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6-5 死守

 どうなってんだ……?

 混乱が止まらない。ぐわん、と揺らいだ景色に目を奪われながらも、ディルは必死で身体をこの危険地帯から逃そうと、我武者羅に地を蹴った。

「シャッ」

 鋭い呼気とともに、ディルを斬り裂いた剣が今度は上向きに、返しの一撃を放つ。

 跳ね上げられた剣に一瞬遅れて、その軌跡をなぞるように、ディルの右上腕から血飛沫が上がった。 

「くッ……おぉ……ッ!」

 ディルは思わず手放しそうになるシミターの柄を強く握りこみながら、とにかく必死に足を動かした。

 それをゲインは追わなかった。

 大きく後退したディルは、ゲインとの距離を五メートルほど空けたところで足を止める。

 ゲインは、ふうと息を吐きだすと、ゆったりとした動作で地面に落ちた剣を拾おうと手を伸ばした。

 はあ、はあ、はあ、はあ……。

 連なる呼吸の音が耳障りだった。

 どこから聞こえてくるのかと苛立ってみれば、それは当然のごとく、ディル自身が発しているものだった。

 おそるおそる身体の感覚に意識を向けてみれば、左の首筋と肩の間、それと左胸、その周辺全体が痺れたようにぼやけている。ただそれでいて、そう思える箇所の中心が何かに焼かれているかのように熱かった。

 その熱の中にあっても、そうとわかる温かい何かが身体の表面を伝って次々に流れ落ちていく……。

 右上腕がずきりと痛み、思わずシミターを掴む手の力が緩んだ。気がつけば、そうと意識しないまま、ディルは自身の曲刀を杖代わりのようにして、その切っ先を地面につけ身体を支えていた。

「ディルッ!」

 フィオリトゥーラの声が聞こえた。

 悲痛な声。炎夢に向かう途中、四番区の路地で聞いた彼女の声とぴたりと重なる。

 まずいな……。見られちまったか?

「問題ねえよッ! 自分の方に集中しろッ!」

 総崩れになることだけは避けなければと、ディルは咄嗟に声を返した。フィオリトゥーラの方を見る余裕はなかったが、彼女はまだザリと戦闘中のはずだ。

 大声を発したせいなのか、それをきっかけに頭の中でぐるぐると回っていたものが霧散し、次第に思考がクリアになっていく。

 再び両の手に双剣を携えたゲインが、こちらを見つめていた。

 ディルは、冷静になれと自分に言い聞かせながら、身体の状態を再び確認してみる。

 斬られたのは左肩? 少し内側の辺りか……。まだ動けるってことは、そこまで深くはない、か?

 ……つっても、この感じは骨までやられちまってるかもな。

 わずかに視線を落とせば、チュニックの左肩から首元までと、その周辺がびっしょりと濡れて変色していた。

 左腕を動かそうと軽く力を入れてみるが、感覚の曖昧さもあってまるで応答がないように感じる。少なくとも、自分の視界に入るまでに持ち上げることはできていなかった。

「うーん。間合い不十分ってか……。ま、初の実戦投入でこれならありだよね。どお?」

 ゲインが緊張感のない声で話しかけてくる。

 どうって言われてもな……。

 ディルは答えず、青褪めた顔でゲインを睨みつけた。

 完全に嵌められたってわけか……。

「そっちのやり方は正解だったけどね。俺、ちょっと握りが特殊だからさ、邪魔されっとすぐ落としちゃうんだよね」

 冷静に振り返ってみれば、単純なことだった。

 ゲインは自身の双剣が弾き落とされるのを前提として、トリックを準備していたのだ。

 おそらくは、右剣を弾かれると同時に、振り上げた左剣を背後に回し、そこから手を放す。そして空になった左手を振り下ろしながら、同時に剣を失った右手を振り上げ、まだ背後で宙に浮いたままの右剣を左手に持ち替える。

 ちょっとした曲芸だが、ゲインのレベルであれば、事前に練習してあればこのぐらいは一発で決めてくるだろう。

 思えば、一度剣を放って左右で持ち替えたのは、その感触を確かめるための最低限の予行演習だったのかもしれない。

「器用な野郎だな……」

「びっくりしちゃった? 俺もこんなとこで使うとは思ってなかったんだけどね」

 ゲインは、まだ戦闘態勢に入ろうとしない。

 助かるね……。

 ディルはゲインに悟られないよう、順に身体の各部を小さく動かしてみる。

 左腕は、まあ無理だよな……。

 上腕を浅く斬られた右腕の側も、動くには動くが、シミターを正確に操ることができるかどうかは怪しい。

 満足に動かせそうなのは両脚だけだった。もっとも、この怪我の具合では体力そのものが急速に消耗していき、やがては動けなくなってしまうだろう。

 ディルがそうして自らの身体に意識を向ける中、ゲインもまた彼を観察していた。

 仕掛けた罠が首尾よく成功し、圧倒的優勢を得たとはいえ、ここまでの闘いから考えれば油断ならない相手であることに変わりはない。

 シミターを杖のようにして右手をその柄に置いたディルは、激しく呼吸を乱し、顔をうつむかせている。

 左の首筋付近から肩、胸などその辺りは完全に血で染まり、そこから下にもまばらに血の染みが見られた。チュニックは鎖骨の辺りから縦に裂かれているはずだが、染まった血のせいで、どこからが服でどこが肌なのかよくわからない。

 出血の具合はそれなりだが、失血で即倒れてしまうということもなさそうに見えた。

 とはいえ、だらりと垂れ下がった左腕は、もはや機能するとは思えない。

 ゲインは右手に残る斬撃の手応えを思いだす。深くは入らなかったが、しっかりとした感触はあった。

 鎖骨ぐらいはイッちまってるだろ。

 ひととおり観察を終えた後、ゲインはあらためてディルの顔を見据えた。まだ上目でしっかりとこちらを睨みつけている。

 終わったと思って抜いちまったら、噛みつかれちまうかもね……。

 ゲインは下げていた双剣を一度持ち上げると、ぶんと振って左右に広げる。

「こいつは試合じゃねえし。悪いけど、続きをやるよ」

 再び構えたゲインを前に、ディルもまたシミターの柄を握る右手に力を込めた。

 ……どうする? 何ができる? 考えろッ。



 全身の皮膚からじわじわと何かが侵食し、身体が蝕まれていくような感覚。

 ザリから目を離さずにいても、その意識のほとんどが背後の空間へと向かってしまいそうになる。

 振り向いてはいけないと、自身の衝動を抑えながらザリの姿を見れば、敵の視線は再びフィオリトゥーラへと向けられていた。

 その時だった。

「問題ねえよッ! 自分の方に集中しろッ!」

 ディルの声が届いた。

 振り絞るような声。目にしなくとも、何かが起きたのだと理解できた。

「結構やられちまったみたいだなあ。いいぜえ、助けに行ってもよお」

 ザリは構える様子を見せず、わざとらしく視線を何度も行き来させては、フィオリトゥーラを煽る。

 この男は、こうして戦意が薄れたような素振りを見せていても、こちらに隙があれば即座に攻撃に転じてくるはずだ。

 フィオリトゥーラは考える。

 ディルの身を案じることで自分が倒れてしまえば、この場は終わる。

 もし深手を負っているのならば、ディルとてこの三人を相手に逃げきることなどできないだろう。

 覚悟を決めて、視線をザリに据えた。

 ディルを信じるのだ。そしてイメージする。彼はきっとあの暗闇を振り払う。彼にはその力がある。

 そんなディルのために、今私にできることは……。

 フィオリトゥーラはさらに考えた。ザリを前にして果てしなく無力なこの自分に何ができるのかと。

 安易な勝利など望めるべくもない。ならば、私は……。

 この場を持ちこたえること――。それが今の自分に課すべき最低限の役割だ。

 呼吸が落ちついていく。

 痺れた右脚は頼りないままだが、腹部や頬の痛みが、その感覚を残したまま少し離れた場所に置かれた。

 剣を胸元に引き寄せる。

「無用です。私は、貴方を倒します」

 フィオリトゥーラは前に出していた左足をすっと下げて、左右の足を並べた。

 そして両足を軽く開いた状態のまま、両手剣を前に倒すと、深く息を吸いこむ。

「おおッ? やる気だねえ。怖えなあ」

 ザリの声が随分と遠くに聞こえた。

 あれほど気になっていたザリの一挙一動が、夜の風景にただ溶けこんでいく。

 兄が語ってくれた、あの教えが脳裏に浮かんだ。

 ――敵が何であるかではなく、我が全力をもってそれと相対する術と心を常に準備し、そして発揮すること。

 一度瞬きをした後、フィオリトゥーラは前に出したカルダ=エルギムの両手剣を、ゆっくりと動かし始めた。

 ただ、あるべきものに応じて動く。

 そう――。それを体現する剣技があった。

 記憶の中にある剣士の像が、自らに降りて宿るようにと念じる。

 その剣先をザリに向けたまま、両手剣はゆっくりと横向きに八の字の軌跡を描いていく。その中でフィオリトゥーラの視線は、その軌道が交差する中心を射抜いていた。

 そんな彼女の様子に、ザリは首をかしげてみせる。

 両手剣を動かせど前進してくるわけでもない。

 ザリは再び上体を傾けると、右手のククリをあからさまに持ち上げ、すぐにまた下ろしてみせた。

 だが、フィオリトゥーラはそれに応じない。彼女が操る両手剣も、乱れず常に一定の速度のまま、ゆるゆるとザリに向けて八の字を描き続けていた。

「なんだよ、そりゃあ」

 ザリが無造作に歩きだす。

 左手もククリを持つ右手も、その両方をだらりと垂らしたまま躊躇せず前進していくと、そのまま顔を突きだすようにしてフィオリトーラの剣に向かって近づいていく。

 それでも、フィオリトゥーラに一切の変化はなかった。まるでザリなどいないかのように、彼女はただ剣を動かし続ける。

 その顔が刃に触れそうなほど近くまで接近した時、ザリは突然身をかがめた。

 剣が斜め上に移動した瞬間を狙って、右下からククリを彼女の腕に叩きこもうとすくい上げる。

 瞬間、両手剣の剣先がザリの視界からフッと消えた。

「――うおッ!」

 眼前で何かが煌めき、ザリは訳もわからずに身をよじった。それで、ククリもフィオリトゥーラの腕に到達する前に動きを止めていた。

 顔を上げれば、再び剣身が煌めく。

 ククリを持つ右腕が、ぞわりと震えた。引き抜くように慌てて手を戻す。

 今度は、右手があった空間を細い線が走り抜けた。

 ザリはかがんだ姿勢のまま、地面を滑るようにして大きく後退した。

 一気に間合いを元に戻しフィオリトゥーラを見てみれば、彼女は変わらぬ体勢でゆっくりと、再び両手剣を八の字に動かしている。

 何事もなかったかのようなその様子はどこか異様で、また、そんな彼女の視線にも、ザリは強い違和感を覚えた。

 今、ザリは片膝をついた低い姿勢でいるというのに、彼女の眼は真っすぐに前を見たままで、その姿を捉えていないのだ。その視線はただ空を、自身が動かす剣の軌道の中心をぼんやりと眺めているだけだった。

「ああん?」

 鼻筋を伝う感触に気づき、ザリは左手で額を触る。

 指先が赤く染まっていた。最初の一撃がわずかに額を斬り裂いたようだった。

「面白え……」

 べろりと長い舌で唇を舐めると、ザリは立ち上がる。それから左手でマントを引くと、右手のククリを左腰の鞘に戻した。

 再び顔を突きだしての前傾姿勢をとると、ザリは両腕を上げ、軽く開いた空の両手を前に出した。

 そして、再びフィオリトゥーラへ、するすると接近していく。

 先ほど斬られたのと同じ間合いの中に、まずは右腕から入れる。

 ザリは、先と同じく剣がゆっくりと通りすぎた時を狙い、フィオリトゥーラの細い腕を掴もうと手を伸ばした。

 その瞬間、ふわりと上昇して曲線を描こうとしていた両手剣が、突如その円軌道を小さくして鋭く反転した。

 剣身が、ザリの右手首目がけて一気に振り落とされる。

 その一撃は速く鋭いが、予見していたザリはすかさず手を引いて、それを躱した。

 本命は次だった。右手を引くと同時に今度は左手を伸ばす。丁度、剣が勢いよく通りすぎた瞬間を狙い、肩ごと入れて、ザリは本気で相手の腕を掴みにいった。

 だが、先の時に右腕が感じた冷たい感触と同じものが、すぐに左腕を撫でた。

 ひゅん、と鳴る初撃の風切り音がまだ残る中、もう剣が下から戻ってくる。

 フィオリトゥーラは器用に腕をたたみ、両手剣を操っていた。振り下ろされている剣を途中で引き寄せ、その勢いを利用して剣の軌道を上昇に転じさせたのだ。

それは、精微で無駄のない動きだった。

「くぉッ」

 ザリは伸ばした左腕の肘を咄嗟に曲げ、身体ごと引き戻す。

 肘の先、ほとんど触れるような距離で剣先が跳ね上がり、翻ったマントの一部が同時に切り裂かれていた。

 地面を蹴って、再びザリが後退する。

 今度はあえて距離を空けすぎないようにし、本来の両手剣の間合い程度の位置で足を止めてみるが、やはり彼女は追撃を入れてこようとしない。

 なんだ……、この女。

 今の一連の動きの中で、ザリはしっかりとそれを見ていた。

 ザリが腕を伸ばした時も、それに向けて剣を振るった瞬間も、フィオリトゥーラはまるで視線を動かしていなかったのだ。

 彼女が動かすのは主に肩と腕だけで、揃えて軽く開いたままの足も、ぴんと伸びた背筋も同様にほとんど動いていない。

 これまでとは別人のようだった。

 恐怖心がまるで見られず、それどころか闘争心すらも感じられない。どこか無機質でさえあった。

 どうなってんだあ、こいつは。

 ザリは、次の一歩を踏みだせずにいた。

 唐突に得体の知れない存在へと変貌した眼前の剣士に対し、幾多の闘いで培われてきたザリの本能にも似た感覚が警鐘を鳴らしていた。


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