
静かに、だが、よく通る声が告げた。
「私が今求める勝利は、それでは得られないのです」
まだ剣を構えようとしないヴェンツェルを前にしながら、ディルは愕然とした。
はあッ⁉ なんでだよッ。
フィオリトゥーラは両手剣を携えたまま、ゆっくりディルの方へと近づいてくる。
見なくとも、ディルにはその気配でわかった。フィオリトゥーラは逃げず、さらには自分に代わってヴェンツェルと闘うつもりなのだ。
目的最優先、利用できるものは利用しろっつっただろうが……。
「フィオ! 行けよッ」
その名を呼んでも、彼女の歩みは止まらない。
くそッ、まるで言うことを聞きやしねえ。
ディルは一歩後ろに退がり、まだ離れていたヴェンツェルとの距離をさらに空け、それから彼女の姿を見た。
碧い瞳が、真っすぐにヴェンツェルへと向かっていた。そこには、迷いや恐怖といった感情が一切見られない。強い力を秘めていながらも、静かに、静かに燃えさかる青い炎……。
「酷なお姫様だぜ……」
ついさっきまで、自分は彼女と同じような顔をしていたのではないかと、ディルはふとそんなことを思った。
右手のシミターをゆっくりと持ち上げて、再びイクリプスの構えをとろうと身体に力を込める。
不意に、低くくぐもった声が二人へと届く。
「おい……。相手を間違えてんじゃねえぞお」
ザリだった。
見れば、ザリが右手のククリを肩の上に担いでいた。闘いが始まって以来その顔に貼りついていた不快な笑みは消え、今はただフィオリトゥーラを鋭く睨みつけている。
フィオリトゥーラは、足を止めた。
ザリならば、こちらの動きに合わせて正確にククリを投げることができるだろう。不用意に動くことは許されなかった。
「仕方ねえな……。あいつの言うとおりだ。お互い続きをやろうぜ」
ディルが言うと、二人はほんの一瞬だけ目を合わせた後、すぐに互いの敵へと視線を戻す。
「ディル……」
「心配すんな。おまえがその気なら、俺もなんとかしてやるさ」
フィオリトゥーラは小さくうなずくと、構えられたククリを意識しながらも、ゆったりとした動作で剣先を天に向けて、再び両手剣を右脇に構えた。
ザリはククリを投げる構えを見せながらも、簡単に投げてくるような真似はしない。むしろ、露骨な投擲の構えは、実際に投げるためではなく、フィオリトゥーラが逃げたり、あるいは、例の剣技を用いた迎撃態勢に再び入ろうとするのを防ぐ意図からだった。
そうは言ったものの、どうしたもんかね……。
ディルもまた、ヴェンツェルと対峙する。間合いはこちらもまだ離れたままだ。
なぜか、ヴェンツェルは動こうとしない。
下ろした剣をそのままに、ただディルを睨みつけていた。
元より厳格なその顔が、眉を寄せて沈め、唇を噛みしめることによって、さらに険しさを増している。
指導者然とした余裕が消え、そこに現れた新たな感情は、激しい怒りだった。
「構えろッ!」
周囲の空気が全て震えるような、太い声が響きわたる。
「イクリプスだ。もう一度見せてみろ……」
ヴェンツェルは、我を忘れそうなほどの怒りに身を震わせていた。
もう何年も前から、異端の剣を使う仇敵として、ムーンライトという存在に焦点を絞っていた彼にとって、先の一合はあまりにも屈辱的だった。
イクリプスの構えを用いた敵を撃破できず、しかもその相手は、月煌剣の使い手であるディスカイス・ムーンライトですらない。誰ともわからぬ名もなき一介の剣闘士を相手にとってしまった不覚……。
対峙する眼前の敵、月煌剣、ムーンライト、自身の不甲斐なさ。
この身を焦がすような怒りが、何に向けられたものなのか、ヴェンツェル自身にすらわからなくなるほど、その感情は沸騰していた。
「なんだよ、随分気に入っちまったみてえだな」
ディルはそう言って笑ってみせるが、このヴェンツェルの変わりようが、この闘いにどんな影響を及ぼすのか想像がつかなかった。
自身のランクの試合程度であれば、怒りに我を忘れた相手を御するなどたやすいことだが、今目の前にいる者はまるで格が違う。
剣位という存在が、怒りに任せて剣を振るった場合、どうなってしまうのか……。
それと同時に、もはや限界を越えつつある自身の身体への不安もよぎった。
だが、ディルの目的は明確で、それが揺らぐことはない。
何があっても、ヴェンツェルというこの脅威を、フィオリトゥーラの前から排除する――。
ここからどう闘うかではなく、もはや、それだけが頭の中の全てを占めていた。
せめて差し違えるぐらいはしないとな……。俺が倒れちまえば、流石にあいつも逃げてくれるだろうよ。




