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6-9 イクリプス

 ヴェンツェル――。

 不意に届いたその名の響きに覚えがあった。

 そう。聖地の剣位の話題の中で登場した名前。ディルと対峙する男が、今その名を名乗ったのだ……。

 フィオリトゥーラでさえ漠然と理解できた。今この場で耳にするには、それは最悪の名といえた。

 ククリが振られた瞬間、反対の大きな左手が両手剣の柄を取りに来ていた。

 フィオリトゥーラは足捌きだけでククリを躱すと、素早く両手剣を脇に引いて、それを逃れる。細く長い不気味な指が、くしゃりと空を掴んだ。

 ザリは速い動きも可能としている。この接近戦の中で、フィオリトゥーラはそれを十分に理解した。

 彼がそうと意識すれば、その長い腕を小さく細かく動かし、クローディアのレイピアのような連撃をも可能とするのだ。しかもそれは一定ではない。

 フィオリトゥーラは、クローディアが闘いの途中から見せた、こちらの反撃を誘うためのテンポをずらした攻撃を思いだす。

 彼女のそれは、一定のリズムから明らかに狙って変化していったが、ザリの攻撃は最初から一貫していた。

 まるで安定しないリズム。常に武器を使うとはかぎらない攻撃。それ自体に意味があるのかないのかわからない様々な所作。

 それら全てが何かの罠のように思えて、フィオリトゥーラは反撃の糸口をまるで掴めずにいた。

 しかもザリは、巧みに自身の動きに余裕を残している。速く動くもののその中に大きな動作は入れず、こちらが何をしても即座に対応できそうな気配が常にそこにあった。

「ほら、ほらッ。そうらあッ」

 耳障りな声がやまない。

 ザリは、短く速いククリの連撃をこれみよがしに見せた後、今度はそれを下から振り上げる。

 フィオリトゥーラが再び足捌きのみで攻撃を躱そうとした瞬間、自身のククリを追い越すように踏みこんで、ザリがその身体を寄せてきた。

 まるで自分からフィオリトゥーラの両手剣の刃に身体を当てるように近づくザリに対して、そのまま刃を引けば……と、当然考えるが、そう思った瞬間、踏みこんだザリの爪先が、彼女のブーツの先に触れる程度に当たる。

まただ、と、フィオリトゥーラは思った。

 ザリは攻撃の合間にこういった行為を織り交ぜてくる。攻撃と無関係な場所で、攻撃意思を感じさせずに、ただ軽く身体をぶつけてくるのだ。 

だが、たったそれだけのことで、反撃の手が出なかった。

 反射的に後退するフィオリトゥーラに、そのままの距離を保つべくすかさず粘着するザリ。

 彼女は、ただ反撃が困難な状況としてしか現状を捉えていなかったが、ザリは明確な意図をもって攻撃を繰りだしていた。

 致命傷を与えることを今は一切考えずに、相手が大きな隙を見せることだけを狙う――。

 コンパクトなククリの攻撃も、意味もなくただ彼女の身体に自身の身体をぶつけて触れさせたりする行為も、全ては流れの中で思いつくまま行っていた。

 反撃を許さないつもりもなかった。相手が剣を振るうことで、それが望む展開の引き金となるならば、むしろ望ましい。

 ザリは、緻密に計算してフィオリトゥーラを追い詰めるわけではなく、彼女のリズムが崩壊する雰囲気を感じれば、そこに向かって感覚で行動を変化させるつもりでいた。

 時に理詰めで動き、それ以外では、自身に備わっている戦闘本能のようなものに身を任せる。それが、ザリの闘い方だった。

 相対するフィオリトゥーラにとって、それは厄介なものだった。

 ククリを振るう直前に、ザリは空いた左拳でコンとその刃の腹を叩いてみせる。

 なんの意味もない思いつきの動きだが、彼女はそれにも反応してしまう。

 その直後にククリを大きく避けてしまい隙ができるが、ザリはあえて追撃を入れない。それがまた、彼女のリズムをさらに狂わせかける。

 単純な速い連続攻撃に翻弄され、ままならず体勢を崩していくのとも違う。次第に自らの足場を奪われていくような、不気味な感覚……。

 フィオリトゥーラの中に、ザリとの戦闘開始直後に感じていた恐怖が、再び芽生え始めようとする。

 だが、そんな時だった――。

 ふと、彼女の視界にそれが映った。

 鼻先をかすめた拳。振り上げたザリのその左腕が通りすぎた、その向こう。

 意図して見たわけではない。だが、偶然にもそこにディルの姿があった。

 対峙する敵の剣から、必死で身を逃すその姿……。

それは、彼女の知る彼の動きではなかった。反撃など期待できない、ただ慌てて脅威から逃れただけの、らしからぬ姿。 

 そこには、彼が三人の敵を相手にした闘いで見せたような、華麗で無駄のない動きの面影は微塵もなかった。

 そして、同時に見えてしまった。

 ディルのチュニックの半分が、本来の色と異なる色に染まっていた。

 松明が照らしているとはいえ、この夜闇の視界の中ではすぐに本来の色を判別はできないが、それが何かはすぐに想像できた……。

 フィオリトゥーラは、ディルに視点を固定したままで、続くザリの攻撃をほとんど無意識に避ける。

「ああ?」

 予想外のフィオリトゥーラの視線の動きに戸惑い、ザリは一瞬だけ攻撃の手を止めた。

 その変化にも気がつかず、フィオリトゥーラはさらにディルを見つめた。

 間近にいるというのに、ディルの姿をひどく遠くに感じた。

 霞んで見える。夜の闇のせいではない。

 再び全身を蝕む、不安と恐怖。

 ああ……。あれは、あの暗闇だ。

 彼が今対峙している者。剣位という名の絶望……。

 夢を喰らおうとするその暗闇の名が、ヴェンツェル――。

「ディルッ!」

 彼女は叫んだ。そこに被さるククリの連撃を、またしても意識せずに躱しながら。

 彼の力となる物がどこかにわずかでもあるのならば、何にでもすがりたかった。

「その辺りに、小さな矢が、落ちていませんかッ?」

 思いつくまま叫び、再び連続して繰りだされるザリの攻撃に身を晒しながらも、彼女は続ける。

「それには、痺れ薬が塗られていますッ」

 それだけ言い終えると、フィオリトゥーラはようやく眼前の敵へと視線を戻した。

 ディルならばと、揺らぎかける心に強く刻みなおし、彼女は自身の敵をしっかりと見据える。

 ザリは、こちらに戻ったそんな彼女の瞳と目を合わせた。

 ディルの姿に注意を移してからここまでの間、彼女は何にも惑わされることなく、ただ純粋に、いや、それこそ片手間のようにザリの攻撃を全て躱していた。

 再び始まる攻防の中で、ザリは攻撃を再開しながらも、かすかに不穏なものを感じた。

 何か、そこに彼女の本来の姿を垣間見たような、そんな嫌な予感があった。



「構わん。拾え」

 ヴェンツェルが冷徹に言い放つ。

 フィオリトゥーラの声は当然彼にも届き、何よりディルがその言葉を受けて、一瞬だけ視線をそこへと向けたからだ。

 地面に落ちている白い羽根のダーツは、ザリが戦闘の中で放った物だ。

 事前に確認していたそれは今、ディルの足元から三メートルほど離れた場所に転がっていた。

 まだ次の構えに入ろうともしないヴェンツェルに視線を置いたまま、ディルは少しずつ移動する。

 その間に、乱れた呼吸をなんとか少しでも抑えこもうと、大きく息を吸った後に、小刻みな呼吸を忙しなく繰り返す。

 そんなに余裕見せてくれんなら、こっちも乗ってやるよ……。

 ディルは歩きながら、逆手で握っていたシミターをゆっくりと右腰の鞘へと納めた。

 それからダーツが落ちている場所に着くと、身をかがめ、それを右手で拾う。

 ヴェンツェルに隠れて密かに、ディルはその顔に晴れやかな笑みを浮かべた。

 この状況を見ても、あいつはまだ諦めていない……。

 それがひどく嬉しかった。

 ディルは手にしたダーツを強く握りこみ、ヴェンツェルへと振り向く。

 ダーツの先端を自身の鼻に近づけて、その匂いを嗅いだ。

 なるほど、確かに何か塗ってあるな。

 ディルがそれを確認した時、ヴェンツェルが再び口を開いた。

「傭兵らしい小細工だな。だが、そんな物は役に立たんぞ」

 その声を耳にしながら、ディルが顔を上げる。先まで揺らいでいたものが、完全にそこから消え去っていた。

 強烈な戦意が見られるわけでもない。ただ静かなそれは、決意の表情――。

 ヴェンツェルはわずかに眉をしかめる。

 たかが痺れ薬が塗られたダーツ一本を手にしたからといって、こうも雰囲気が変わったことが不思議だった。

 単なる愚者の浅はかな希望の灯とも思えない。現状を理解していながらも、何かを成し遂げようとする意志の表れが、そこから感じられた。

 ディルはちらりと、フィオリトゥーラとザリの方へと視線を向ける。

 短剣か小剣ほどの間合いのままで、ザリが一方的に攻撃を仕掛けながら、二人はダンスのステップでも踏むかのようにして、忙しなく路上を移動していた。

 先よりも今は少し離れているが、フィオリトゥーラが大きな円の動きで後退を繰り返しているため、やがてまたこちらにも近づいてくるだろう。

 自分が為すべきこと――。

 その道筋が見えた今、もう迷いや動揺はなかった。

 ディルは、自身の左腕に目を向ける。

 士気が下がると思い、あえて直視してこなかったが、予想と違い血はそれほどついてはいなかった。血まみれの腕を想像していたが、手首まで一筋赤く垂れているのみで、そこまで無残な見栄えでもない。

 さて、と……。

 右腕以上に遥かに怪しい感覚の中、左手を、握って、そして開いてみる。

 十分に動いた。

 次に、肘を曲げてみる。

 少しは曲がる。だが、大きく角度をつけようとすれば、肩の痛みがそれを阻害するのか、途端に力が抜け落ちてしまう。おそらく、速く動かそうとしても同様に厳しいだろう。

 ディルは、右手でダーツを垂れ下がったままの左手へと運ぶと、そこに小指の側から先端の針が飛びだすようにして握らせた。

 それから、空いた右手をゆっくりとシミターの柄へと移動させる。

 もう少しだけ、動いてくれよ。――いや、動くッ!

 右腕に強く意志を込める。もはや、物理的な力の有無など期待しなかった。痛みが常につきまとうのならば。その痛みすら力になれと命じた。 

 いつもそうするように、鞘からシミターを逆手で引き抜き、それをくるりと返して順手に持ち替える。

 上腕の痛みに軽く顔をしかめるが、短く吸った息を鋭く口から吐きだして、それに耐えた。気がつけば、いつの間にか呼吸が落ちついていた。

 ヴェンツェルはこちらを見守ったままで、まだ戦闘態勢に入ろうとしていない。

「……流石に余裕だよな、剣位様は。でも、あんたの追っ手、なかなか帰ってこないよな。もう逃げきられてんじゃねえの? ウチの奴は、結構速いぜ」

 ディルはシミターを上方に掲げながら、その顔に笑みを浮かべる。

「ふむ……。逃げた男を信頼しているのだな。だが、そちらが信頼を寄せる以上に、私もあの男の能力を買っている」

 ヴェンツェルの顔に、動揺は微塵も見られなかった。 

「……面白いものを見せてやるよ」

 ディルは呟くように告げてから、順手の握りのままで、ゆっくりとシミターを掲げていく。途中で剣先は下に向けながら、曲刀を持つ右手をそのまま自身の頭の少し上まで持ち上げた。

 ぴたりと動きが止まると、ディルの正面にシミターの刀身が縦に置かれた。

 右肘を張って、曲刀の先を真下に向けたその独特な構え――。

 両脚は肩幅に満たない程度に開かれ、右足をわずかに前に出しているものの、身体は直立姿勢に近く、半身ではなくほぼ正面を向いている。

 イクリプス――。

 その名を、ヴェンツェルは当然のごとく知っている。知らぬはずがない。彼が剣位として、ガーデンで最初に闘うその相手が用いる剣の構えなのだから。

「どういうつもりか知らんが、その真似事は醜いな……」

 ヴェンツェルは、その顔に侮蔑の念をあらわにした。

「いいぜ。来いよ」

 ディルは、シミター越しにそんなヴェンツェルを睨みつける。 

 やばいな、顔が緩んじまう。馬鹿じゃねえの? なんでこんなに楽しいんだよ。

 自身でも気づかぬうちにディルは著しく高揚し、その集中力はゲインとの闘いの中で見せた最高潮の時と同等、いや、それすら越えて高まっていく。

 まだ遠い間合いのまま、ヴェンツェルが緩やかに十字型のガードを持つ剣を持ち上げた。その動きに合わせて剣身の上を滑らかに這っていく、ムラのない煌き。

 こうして見た程度では、剣に詳しいディルでもそれがどういう代物かはわからなかったが、おそらくは剣教御用達のブランドの一点物の類なのだろう。

 ヴェンツェルは、やはりロングソードを右上段に構える。

 ただし、その構えは先とは違っていた。

 柔らかく開いた左手を前にだし、左肩を少し前に出す。肩幅に開いた足は前後していて、後ろの右足の爪先は外に開いていた。ぴんと吊られたような直立姿勢を保っているが、その膝はわずかに曲げられている。

 地面にしっかりと根を張った大木のような安定感と力強さを感じた。その構え、その表情から、圧倒的な自信が漂っている。

 ヴェンツェルが動きだす。

 見事な足捌きだった。上体をまるで揺らすことなく、滑るように一瞬で間合いを詰めてきた。

 そして、すぐにぴたりと止まる。

 ロングソードで踏みこめる間合いのほんのわずか外だった。そこから爪先が一センチでも入れば、ヴェンツェルの剣の間合いとなるだろう。

 だが、ディルは応じることなく、イクリプスの構えのまま微動だにしない。

「ほう……。その異形の構えと心中するか」

 ヴェンツェルの姿が一際大きく見えた。先とは比較にならない、桁違いの迫力だった。

 それでもディルの心は落ちついたままで、その視野は広く保たれている。

 伸びてくる剣の正体はまるでわからないが、おそらくは、剣が加速するタイミングか、その軌道に秘密があると思われた。とはいえ、それは小手先のトリックなどではなく、磨きあげられた剣の技が生んだ副産物に過ぎないのだろう。

 それだけに、何かを見破ったところでどうにかなるものでもない。自分を上回る剣を躱すことなどできないのだから。

 常識を捨てろ。ディルは自身に語りかけた。

 フィオリトゥーラから聞いた、あの教えの思想が理想的だった。思えば、柔軟に思考しようと考えていながらも、自分は様々な常識に縛られている。

 剣が振られれば剣の軌道を予測し、矢が放たれれば矢の軌道を予測して動く。それらは当たり前のことだが、ここからの領域では、そんな常識が邪魔をするのかもしれない。

 対峙する二人は互いに動かず、その視線を合わせた。

 ヴェンツェルの青い瞳から、他の余計な感情の一切が排されていき、ただ強烈な意志と力だけが充填されていく。

 一撃で決める気だろ……。

 凄まじい重圧に晒されながら、ディルは瞬きも呼吸も忘れ、タイミングを計る。

 耳から入る音と気配だけを頼りに、その機を待った。

 ――今だ!

 ディルは構えを崩さずに、すっと一歩だけ後退する。

 ヴェンツェルはディルの動きを瞬時に察知し、ぴたりと合わせるように、同じ分だけ間合いを詰めてきた。

 そして、そこからさらに、わずかに白いブーツの爪先を滑りこませてくる。

 来るッ……!

 周囲の空気が、渦を巻くようにしながら目の前に吸いこまれていく感覚。

「フンッ!」

 ロングソードがぶるりと震えたかと思うと、それは視界から消え、あの糸を引くような剣の軌道が瞬時に現れた。

 構えた曲刀越しに見えたそれは、縦に近い角度で、左斜め上からシミターを狙って振り下ろされてくる。

 ディルは、ヴェンツェルの剣の意志を強く感じた。

 イクリプスで構えたシミターを叩き折りながら、そのままディルを一気に斬り伏せる――。そんな圧倒的勝利を、その剣は遂行しようとしていた。

 一瞬の中、ふうっと、こちらの予測や動きを追い越すようにして、剣が伸びてくる。

 しかし、ディルはそこに意識を向けなかった。

 膝の力を緩め、一切退らずにシミターをほんの少しだけ動かした。

 ただ、感じる圧力に応じればいい。ヴェンツェルの剣から身を逃そうとするのは無理な話と、最初から割りきっていた。

 シャアアンッ!

 シミターの上を走る剣身から、こぼれるようにして、わずかな火花が舞った。

 互いの剣が触れ合い鳴らす音に包まれながら、ディルがその身を滑らせていく。力に逆らわず、ヴェンツェルの剣圧に身を任せることで、自然と身体が横向きに押しだされていた。

 シミターは折られず、ヴェンツェルの剣はディルに届いていなかった。

 刀身を斬り裂こうとする敵の刃の入りに対して、ディルはシミターをわずかに傾けて角度をずらし、あとはただ、そこにロングソードを滑らせたのだ。

 剣を振り終えたヴェンツェルが、驚きにその目を見開かせる。

 身を翻しながら、ディルがくすりと笑う。

 こいつも、そこらのなまくらじゃねえんだよ。

 ディルが巧みに受け方を調整したとはいえ、普通の剣ならば、それでもヴェンツェルの思惑通りに剣ごと斬撃の餌食となっていたかもしれない。

 だがこのシミターは、まだ無名とはいえ、ディルが全幅の信頼を寄せる剣工が製作した逸品なのだ。

 今の一撃を凌いだ我が身と、相手の剣を受けきった自身の曲刀の精度と強度に、思わず胸が熱くなり、合わせて背筋に震えが走る。

 そんな興奮をそのままに、ディルは背後へと視線を移動させた。

 振り向いた先で、右から左へと、後退していくフィオリトゥーラの姿が横切った。

 そして、彼女が通りすぎた空間を、上から下へククリの刃が斬り裂く。ならば、次にそこに現れる者は決まっている。

 ディルの足が地を蹴った。二メートルほどの距離を、空中で身体を反転させながら一気に詰める。

「フッ!」

 足を着いた瞬間、鋭く息を吐き、ディルは腕を大きく振りまわして、右にシミターを払った。遠心力を利用した動きで、大して力は入っていないが、しっかりとシミターは狙ったその場所に到達しようとしていた。

 刃が向かう先に、低く構えたザリの頭部が現れる――。

「おおッ?」

 突如自分に向けられた攻撃に声を上げながらも、ザリはさほど慌てた様子もなく、腰を落として首を傾けながら、難なくシミターの刃をかいくぐった。

 不意を突かれたとはいえ、速度も威力も、まるで不十分な一撃だった。

 ザリはさらに、左手で空を切ったばかりのシミターの背を掴んで、それを引いた。

 体勢を崩し泳ぐディルの身体が、ザリの方へと引き寄せられていく。

「てめえの相手は、剣位様だろうがよおッ」

 ザリの長い脚が折りたたまれ、その尖った膝がくいと持ち上がった。 

 引かれたディルの身体に吸いこまれるように、ザリの膝がその腹部へ、ズン、と突き刺さる。

「ぐ……」

 ディルが呻きをもらした。力の抜けた身体が、ずるりと崩れ落ちる。 

 ザリはニヤリと笑い、続けてククリを振り下ろそうとその手に力を込めるが、その時、ずきりとした痛みを感じた。

「……あ?」

 ザリが思わず視線を向けた自身の右腿には、見覚えのある小さな矢が刺さっていた。

 少し前、フィオリトゥーラがダーツについて発していた言葉が瞬時に思いだされる。

 うつむいたディルの口の端に、満足気な笑みが浮かんでいるのが見えた。

 膝蹴りを受けた瞬間、ディルは左手に握っていたダーツの先端を、ザリの脚へと刺していたのだ。

 最初のシミターは囮であり、ディルの狙いはその一点のみにあった。

「野郎……!」

 ザリが一瞬止めた右手に再び力を入れる。苛立ちに任せて、ククリでその首を跳ね飛ばすつもりだった。

 だが、その瞬間だった。

 突然冷水でも浴びせかけられたような嫌な感覚が、ザリの右半身全体を覆った。

 戦場で幾度となく体験したことのあるその感覚――。自らの内に鳴る、命を奪う脅威の到来を報せる警報。

「――くおッ!」

 迫りくる殺気と圧力。この危険地帯から逃れなければと、ザリは咄嗟に強く地面を蹴って跳んだ。長い脚のバネを使いきり、とにかく遠くへと。

 そして、跳躍した直後に、襲いかかるそれを見た。

「ハアァッ!」

 掛け声とともに、ザリのいた空間が斬り裂かれていた。

 剣は斜めに細くその軌道を描くが、その圧力は凄まじく、まるで周囲の物全てを巻きこみながら、その上で鋭利に断ち切るようにして進む。

 強烈な斬撃だった。

 一瞬で通りすぎた剣を追いかけるように、ウォン、と風切り音が鳴った。

 空を切ったとはいえ、それは、この闘いの中で初めて見せた彼女の全力の一撃だった。

 上体を投げだすような豪快な振りを見せた華奢な身体は、くるりと一回転すると元に戻り、すかさず両手剣を右脇に構えた。その剣先がぴたりと止まり、天を指す。

 着地したザリは、力の入らない脚をかくんと折り、そのまま右膝を地につけた。

 大きく見開かれたザリの目の中、小さな瞳がその中心で凝固している。

 両手剣を構えた黒服の女剣士の姿が、ひとつの脅威となってそこに映しだされていた。

 カチカチと音が聞こえる。なんの音だとザリは眉をしかめるが、気がつけば、自身の歯が小刻みに震えていた。

 すぐに身体が動かなかった。次第に麻痺していく右脚のせいだけではない。間合いを空けたままでいることが適切でないと理解しながらも、ザリは再び彼女へと飛びこんでいくことに躊躇した。

 そんな二人の間で膝をついていたディルが、シミターを地面に突き立て、それを支えにしながら、よろよろと立ち上がる。

 距離を空けて対峙する二人をよそに、ディルはボロボロの身体を引きずるようにしながら、再びヴェンツェルの前へと戻っていく。

 そして、力強く叫んだ。

「フィオッ、逃げろッ。逃げちまえば、おまえの勝ちだッ!」

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