6-8 圧倒的な存在
言われなくてもわかってんだよお……。
ザリは渡されたククリを手にしたまま、反対の左手でマントの留具を外す。そして、そのまま襟の部分を掴むと、手首を返しながら、ぐいと左腕を伸ばし、羽織っていたマントを一気に脱ぎ去った。
その動作を前にしても、やはり変わらぬフィオリトゥーラの様子を見て、ザリはその面長な顔の中に、不敵な笑みを浮かべる。
「いいのかあ? そのままでよお。詰むぜえ」
マント越しに想像された姿より、さらに細い体躯があらわになっていた。だが、決して華奢ではない。その腕や肩、脚など、随所に筋肉が作るはっきりとした起伏が見てとれた。
身体にぴたりと密着するような仕立てのチュニックは、薄汚れ黒ずんだ灰色で、袖はなく肩部分から布が千切られたようになっている。また、下に履いた同色のブレーも、同様に膝上で切られていた。
それらから出た長い腕と脚は、黒く染められた包帯のような布でぐるぐると巻かれ、表面全てが隙間なく覆われている。
中心に視点を置いたまま、視野全体に拡散させた意識で敵の姿を眺めるフィオリトゥーラは、ザリが新たに何かを始めようとしているのだと察するが、極限まで高められた集中力の中では、それはどこか遠い場所で起きたことのように傍観されていた。
関係ない。私は、ただ応じるだけだ。
フィオリトゥーラの剣は乱れなかった。これまで同様に、同じ速度、同じタイミングで、同じ軌道上をわずかな狂いもなく巡り続ける。
「ほうらよっと」
ザリが、右手に持っていたククリを唐突に放り投げた。
先ほどマントの男が投げた時同様に、ククリはくるくると回転しながら上昇し、やがて空中で、緩やかな放物線を描きだす。
落下を始めたククリのその到達点は、丁度フィオリトゥーラの頭頂部の辺りと見られた。
ククリが落ちていくその最中、ザリが地面を蹴った。
左手で掴んだままだったマントは、担ぐように肩の上で構えている。
その剣技はよくできてるけどよお……。
ククリが、その頭上からフィオリトゥーラへと到達しようかという瞬間、八の字の端を移動していた両手剣が、その円軌道を急激に大きなものへと変化させた。
加速した剣が、上方に鋭く弧を描く。
ギィン、と鈍く金属音が鳴り、ククリが弾き飛ばされた。
おまえは使いこなせてんのかあッ?
その時にはもうザリは、フィオリトゥーラが反応する範囲すれすれの場所で、その左手を振っていた。
バッと音を立てて広がったザリのマントが、フィオリトゥーラへと覆いかぶさる。
同時にザリは、左腰のククリの柄へと右手をかけた。
すると、フィオリトゥーラの姿を隠したマントを裂いた両手剣の剣先が、スッと覗き、そう思った瞬間にはもう、それが上から下へ音もなく斜めの線を描いていた。
ザリは、その線に右肩を当てにいくつもりで、そこに身体を密着させる。
浅く斬られる程度の覚悟で飛びこんだそのタイミングは、結果として絶妙だった。
振り下ろされた両手剣に触れるようにしながら、ザリの身体は斬り裂かれたマントの隙間に入っていた。
「……ッ!」
フィオリトゥーラがその目を大きく見開かせる。
唐突に遮られた視界。それを斬り裂いた瞬間、そこからザリの頭と肩が、間近に飛びこんできたのだ。
今斬り下げたばかりの剣は、自動的に次の侵入者への攻撃に移ろうとするが、それはもう間に合うものではなかった。
ザリの狙いは、彼女の剣の範囲の中にその身を入れること、ただその一点だけだった。
ザリはククリの柄に手をかけたまま右肩を突きだし、それを彼女の胸元に、軽く押し当てる。ここでククリを振る必要はない。この形さえ崩せれば、それで十分なのだから――。
「掴まえたぜえ……」
よろけながらも必死で体勢を保ち、間合いを外そうとするフィオリトゥーラの耳元に向けて、ザリがぼそりとささやいた。
ザリは右手でククリを鞘から引き抜きながら、ほくそ笑む。この女剣士は、やはりこの剣技を使いこなせていなかったのだと。
戦闘の中でこの技を用いることを理解している修得者ならば、落下してくるククリに対して剣は振らなかっただろう。足捌きだけで移動して回避し、そのまま迎撃態勢を維持すればいいだけの話だからだ。
ところが、彼女はそれをしなかった。
技と闘いを繋ぐ術まで考えが及んでいないか、あるいは、それだけの集中力をもってしなければ、この技を持続することができないのか。
どちらにしても、それは彼女の技がまだ実戦で通用するレベルではなかったということだ。
慌てて後退するフィオリトゥーラに対して、ザリはククリを振らずにさらに間合いを詰める。
「もうやらせねえよお」
ザリがすかさずククリを横に払った。曲げた肘を伸ばしきらぬ程度に、小さくコンパクトに、軽く、速く。
それは、フィオリトゥーラの黒い戦闘服の襟元を、わずかに裂いた。
斬撃は皮膚まで到達せず、傷を与えることはなかったが、彼女は下げたままの両手剣を持ち上げることができずにいた。
ザリは続いても、小さく速くククリを振った。致命傷を与えようと大きく振れば、躱された時に間合いを外される恐れがある。また、大袈裟なフェイントも今は適さない。それも、下手をすれば同様の好機を与えてしまうからだ。
ククリと空の左手を使って、絶え間なくザリが攻撃を繰りだす。
だが、この至近距離でもフィオリトゥーラは、ザリの予想を上回る反応と動きでそれらを凌いでいた。
そして彼女は、目まぐるしく動きながらも、その中で自身がザリから受けた様々なダメージの回復を感じとる。右脚の痺れも、いつの間にか違和感を残す程度になっていた。
剣を構える余裕すらないが、それでも相手の攻撃が見え、今はもう身体が自由に動く。
始まった攻防を目の当たりにして、ディルは息をのんだ。
ラモンの時とは明らかに違う。さらに緊迫感のあったクローディアとの戦闘の時ですら、ここまで危うくは感じなかった。
ほとんど身体が密着するような間合いの中で、下げられたままの両手剣は、相手の動きのいくらかは邪魔するものの、武器としては何も機能していない。
彼女は相変わらず器用に攻撃を避け続けるが、ザリがこの距離の利点を使わぬはずはないだろう。
小さく縦に振られたククリを、フィオリトゥーラが横にずれて躱した瞬間、しゅるりと黒く細長いものが、彼女の左腕へと巻きついてくる。ザリの腕だった。
剣を携える腕ごと彼女の華奢な身体を抱えこもうと、ザリは左手を彼女の背中へと回す。
来やがった!
ディルが想像したとおり、ザリはフィオリトゥーラの動きそのものを封じようと、彼女の身体の自由を奪いに来たのだ。
だが、フィオリトゥーラは慌てず、わずかに身を沈めながら、自身の右腕をひねって持ち上げる。その曲げた肘が、ザリの左腕を弾いていた。
「お……」
ザリは、逸らされた左腕を構わずさらに押しこもうとするが、彼女の右腕はそれだけで止まらなかった。左腕を綺麗にたたみながら、フィオリトゥーラは下げていた両手剣を、引き抜くようにして一気に持ち上げる。
慌てて身を引きながら、ザリはそれを妨げようと、そこにククリの刃を合わせた。
しかし、ギンッと短く金属音を鳴らしただけで、カルダ=エルギムの両手剣は構わず二人の間を抜けると、その剣先がふわりと天を指した。
フィオリトゥーラは一歩退がりながら、立てた剣を胸元へと引き寄せる。
間合いが空くことを嫌いザリもすかさず踏みこむが、先までと違い二人の間には両手剣が入っている。また、その間合いもわずかとはいえ広がっていた。
ディルはそんな彼女の一連の動きに目を見張った。
巧えな……。
彼女は戦術的な思考でこそ浅い部分も目立つが、敵の動きにその場で反応する能力に関しては、度々非凡なものを見せてくれる。
「さて……」
不意の呟きを耳にして、ディルは慌てて視線を移動させた。
見れば、マントの男がその背を壁から離していた。
再び始まる攻防。ザリとフィオリトゥーラが立てる息遣いや足音を耳にしながら、ディルは男へと向きなおす。
当たり前だが、自身の状態が好転しているはずはなかった。
呼吸はいくらか落ちつけたものの、左肩の痛みはむしろ増すばかりで、流れた血の分だけ力が失われているのならば、このわずかな時間の中で、自分が得たものと失った物のどちらが多いかは判然としない。
「いつまでも見ていても仕方あるまい。そろそろ、こちらも始めるとするか……」
マントの男はその場に立ち止まったまま、ゆっくりとその手をフードの縁にかける。
フードを脱ぎ、続いてマントにも手をかけると、男は緩やかな動作でそれを脱ぎ捨てた。
そして、あらわになったその姿――。
ディルは、何かに打たれたような衝撃を受けた。
その立ち姿は、この殺伐とした夜の闇の産業路にはひどく不釣りあいなものだった……。
白色のマントを脱いでなお、さらに一層輝いて見える純白のローブ。
詰襟の下のその胸元からは赤いラインが真っすぐ足元まで伸び、随所をきらびやかな金の刺繍が彩る。袖や裾を見れば、細やかな装飾が施された、これまた豪奢な金色の布がそこを縁取っていた。
聖剣教の色彩を贅沢に用いた、風格と威厳を兼ね備えた完璧なまでの装い。
そして、それに見劣りすることのない、男の悠然とした振舞い。
格の違いは明らかだった。本来、この聖地の下層である第三環状街などで見かけるべき姿ではない。
だが、何よりディルが目を奪われていたのは、男の顔の方だった。
皺は目立つものの肌艶は悪くなく、歳は四十頃だろうか。
黒混じりの茶に近い金髪は、全て後ろに綺麗に撫でつけられてある。
血色のよい肌。ほとんど直線だけで構成されたような彫りの深い整った顔立ちの中で、髪と同色の眉のすぐ下、垂れ気味の目から小さな青い瞳が覗いている。
低く厳格な声そのものの印象の男だった。
その顔には見覚えがあった。
半年ほど前、第二環状街の闘技場でAランクの試合を観戦した際、試合後に行われた祭典の中で登場した一人の剣闘士の姿――。
今とは違う服装だが、あの時もやはり上等な衣装に身を包んでいた。
それもそのはずだ。
剣律騎士団筆頭師範。Aランク三位という、当時でも十分過ぎる剣闘士としての肩書と並べてもみても、その言葉の響きは強く、重い。
騎士団員として現役を退いているとはいえ、世界中に駐屯する団員も含めれば二万を超える大騎士団の中で、数多くの師範や師範代たちを束ねるその頂点という立場……。
ディルの中で、こうも早くその記憶が蘇ったのは、数日前に一度その顔を回想していたからだろう。受け入れがたい現実だが、間違いなかった。
「なんで……」
ヴァルター・ヴェンツェル。
その名が浮かんだ瞬間、ディルは愕然とし、思わず声をもらしていた。
来月に剣位授与とガーデンでの初戦を控えるその男の名は、あまりに大きすぎた。
「流石にわかるか」
ディルの反応に気がつき、男が呟いた。
「なんで、剣位が……。こんなところに、いるんだよ……」
ディルは激しく動揺するさまを隠せずにいた。
拝黒の、幹部……?
拝黒の翼と聖剣教の繋がりを認識していたにもかかわらず、「拝黒の幹部」と「剣位」という二つが、どうしても頭の中で結びつかなかった。
いつものディルの思考回路であれば、前提から考えて「十分にありえること」とすぐに納得できるはずなのだが、この聖地で、「剣位」という存在はそれほどまでに重く、遠い。
誰もが知り、日常の中で口にしながらも、それでいて現実感がなく、遥か遠く離れた圧倒的に眩い存在……。
「ヴァルター・ヴェンツェルだ」
艶光りする白いブーツが踏みだされた。男は堂々と名乗り、颯爽と歩きだす。
ヴェンツェルは、左腰に下げられた自身のロングソードの柄に右手を添える。ベルトに繋がれた金具がカチャリと音を立て、黄金の装飾が施された深紅の鞘がわずかに揺れた。
まだ剣の間合いの外とはいえ、近づいてくるヴェンツェルの姿を目で追いながら、ディルはただ呆気にとられている。
身体が、まるで動こうとしなかった。
恐怖に震えることもない。そもそも思考が追いついていないのだ。
「構えろ。私の剣を受けられること、光栄に思え」
低くよく響く声。
ヴェンツェルが迷いなく剣を抜いた。剣身が鮮やかに煌めく。
それは典型的な長さのロングソードで、もうあと四歩ほどで踏みこみの間合いに入る。
ディルは大きく左右に首を振り、呪縛から逃れようと必死にもがいた。
このままでは、確実に自分は殺される。
あと二歩。
ヴェンツェルは手にした剣を右上段に構える。無造作な動きだが、綺麗な構えになっていた。
来るぞ……。
ようやく目の前の闘いへと意識が向かい始めると、今度は剣位という脅威を前に、自然と身がすくむ。
間合いをとらなければ――。
そう思って下げかけた右足を、ディルは必死で止めた。
違う――。ここで退がれば、俺はこいつに立ち向かえなくなる。
あと、一歩。
その瞬間、外部から何かが流れこむように、ディルの思考が急速に働き始めた。
以前にヴェンツェルについて聞いた噂話が、その時の誰かの声そのままにあちこちで反響するように脳内で再生される。
オーソドックス、豪胆、ワンハンド、先制、攻撃的、伸びる剣……。
伸びる剣――。そうだ。ヴェンツェルの剣では、それが有名な話だった。
剣が物理的に伸びるはずなどないのだから、つまりはそれを受けた相手がそう感じるということなのだろう。
ほとんど予備動作もなく軽々と、ヴェンツェルがロングソードを斜め上から振り下ろしてくる。
不思議と迫力は感じなかった。
するりと動きだした剣先は、滑らかに糸を引くような軌道を残してディルの左上方から降りてくる。
見切れる。ディルは瞬時にそう判断した。
身体を少し引きながら、剣の軌道の左側に入れば、それで躱せる。
そう思った瞬間だった。
ディルが予測した軌道に、剣が落ちてこなかった。
まさに剣が伸びたかのように、軌道が変化したのだ。いや、むしろ変化しなかったともいえる。
「くッ……」
ディルは当然、それを予期していたはずだった。どんな理屈であれ、剣が伸びるのならばその分も躱せばよいと、そんな意識を持ってヴェンツェルの剣に応じるつもりだった。
だが、ヴェンツェルの剣は、もうその剣先をディルのこめかみへと潜りこませようとしていた。
それは単に伸びるというより、躱そうとするディルに、ふわりとついてくるような不思議な剣だった。
身体を引きちぎれッ!
咄嗟に念じ、頭部が斬り裂かれるイメージの中から、回避に足りない分だけ、自身の身体を強引にそこから引き抜く。
ディルは大きくその身をよじった。左肩周辺に激痛が走り、転倒しそうになりながらも、辛くも地面を蹴る。
剣圧が肌を撫でるのを感じながら、躱すというより、ただ逃げるといった慌ただしく粗雑な動きで、ディルは大きく間合いを外した。
慌てて振り向けば、ヴェンツェルは軽く振ったロングソードの剣先を下に向けたまま、まだその場に留まっている。
体勢を整えて逆手のままシミターを構えると、もうどこから発せられているのかわからないほどの、無数の痛みの信号が左半身を這いまわった。
ハアッハアッハアッ……。
激しく乱れた呼吸。ディルは必死に堪える。
追撃があれば、すぐにでも終わっていただろう。だが、ヴェンツェルはそうはしなかった。
その表情が物語っていた。
闘いをしているつもりなどないのだ。抵抗できない獲物を狩る強者のそれでもない。その瞳を覗けば、見下すような冷徹さと厳格さの中に、なぜか相反するはずの奇妙な慈愛のようなものさえうかがえた。
今の一撃も、おそらく小手調べ程度に軽く剣を振っただけなのだろう。
ディルは歯噛みする。
それはまるで、指導者が拙い教え子に何か手ほどきでもするような……。
つい、と血が流れた。こめかみの上から一筋垂れたそれが、ディルの目の中にわずかに入りこむ。
くそッ……。
ディルはそれを拭うこともできず、瞬きを繰り返した。その顔が、次第に青褪めていく。
本来ならば湧きあがりそうな苛立ちや怒りより先立って、浮かびつつあるひとつの感情……。
それは決して考えてはいけないものだったが、いくら振り払おうとしても、少しずつ確実に滲みだしてきてしまう。
「逃げるだけか? それではどうにもならんぞ」
ヴェンツェルが、ディルへとゆっくりと向きなおす。




