5-6 炎夢
ガルディアと分かれた後、二人は来た道をそのまま引き返してベッカーの倉庫まで戻ると、今度は再び産業路を上っていく。
途中、往来の激しい環状路との交差点も越え、さらに先へと進んだ。
四番区内に入ると、産業路沿いとはいえ、次第に人の数や店なども増えてくる。
二人は道の左端を歩いていた。フィオリトゥーラの前を行くディルのペースは、これまでと比べるとなかなかに速い。普段どおりの服装に戻った彼は、心なしか何気ない動きのひとつひとつが軽快になったように思えた。
そんなディルは、倉庫まで戻った時点で「ある程度上流まで産業路を見ておく」と告げたきり、以降一言も声を発していない。
フードとマントでその姿を隠したままのフィオリトゥーラは、そんな彼の背後をぴたりと影のようについて歩いた。
「よし、十分だ」
産業路の途中で足を止めると、久しぶりに口を開いたディルが、一人納得して呟いた。
それから彼は、馬車が通りすぎるのを見計らって素早く道路を横断すると、産業路から右に曲がる形で、一本の細い路地へと入っていく。
フィオリトゥーラも慌ててそこに続いた。
迷うことなく道を選ぶあたり、ディルはこの辺りの地理も把握しているのだろう。
路地に入りしばらく進んでいくと、産業路と違い二人が並んで歩ける程度の幅しかない狭さだというのに、密集した住宅に混じって、何かの店と思われるような構えの建物をちらほらと見かけるようになっていた。
それにともなって、通行人の数も増していく。
必死にディルの背中を追っていたフィオリトゥーラは、フードの縁を掴んでそれを深く被りなおすと、歩く速度を一段上げて、ディルの隣に並んだ。
「このような場所にも、店があるものなのですね」
「ん? ああ。まだ商業区まではだいぶ離れてるが、この辺は昔からの店なんかが結構あるからな」
答えながらディルは、通りすぎる左右の店の様子に目をやる。何かを探しているようだった。
「ちょっと待ってろ」
唐突に足を止めると、フィオリトゥーラをその場に残し、ディルは見つけた店の中へと姿を消す。
路地から覗く店内には、商品と思われる大量の袋やロープなどが棚にぎっしりと詰まっているのが見えた。
大して時間もかからずに、ディルが路地へと戻ってくる。
出てきた彼は、何重もの輪になったロープを腕に通して右肩にかけていた。もっとも、ロープといってもそれは大した太さではなく、人の指程度の太さの綿製の物だった。かなり巻いてあるので、長さはそれなりにありそうだ。
予想外の買い物に、フィオリトゥーラはわずかに首をかしげる。
倉庫には階段があるのにロープ? いや、そもそも人の体重を支えられるような強度の物とも思えない。何かを縛るために使うのだろうか?
「行くぞ」
質問する間もなく、ディルが再び歩きだす。
やはりそのペースは速い。次第に通行人の量が増えていく狭い路地を、ディルは華麗に泳ぐ魚のように、一定の軽快なリズムですいすいと先へ進んでいく。
彼の描いた軌跡をなぞって、フィオリトゥーラはあとを追うが、途中ですれ違う通行人の肩と自身の肩が軽くぶつかってしまう。
「失礼いたします――」
声をかけながらも歩みを止めず、その視線もディルの背中から外さない。少しでも目を離せば、あっという間に置いていかれそうな気がした。
追いつこうと地面を蹴る足に力を入れる。だが、それと同時に、なぜか足がもつれてしまいそうな感覚と不安に襲われた。
それをきっかけに、身体が思うように動かなくなり、次第にディルとの距離が少しずつ離れていく。
正午過ぎの太陽が真上に近い角度から、この狭い路地にもその強い陽光を浴びせているというのに、どうしてか路地の向こう、フィオリトゥーラの目に映るその視界の先が薄暗く見えてきた。
離れていく銀髪とブラウンのチュニックの背中……。
不意に、彼が向かう路地の先一帯で黒いものがじわりと広がり、それが周囲の通行人をも覆っていくと、唐突にそこが暗闇へと変じた――。
その闇は何もかも、周囲の音さえも全て吸いこんでいく。
このまま進めば、ディルは自らその闇の中へと飛びこんでしまうだろうが、彼はそれに気づいた様子もない。
――いけないッ!
フィオリトゥーラは、上手く進まない自身の身体をひどくもどかしく感じながら、必死にディルへ向かって、その手を伸ばした。
だが、届くはずもない。絶望に彼女の足が止まる。
「ディルッ!」
気がつけば叫んでいた。
先を行くディルが足を止め、背後へと振り向く。
付近の通行人も、何人かがその顔や視線をフィオリトゥーラへと向けた。その中には足を止め振り向く者もいた。
先までの街の風景へと戻っていた。
暗闇など、そこにはなかった。
呼吸が乱れている。力の入らない身体を支えようと、ゆらりと付近の建物の壁に身を預ける。
慌てて戻ってくるディルの姿が、フード越しの視界に映った。
「フィオ、大丈夫か?」
声をかけながら、ディルはフィオリトゥーラの顔を覗きこむ。
その白い端正な顔が、血色を失ってひどく青褪めていた。フィオリトゥーラの剣が盗まれた日、その事を聞かされた時の彼女の様子が思いだされた。
「大丈夫、です……」
ディルの顔を間近で見た途端、フィオリトゥーラは急速に自身の全てが正常に戻っていくのを感じた。乱れた呼吸も落ちつき、身体に力が戻ってくる。
ディルから見ても、そこに血の気が宿り、彼女が回復していく様子がわかった。
「悪かったな。時間はあるってのに、つい急いじまった」
ディルはそう言いながらも、フィオリトゥーラに起きた異変について思考を巡らせる。
今口にしたとおり、急ぎ気味に移動していたのは確かだったが、それでも先日彼女と商業区を歩いた時や旧街区に向かった時の経験から、この程度であれば問題なくついてくるとも思っていたのだ。
フィオリトゥーラが追いつけずディルの名を呼んだのは、明らかに彼女が自身に変調をきたしたためだろう。
「いえ、お気になさらずに。私こそ、失礼いたしました」
彼女は答えながら、背負った両手剣をぐいと引き寄せると姿勢を正す。
「参りましょう」
そこから先では、ディルは意識してペースを緩め、前を行きながらも、常に一定の間隔でフィオリトゥーラの姿を視界の隅に入れながら進んだ。
四番区の街中を通り抜けながら、その途中で、どこからともなく鳴り響いた四の刻の鐘の音を耳にした。
やがて再び環状路に出ると、二人はそこからさらに、中央通りのある北の方面へと向かう。目指す酒場「炎夢」は、四番区の環状路に面した場所にある。
「お、あれだ」
環状路の先、左手に二階建てのその店の姿が確認できた。
スラクストンの屋敷に少し似た様式のその建物は、鮮やかな赤一色の壁で屋根は黒く、窓枠などの限られた場所だけがアクセント的に白で塗られている。周辺の建物と比較すれば、なかなかに派手で洒落た外観をしていた。
目の前まで来るとわかるが、その大きさは「千の剣」ほどではないものの、付近の店の敷地を二つ分跨ぐ程度には大きい。また、すぐ隣には同様に赤く塗られた石壁の簡素な四角い建物が寄り添うように並んでいる。造りこそ異なるが、その色から二つの建物が同じ所有者の物なのだろうことが容易に想像できた。
ディルが扉を開けると、備えつけられてある来客を報せる鐘が、カランと音を鳴らした。
揺らめく炎をイメージした背景に「炎夢」と文字が描かれた吊り看板を見上げながら、フィオリトゥーラも遅れて店内に続く。
外観からして全てが赤で統一されているのかと思いきや、白壁に囲まれた一階のホールは落ちついた印象で、小奇麗な木のテーブルや椅子が並び、比較的ありふれた酒場の様相を見せていた。
だが、それらは雑然としておらず清潔な印象で、それでいて、「憂鬱な待ち人」のような閉鎖的な雰囲気もない。
広々とした店内にあるテーブルのほとんどを埋めている客たちの姿は、その恰好にいくらかの上品さが見られるものの、やはり皆、武器の類を携帯しており、喧騒や空気は少し柔らかいものの、この空間にも「千の剣」で感じた熱気に似たものが漂っていた。
「いらっしゃいませー」
十代と思われる若い女性店員が、二人に気がつくと、そのスカートの裾を揺らしながら足早に寄ってくる。
彼女が着ている足元まである裾の長い白いブリオーは、スカート部分から生地が切り替わり黒となっていて、そのスカートの三分の二ほどを覆うように赤い布が腰から巻かれていた。
ディルが店員に何事か話しかけると、二人は早速店の奥へと案内される。
黒こそ使われているものの、赤白の配色の店員の服は、聖剣教の神官を少し思い起こさせた。すれ違う他の店員も、男女ともに似たような配色の服装を身にまとっており、この店で働く者の服装はそのように定められているのだろう。
階段を上り二階の一室の前まで辿り着くと、女性店員は、扉を開けそこで小さく会釈をすると、早々に一階へと戻っていった。
開いた扉の中を覗いてみれば、そこはともすれば何かの倉庫かとも思えてしまうような手狭な部屋だった。だが、その大きさに似合わず、内装は豪華に仕上げられている。
壁にかけられた厚手のカーテンやテーブルクロスは店の外壁と同じ赤で統一され、床は黒地に鋭角的な紋様が入った絨毯で覆われている。
凝った装飾が施されている木製の椅子は、四脚用意されてあった。ただ、そこに全員が座れば、それでこの小さな部屋は完全に埋まってしまうだろう。
「また派手な部屋だな」
ディルは苦笑しながらも、手近な椅子を選んで座った。
フィオリトゥーラはおそるおそる中に入ると、ゆっくりと扉を閉めた。これもまた、部屋のサイズに似つかわしくない重厚で格調高い扉だった。
彼女はひとつ奥の椅子、ディルの斜め向かいへと同様に座る。
「ライマーのところとはだいぶ雰囲気が違うだろ?」
「そう、ですね」
フィオリトゥーラは答えながら、この小さな部屋の中を見渡した。
「〝憂鬱〟なんかは完全に別格だから比較にならねえが、ここもそれなりに高級志向の店だからな。普通に使っても〝千の剣〟で飲み食いする時の倍以上は軽くかかっちまう。下にいる連中なんかでも〝B〟を見かけるのは当たり前だし、たまにAランクの顔なんかも見れるぜ」
「酒場といっても様々あるものなのですね」
フードを脱がず、姿勢を正したままのフィオリトゥーラが感心したように言った。
すると、そこに続いて、ドアをノックする音が聞こえた。
少しの間を置いてから扉がゆっくりと開き、一人の店員が姿を現す。
肩口から袖のない白黒ツートンのチュニックを着た細身の若い男だった。やはり腰には赤い大きな布を巻いている。褐色の腕をあらわにしているものの、その装いは整然としていて清潔感が漂っていた。
「いらっしゃいませ。こちらのメニューをどうぞ」
手にしていた二枚の木製のボードをテーブルに並べると、男は一歩退いて扉の前で待機する。
薄めの褐色の肌に短い黒髪。まだあどけなさの残る彫りの深い顔立ちは、なかなかに整っている。口元と顎をうっすらと覆う髭もあいまって、どこかの砂漠の国の王子でも思わせるような雰囲気があった。
「最初に全部頼んじまうから、ちょっと待っててくれ」
ディルは店員に告げると、メニューが書かれた二枚の木製のボードに少し顔を近づけてそれを眺めた。
「ビールでももらうか。あと、このパンとこいつと、こいつで……」
メニューの中のそれぞれを指差し自身の注文を終えると、ディルは、ボードを向かいのフィオリトゥーラへと手渡す。
その時、ディルの注文を確認するため近くに寄っていた店員が口を開いた。
「あの、ディルエンドさんっすよね?」
「ああ?」
唐突に名を呼ばれたディルは、少し睨むようにして男を見上げる。
「俺、カミロっていいます。〝C〟でやってます」
「俺のこと知ってんの?」
「はい。俺も一応〝曲刀使い〟なんで、結構前から注目してました。先月のデニス・ケラー戦も観てます。ケラーって、珍しいバルディッシュ(三日月斧)なんか使って、九連勝中のわりと有名な奴だったのに、横に弾いて簡単に懐入って一撃って、やばかったです」
ディルがケラーと闘ったのは前回の試合だった。
対戦相手のデニス・ケラーは、長い柄に三日月型の大きな刃を持つバルディッシュという戦斧を使う剣闘士で、歳は三十半ば、小柄で穏やかな顔立ちをした男で、冷静で理詰めな闘い方を好む元帝国軍人の戦士だった。
結果としては、無傷かつたった一撃での勝利となったが、決して楽な相手ではなかった。
「あれも、間合い作るのには苦労したんだけどな」
笑顔のカミロに対してディルは素っ気なく返すが、別に不機嫌というわけでもないようだった。
「次の相手、フォルトンって奴ですよね? 会場決まりました?」
「三番区だ。第八教会のとこな」
「〝単独〟のとこなんて流石っすね。また観に行きます!」
三番区には闘技場が二つあるが、第八教会近くにある第一闘技場は、俗に「単独」と呼ばれる試合場をひとつしか持たない闘技場で、小規模だがスタンド席も設けられており、Bランク以下用とはいえ、それなりに注目度が高い試合にのみ使用される。
「はは。それにしても、おまえ、ここで働いてるのに〝曲刀〟なんかで大丈夫なのかよ?」
カミロはそれを聞くと白い歯を見せて笑う。屈託のない気持ちのよい笑顔だった。
「フェリクスさんはそういうの気にしないんで大丈夫っす」
二人の会話を耳にしながら、フィオリトゥーラも注文を決めた。
フードを被ったままの彼女が、わずかに顔を上げると、カミロはそれにすぐ気がついた。
「お連れさんは何にしますか?」
「私は、このシードルのスイートと、料理はディルと同じ物でお願いします」
フィオリトゥーラの声を聞くと、カミロはその眉をわずかに動かすが、その後は特に反応は見せず、早口で二人の注文を復唱すると軽く会釈をして下がっていく。
重厚な木製の扉がゆっくりと閉まった。
「言い忘れてたけど、ここでは顔を出しても構わないぜ」
ディルの言葉を受け、フィオリトゥーラはフードを脱ぐと、ふうと小さく息を吐いた。
「そういうのも〝千の剣〟とは違うからな。無闇に客の情報を外に流したりはしないし、特にこの個室を使う奴の扱いなんかはかなり慎重だって聞いてる。まあ、それだけに値も張るけどな。勝手に決めて悪いが、ここの使用料はおまえに持ってもらうぜ」
「それは当然のことです。お気になさらずに」
フィオリトゥーラは、わずかに髪を整えた後、閉まっている扉の向こう側へと視線を向ける。
「先ほどの方、ディルをご存じでしたね」
「ああ。〝C〟って言ってたが、わりと雰囲気あったな。試合の合間にこんなところで働く余裕があるような奴だし、それなりかもな。今度観てみるか」
フィオリトゥーラは、先ほどまで目の前に立っていたカミロの姿を思いだす。彼のむき出しの両腕は、太くはないが見事に引き締まっていた。背丈も近く、体格だけでいえばディルとよく似ているようにも思えた。
「そういえば、なぜ〝曲刀〟は好ましくないのでしょう?」
先の会話を思いだして、フィオリトゥーラが訊ねる。
「ああ、それか。ここの店主がな、現役時代にツーハンドを使ってたんだ。で、ここの隣に同じ色した建物があったろ? あそこは道場になってて、そこで酒場の経営とは別に、店主のレイス・フェリクスが剣術を教えてる。当然、ツーハンドのな。確か、門下生は五十人近くいるんじゃねえかな。ま、曲刀ってことは、あいつはそこには属してないんだろうが」
「なるほど。そういうことでしたか」
ディルは、答えるフィオリトゥーラの顔を眺めた。
四番区の路地で見た不調な様子はすでになく、今の彼女は平然としていて、むしろどこか楽しそうな、嬉しそうな感じすら受ける。
あれは、やはり今晩のことを前にしての不安からだったのだろうか……。
昨晩彼女と話したガルディアと違い、フィオリトゥーラが抱える漠然とした不安を知らないディルは、そんなことを考えながら、ガルディアが来るまでの間は今晩のことを話題にせずにおくべきか、などとも考えた。
やがて、注文した飲み物と料理が順に届いた。
それらを運ぶのはカミロではなく、また別の女性店員だった。ノックした後に少しの間を空けてから扉を開けるのはカミロの時同様で、それがこの個室への配慮なのだろう。
「そのうち、機会があったらここの〝剣〟を使う奴の試合を観てみるのもいいかもな。店主の現役時代の最高位は〝A〟の二十三位だって話だし、ツーハンドのおまえなら何かしら参考になるんじゃねえか」
大きなビールのジョッキを片手に、料理をつまみながらディルが言う。
「はい」
フィオリトゥーラも、自身が注文したリンゴの醸造酒であるシードルを口にした後、小さくうなずいた。
「まあ、ここで剣闘士をやってれば、今後ツーハンドの相手なんて腐るほど見ることになるだろうけどよ」
話を続けるディルの声を耳にしながら、フィオリトゥーラはふと、昨晩のガルディアの言葉を脳裏に蘇らせる。
想像する未来の自分などは、ただの儚い夢に過ぎない……。
まだ兄の剣を取り戻しておらず、その後にはザリ戦も控えている自分に向けて、当たり前のように「未来」の話をしてくるディルが、好ましく感じられた。
「ツーハンドっていや訊きたかったんだが、フィオ。おまえ、なんで闘いの時にわざわざ相手の間合いに入るんだ? ラモンの時も、結果相手から来たけど、あれも意図的だよな?」
ディルは、彼の愛好の対象である剣の話をする時のような表情を見せてくる。その鋭い顔立ちが全体的に柔らかみを帯び、そこには少年のような純真さも垣間見えた。
「やはり、変でしょうか?」
自身の剣術に自信など持っていないフィオリトゥーラは、思わずそんな風に訊き返してしまう。
「まあ変っちゃ変だけどな。ただ、結果はついてきてる」
ディルは楽しそうに小さく笑い、口につけたジョッキを傾けた。
「闘いが始まった時、相手の方の武器の長さや形状から様々なことを考えるのですが、それでも足りなくて不安に感じてしまうのです。そこで、その武器の間合いと思われるところに私が入れば、相手の方がその使い方を教えてくれるのではと、そう考えまして……」
フィオリトゥーラはうつむき加減のまま、反応をうかがうように上目でディルを覗く。
予想以上にシンプルかつ大胆な彼女の回答を耳にして、ディルは目を見張った。
先手必勝という言葉があるように、先の見えない闘いならばこそ、誰もが先に攻撃を当てて勝機を掴みたいと思うのが当たり前で、実際、多少の実力差など、偶然でもなんでも最初の一撃が入ってしまえば簡単に覆されてしまうことは少なくない。
それだけに、熟練の剣闘士はそんな不確定要素を減らすために技術や戦術を練ってそれを試合や闘いに用いる。例えば、牽制して相手に攻撃を出させない、あるいはわざと攻撃を出させてそこに隙を作らせるなど、確実な勝利を求めるならば、そこにはその闘いをコントロールする術が必要なのだ。
だが、フィオリトゥーラの思考はそれらとは違う。戦術とは到底言いがたい。
実戦の中、相手の武器の使い方を知るためにリスクを負うという選択肢は、程度によってこそありえるが、彼女のように、戦術的な流れもなくただ先手の利を捨てて自身の身を投げだすような真似は、無謀以外の何物でもない。仮にそれができる理由を無理矢理想像してみるならば、自身の回避や防御技術に絶対的な自信がある、あるいは相手の攻撃能力を完全に下に見て余裕がある、などが考えられるが、彼女の場合そのどちらでもないだろう。
闘いを知らぬゆえの大胆さかと、ディルは推測してみる。
「はは、凄えな……」
思わず呟いていた。その大胆さと無謀さのまま、勝利を掴む彼女の力にあらためて驚嘆してしまう。だが同時に、それを脆く危ういとも感じた。
「もしや、呆れていますか?」
不安そうに訊ねるフィオリトゥーラを見つめたまま、ディルはなんと言葉を返すべきか悩む。
この特異な新米剣闘士が、今絶妙なバランスの上で何かを成立させているとすれば、自分が発するわずかな言葉ですら、それを崩してしまうかもしれない。
「いや。俺には真似できないことだが、悪くはねえよ」
ディルはかすかに微笑み、その目を一度閉じた。
いずれ、それを崩す必要があるとしても、今はその時ではないだろう。
その後、食事を続ける中で、時折何かを言いかけようとするフィオリゥーラの様子が気になった。
今晩のことについて、何か質問をしようとしているのかもしれない。
ラモン戦の時から疑問に思っていたことだけについ訊ねてしまったが、剣の話を振ったのは少し失敗だったかとも思う。
「おまえがここに来てから今日で五日目か……」
呟くようなディルの言葉に、フィオリトゥーラが顔を上げた。
「聖地に来て、何か気になることとかないのかよ? 俺なんか、初めてここに来た時は田舎者丸だしで周りに質問してばっかだったけどな」
我ながら唐突かとディルは内心苦笑するが、そんな彼を不審に思うことなく、フィオリトゥーラは小さく笑みを返した。
「そうですね。本当に、驚くこと、不思議なことばかりです。兄の影響もあって、このアルスタルトがどのようなところかと思い描く機会は幾度もありましたが、こうして実際に足を踏み入れてみれば、私の想像など到底及ばぬものでした。都市の巨大さ、人の多さ、文化の多様さはもちろんのこと、ここには何もかもがあり、そして、まだ見ぬ他の地にはない様々なものも、それこそ無数に存在しているのでしょうね」
そう言った彼女は、自身が口にした「まだ見ぬもの」にでも思いを馳せているのか、感慨深げな表情のまま、その視線を宙にさまよわせていた。
「まあ、三年目になる俺だって、いまだに初めてのことも多いからな」
口に放ったパンの欠片を咀嚼しながら、ディルはなんとなしに言う。だが、そこにフィオリトゥーラがすかさず反応した。
「例えば、プレシャスさんのような方にお会いすること、ですか?」
ディルはごくりと、慌てて口の中の物を飲みこむ。
目の前で微笑むその顔は、彼女にしては珍しくどことなく悪戯っぽく見えた。
「あんなのは例外だろ」
ディルは自然と自身の髪に手をやるが、いつもと違う感触に手を止め、それをぐしゃりとするのをやめた。
「この聖地においても、やはりあのような方は特別なのですね」
「まあな。おまえだって、あれを普通だとは思っちゃいないだろ?」
「ええ。とても不思議で、そして、少し怖い方でしたね」
フィオリトゥーラはそう言いながらも、そこに親しみを覚えているといった風な笑みを見せる。
そんな彼女の表情をどこかで見たなとディルは思うが、すぐにプレシャスの部屋でのことだと思いだす。彼女が迷わず「信頼いたします」と言いきったあの時だ。
フィオリトゥーラが口にしたのと同様に、ディルもあの少女のような外見の賢者を、どこか「怖い」と感じていた。
だが、フィオリトゥーラはそんな会ったばかりで得体の知れないプレシャスに対して、まるで信頼できる身内にでもするかのような顔を見せる。
あの時に二人は自分が理解できない異国の言葉で会話を交わしたが、それは確かその後のことだったから、それに起因しているのでもないのだろう。
訊いてみたいと思った。彼女がプレシャスという人物をどのように捉えているのか。
だが、そんなディルより早く、フィオリトゥーラが先に口を開いていた。
「あの青く光る石……。ディルはあれについてどう思われますか?」
気勢をそがれ一瞬なんのことかと考えてしまうが、それがすぐにクローディアが持っていたあの扉を開けた石のことだと思いだす。
プレシャス絡みの話といえばそうだが、随分飛んだなとディルは内心で呆れた。
「俺はクローディアと変わんねえよ。ああいうのは別に、正直どうでもいい」
フィオリトゥーラは、そんな彼の回答に少し驚いているようだった。
「あんなのは、単に俺やおまえが知らない知識や技術の代物ってだけかもしれないし、あるいは、そもそも知らない方がいいものかもしれないしな……。俺なんかでも知ってるんだ。剣教の〝禁忌〟ぐらいわかるだろ?」
「聖剣教において禁忌とされている〝魔導〟の類、ということですか?」
「さあな。ただ、もしアレがそうなんだとしたら、関わらねえ方がいいだろう。聖地にいる以上、無駄に剣教に喧嘩を売る意味なんてないからな」
そう口にしながらディルの頭の中では、これから聖剣教公式の荷物を奪おうとしてる者が言う台詞ではないな、とそんな皮肉も浮かんだ。
その時、扉をノックする音が室内に響く。ゆっくりだが叩き方が強いのか、これまでの店員の時より一際大きな音がした。
「ほらな。こんな話をすれば、丁度人が来る。アレは、放っておこうぜ」
フィオリトゥーラは無言でこくりとうなずいた。少しの間を置いた後、ドアがゆっくりと開かれる。
視界に鮮やかな赤が揺れた。
「よお、来てたんだな。カミロが興奮してたぜ。〝曲刀使い〟のディルエンドが来てるって。〝B〟のくせにちょっとした有名人気取りかあ?」
現れた男は、その眠たそうにも見える半開きの目を細くしてにこやかに笑う。落ちついているが、どこか華やかな雰囲気を漂わせる男だった。
身にまとったそのローブは、やはり赤白黒の配色だが、明らかに赤が占める割合が多く、またこれまでの店員の物と比較すると、その生地や仕立てにあからさまな高級感が見てとれた。
「レイス」
男の姿を見て、ディルが笑顔を見せる。
「相変わらず俺のことも呼び捨てかよ。まあいいけどよ」
姿を現したのは、この「炎夢」の店主であるレイス・フェリクスだった。
「ウチの〝個室〟を使うなんて随分羽振りがいいんだな」
レイスは扉を閉めると、二人の間に立つ。
「今日はちょっと訳ありでね」
二人の会話を耳にしながら、フィオリトゥーラはレイスの姿を控えめに眺めた。
歳は三十代前半といったところだろうか。店主と聞いて想像していた姿よりだいぶ若い。
ディルより少し背の低い中肉中背で、明るい栗色の長髪が背後でひとつに束ねてある。眠たそうな目に細い眉。その顔立ちは全体的にあっさりとしていて穏やかだが、表情次第では一変して見えるかもしれない。
動きやすさが重視されていない裾の長いゆったりとしたローブを着ていることもあり、その佇まいからは元剣闘士というより商売人のような印象を受けた。
不意に、その視線がフィオリトゥーラへと向いた。
フィオリトゥーラの顔を見たレイスは、その目を軽く見開かせ、ひゅうと口笛を吹く。
「噂の〝ランズベルト嬢〟だな。初めまして、お嬢さん。この〝炎夢〟の店主、レイス・フェリクスと申します。お見知りおきを」
レイスは、わざとらしく丁寧にお辞儀してみせた。そんな彼にフィオリトゥーラも名乗り、会釈を返した。
「またか。早えよ、〝D〟だぜ? みんな話題に飢えすぎだろ」
「そう言うな。ライマーさんのとこで話題になってたんなら、そこからここに届くまで半日もかからねえよ。なんといっても、今話題の〝ザリ〟の初戦の相手なんだしな」
そう言ってからレイスは、再びフィオリトゥーラの顔を眺める。
「しかし、噂半分と思って聞いてたが、本当なんだな……。ちょっと眩しいぐらいだな」
わざとらしく目を細めてみせるレイスの様子を見て、フィオリトゥーラは小さく首をかしげた。
「いや、あんたの反応はかなり淡白な方だぜ」
ディルが苦笑する。
「未来の上客に失礼があっちゃまずいだろう?」
「それ、クリスタに聞かせてやってくれよ。あいつは、思いっきりフィオの顔覗きこんでたから」
それを聞いてレイスが楽しそうに笑う。
「座る?」
ディルが、自身の隣の空いた椅子をぽんと叩いて示すが、レイスは首を横に振った。
「いやいい。顔見せに来ただけだからな。それに、〝訳あり〟じゃ俺がいちゃまずいだろ」
「人待ちだから別に構わないんだけどね」
「ま、ゆっくりしてってくれ。せっかくだから、その一杯は俺からの奢りにしてやるよ」
そう言うとレイスは背後の扉に手をかけるが、それをディルが制した。
「ちょっと待った。レイス、ひとつ訊きたいことがあった」
「なんだ?」
「ゲイン・ローランドって知ってる?」
レイスは少しだけ驚いたようにディルを見つめた後、その顔に笑みを浮かべる。
「なんだよ。もう、Aランクも射程圏内ってわけか?」
「そんなんじゃねえよ。ただ、ライマーが見かけたって言ってて、ちょっと気になったんだ」
自分でもなぜ気になるのかわからなかったが、そんなディルは意図せず神妙な面持ちをしていた。
それを見たレイスも茶化すのをやめ、自らの記憶を探った。
「ゲイン・ローランドか……。二か月ぐらい前にAランク登録されたばかりの奴だったな。剣律騎士団所属の剣闘士だ。剣律のくせに〝双剣〟を使う異端児なんてこともあって、そこそこ名が通ってる。額に〝十字〟なんか入れて、髪も服もド派手らしいぜ。歳も若い。十代だって話だから、おまえの一個か二個下ぐらいか」
「俺も〝A〟のリストは更新されるたびにチェックしてるから、ちょっとは知ってたんだけどさ。やっぱ強いのかな?」
「どうだろうな。ただ、一年かからずに無敗でAランク昇格したエリートだ。弱くはないだろう。双剣を使った〝剣〟は攻撃的で速く、かなり〝魅せる〟って噂だぜ」
「見たことはないんだ?」
「主に南部で闘ってた奴だからな。それに、〝B〟にそういう奴がいるってぐらいは話に聞いてたが、正直すぐに〝折れる〟とも思ってた」
レイスの言う「折れる」とは、順調に勝ち進んでいた者が途中で敗退し、そこで調子を崩す、あるいは死亡するか再起不能な大怪我でも負うかといったような意味合いで使われる。
「一年かかってないってことは、上のランクを喰いながら、ほぼ最短で試合組んでた感じか……。なかなか豪気な奴だね」
ディル自身もすでにAランクを視野に入れつつある立場だが、ここまで来るのに二年ほどの歳月を費やしている。
「このまま〝A〟でも順調に勝ち進めば、一気に名が売れるだろう。だが、〝剣律〟としちゃ、オーソドックス(剣盾)でもない〝異端〟が頭角を現すなんてのは微妙なところかもな」
「あそこは今、〝ヴェンツェル〟で盛りあがってるからいいんじゃねえの?」
ディルが、わざとらしくつまらなさそうに言う。
「そういえばそうだったな。来月の〝ガーデン〟で、正式な剣位授与が行われて、そのままムーンライト戦か。剣律もいよいよ覇権奪還に向けての第一歩を踏みだしたってわけか。教会の人間が〝剣位〟に名を連ねてたらしい聖地初期なんてのは、記録上は残っちゃいるがただの伝説に過ぎないしな。剣位を出したことはもちろん、今回、万が一にでもムーンライトを喰うようなことにでもなれば、剣律の評価は一気に跳ねあがるだろうな」
応じるレイスの弁には次第に熱がこもってきていた。
二人の会話を耳にしながらフィオリトゥーラはふと、ディルが「千の剣」でクリスタと話していた時のことを思いだす。
今はまだ慣れずとも、こうして剣闘士の話で盛りあがる光景を目にすることも日常になっていくのだろうか。そしてやがては、自身もまたそのように誰かと会話をする時が来るのかもしれない。
聖地の生活に馴染み、一人の剣闘士として、兄が目指したこの地の頂点を目指す。
自然とそんな未来の自分の姿を想像してみようと試みた瞬間、彼女は当たり前のようにぽっかりと空いている大きな穴の空虚さを再認識した。
そう。今のままでは、自分がこの聖地にいる意味など全て失われてしまうのだ。
フィオリトゥーラはうつむき、自身の手のひらを見つめた。
あの剣を……。
兄から託された剣を、私が愛したアルトゥラステリオという唯一無二の存在を、いかなるものと引き換えにしても、この手に取り戻さなければならない。
例えそれが、私にかけられた呪いなのだとしても。




